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2015年5月15日 (金)

これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その5: つまりはこういうことなのかも知れない)

つまりは、こうなのかもしれない。

自分が「自分」であるという意識がどこからくるのか? 

  自分は世界から孤立しそれとは無縁に「自分」を確立したわけではない。ある特定の歴史的な時代に、ある特定の場所で、そこに暮らす人々との関係において、自分の位置が決まってくるのであって、その中で「自己意識」が確立していく。内なる自分が確立するのは外なる「他分(他者それぞれの自分)」との関係においてであり、その自他を区別することを可能にするのがそれらの存在を可能にしている場所的・歴史的土台である。
  いかに自分の勝手に生きたいように生き、「人生を楽しもう」としてもそうである。何が「勝手」というかたちでの自由を可能にしているのか、何を「楽しい」と感じるのか、なぜ自分がそれを「楽しい」と感じるのかを考えてみればそれが分かる。
 所詮、人間はたった一人では生きて行けない。マルクスの言葉を借りれば、「類的存在」である。そうであれば「類的個」つまり社会的繋がりの中で初めてその意味をもつ「自己」という個の存在は、その社会が矛盾を生じ始めたとき、それを自己の存在危機として直感せざるを得ないだろう。逆にいえば、自分自身の存在の危機を感じるということは、日々の生活の中で自分を「自分」として位置づけることが出来ない世の中になりつつあるからであろう。
 だから世の中が自分を受け入れてくれない、とか世の中に入っていけないという思いから自死にいたるということは、その危機を暗黙のうちに他者に手渡し、引き継がせることを意味するのではないだろうか? まして、自分が死にたいのに他者をそれに引き込み「誰でもいいから殺したかった」などとして巻き添えにするのはどう考えてもわがままとしか言いようがない。
 ならば、自分を「自分」にしている世の中の真実を知ろうとすべきではないのか? そして自分の「置かれた場所」を知るべきではないのか?
 どこかの牧師がいうように「置かれた場所で咲きなさい」と「神」が命じたとしても、その「置かれた場所」が何なのかを知らずに「咲く」ことなどできない。それは「盲目的屈従」でしかない。
 もちろん 「耐えること」が悪いのではない、しかし「耐えること」が美しいのでもない。自分が何に耐えているのかを知ることが必要なのであり、そこからつかんだ真実が本当の自分への道をスタートさせるのであり、そこに向けて歩み出す過程でときには別の次元で「耐える」こともまた必要になるのかもしれない。
 精緻で高度な理論的解説よりも、時には、苦しみから生まれた一行の詩やブルースのような唄が何よりも真実を表現していることがある。どのような形であれ、真実を求め真実を表現することこそ、生きていることの意味を示すのではないだろうか?
 偉そうなことを言ったが、これも七十数年生きてきた一人の老人が、自分が自分であることの意味をいま、こう考えているというプレゼンにすぎない。
 さても生きるということは難しいことよ! されど生きていなければこんなことを考えることもできなかったのだ。

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