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2015年5月14日 (木)

これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その4:私の人生の意味は何なのか?)

資本主義社会が悪いとかそれを変えなきゃいかんなどと考え、自己矛盾に悩むなんてことは無意味であって、いまの人生を肯定してそれ楽しめばいいんじゃないの?  という「暗黙のアドバイス」は承知してるし、実際そう言ってくれる人もいる。私自身もあまり辛いときはときどきそういう方向に逃れようとすることもある。

この「暗黙のアドバイス」は、いま自分の人生を肯定できるような状況にある人にとってはリアリティーのあるものだろう。しかしとても自分の人生を肯定的にとらえることのできない状況にある人たちにとっては「そんな考えは毎日の食事をどう確保してどう生活したらいいのかと必死になって生きている者からみれば大変な贅沢だ」ということになる。所詮私は「プチ・ブル的知識人」の一人に過ぎない。だからこんなことに「悩む」ことができるのだ。
  私のような立場の人間を含め、いわゆる「中間層」と呼ばれる人々の日々の生活が比較的安定しているのは、低賃金労働を求めて次々と 「開発途上国」の労働力をグローバルに搾取し続ける資本家たちが上げる巨額の利益が資本家だけではなく、さまざまな形で「中間層」にも回ってくるからなのだ。それを見て見ぬふりをして「肯定的にとらえて人生を楽しむ」ことなどできるわけがない。
  実際、こ日本でも子育て世代では6人に1人が「貧困層」に入るとみなされる状態であり、「消費の拡大」は、富裕層の消費拡大とその「おこぼれ」に生きる人々の生活を潤しているにすぎない。世界に目を向ければ、グローバル資本がどんどん支配力を増していく中で、日々何千という難民が殺戮から逃れ海に漂い、その難民の生命をカネ儲けの道具としか考えていない密航斡旋業者が横行し、漂う難民を自分たちの都合で受け入れず死に至らしめている国々が多い。
 こんな状況を知りながら「自分の人生楽しければいいじゃない」なんて誰が言えるのか!
 かつて1950~60年代には、日雇い労働者で生計を立てながらユニークな視点でマルクス研究の成果を出していた田中吉六とか既成左翼政党の矛盾に抗しながら終始学生運動を独自の視点で支えながら貧困と孤独の中で自死した対馬忠行などというすばらしい知識人たちがいた。しかし恥ずかしながらとても私にそのまねはできない。
 「良心的知識人」が「リベラル派」あるいは「市民派」であり、権力迎合的知識人が「保守派」であるといった単純な切り分けはいまの世界では通用しないだろう。もちろん後者の権力迎合的知識人はつねに、時の権力の理論的サポートを自らの使命とする人たちであり、自分の富と地位のために犠牲となっている人たちの存在を顧みようともせず、つねに自分の人生を肯定的にとらえて「前向き」に、 人生を「楽しむ」ことができるような人たちであってこういう人たちはここでは論外である。
  前者の「良心的知識人」とはいったい何なのだろうか?たんに「反権力」や「市民の味方」を旗印にすることが「良心」なのであろうか?現に、「反権力」や「市民の味方」を旗印にすることで「リベラル派」のマスコミにつねに取り上げられ、それを自分の社会的使命とすると同時に生活の糧にしている知識人が多い。そういう人たちは高学歴と知識の豊富さで、社会的に安定した地位を得た上で、その上品で常識を越えない論理や高度な知的言い回しを駆使して「リベラル」ぶりをマスコミで披瀝する。だが彼らの意見や評論などを読むと、ほとんどの場合その内容の乏しさに気づく。いかに具体的データや最新の情報で固められていても、真実に切り込むリアリティーと「深さ」を感じさせないからだ。
 手厳しい言い方をすれば、そういう人たちは「保守派」の主張に反対する態度を示しながら、実はその足りない部分を補完する役目を果たしているに過ぎないのではないだろうか?
 私はそういう意味での「良心的知識人」こそ、いまの社会を覆い尽くしている支配的イデオロギーの陰の推進者なのではないかさえ思うことがある。
 さて、そこで私自身はいったいこれからどう生きて行けばよいのだろうか?平均余命まであと5〜6年しか残されていない人生をどう生きればよいのだろうか?これが日々わたしの頭の中で渦巻く思いである。
 いまのところその「答え」はこうである。いまの社会が成り立つ基盤における矛盾(経済的矛盾とそれを推進している政治権力の矛盾)と、それを暗黙の内に普遍化(永久化)し、あたかもその不完全なところを修正しながら人類の歴史の到達点に達することができるかのように見せようとするイデオロギーと、それを構成する具体的イデオローグたちの思想や理論に立ち向かい、その虚偽性や欺瞞性を明らかにしながら、真実を追究することである。
 とはいえ、実際にはこんな「かっこよく」行くものではないことも事実である。支配的イデオロギーを批判しようとする私自身の未熟さや誤りも当然あるので、私自身も批判の対象にならなければならないからである。そしてこの私への批判こそが私自身の次のステップへの糧になるのである。
 ところが現実にはそううまくコトが運ばない。このブログで私が自分の意見を述べても、それを「チラ」と見てくれる人は多いのであるが、まともに批判してくれる人はほとんど皆無である。空しいというべきか悲しいというべきか。しかしこれが現実である。
 そうなると私の主張はますますカゲキな方向に行きかねない。それを自己コントロールしようとすればだんだん支配的イデオロギーのわなに嵌まっていくことにもなりかねない。困ったものだ。しかし時間は待ってくれない。だからこのまま進むしかないだろう。

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