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2015年5月 1日 (金)

朝日新聞「耕論」における佐伯啓思氏の憲法見解への疑問

佐伯氏は「実は憲法というものがよくわからないのである」と言っている。これは私も同様である。そして氏はさらに「根本規範である憲法を正当化するものは何か、ということ」が問題であることを指摘している。私もその通りだと思う。氏は「近代憲法の根本は国家権力に対する個人の基本的権利の保護にある、としばしばいわれる」が「それは生命、財産、自由といった人権こそは人類の普遍的権利だからとされる」からだ、と述べる。確かにそうだ。そしてさらに、「ところが、他方で、近代憲法のもう一つの柱は国民主権である。つまり国家権力を構成しているものは国民の意思とされる。するとたちまち疑問が出てくるだろう。基本的人権保障という憲法の根本理念は、この国民の意思を制限し、それに対抗することになるからだ。」というのである。そして「憲法の根拠は、普遍的な人権保障にあるのか、それとも国民主権にあるのか、どうなのか」という原理的な疑問に突き当たるというのだ。

 そして氏はこの問題は、近代憲法の成立過程の歴史を見れば、ある意味で理解できると述べている。つまり、フランスにせよアメリカにせよ、王権を否定し、新たな市民政府を打ち立てるという血みどろの政治的変革と切り離せないから」であり王権という絶対的権力を排して政府を樹立し、その正当性を国民主権と基本的人権保障によって宣言したからであり、「だから、国民主権も基本的人権保障も、絶対王権や専制権力との対抗を想定しており、その限りでは一致する」と述べている。ここで「国民主権」の意味については留保するにしても私もそうだと思う。ところがこれに続けて佐伯氏は次のようにいう。「しかし、それでは市民が主権者である民主政治では一体どうなるのであろうか。ここでは整合性がとれないのである」という。ここで私には佐伯氏の見解に疑問を持ちはじめる。
  確かに、氏のいうように、絶対王権などとの闘いによって生まれた政府が近代憲法を持つのは分かるが、そうでない国、例えば日本のような国がこうした近代憲法の根本理念を絶対的なものとして宣言できるのか、という疑念が生じるのは理解できる。もちろんここでは「近代憲法」とか「市民」とか「国民主権」ということばの意味を精査する必要があるのだが、それはひとまず留保すればの話である。
 しかし、氏はコンスティテューション(憲法)とは「国のかたち」という意味でもあり、「国体」である、という。そして「政治体制も含めて「国のかたち」は歴史的継続性と変化のなかでその国固有のあり方で形づくられるものであろう」といい、「近代的憲法とは別に、その国固有の歴史的文脈に即した、いわば歴史的憲法というべきものがあってもよいのではなかろうか」としている。そして「日本人は自らの手で自らの国にあった憲法を構想しようという試みを怠ってきた」のではないかと結んでいる。
 佐伯氏の主張は、結局「自主憲法制定」を支援する見解なのだが、そこにひとつおおきなごまかしがある。それは佐伯氏も指摘するように「近代的憲法」は近代的国家の成立と切り離せず、その必然的産物であり、それゆえ近代的国家そのものが持っている矛盾を矛盾とせず普遍化しようとしているものである、ということである。
 近代的国家は、「国民」という形で、そこに暮らしその社会のためにそれぞれの持ち場で働く人々の階級と、本来社会全体のための財であるその労働の成果を、当然のごとく「私有」という形で吸い上げ、それをかぎりない利益追求競争に注ぎ込む階級が、経済的支配権を握り、その階級の人々が互いの経済的利害を政治的に調整する機関として「国」という理念を作り上げ、本質的に対立する二つの階級が、あたかも「国民」として同等な存在であるかのように描かれるのである。 だから近代的国家では基本的人権保障と国民主権が一致するかのように表現するのである。
 たしかに、そこに含まれる基本的人権保障はある意味で普遍的なものを含んでいるが、一方の「国民」という規定が虚偽であるがゆえに、両者の間に必然的に矛盾が噴出してくるのだと思う。いまや「国民の総意」とか「国益」とかいう言葉のもつ意味の虚偽性は働く人々にとって明らかになりつつある。「経済成長こそわがすべて」と叫び、働く人たちを踏み台にして「国益」を得ようとする政治家たちのもとで、「働けど暮らし楽にならざる」階級と、他人の生み出した富を一手に掌握し、それを投機や株でさらに増やして富んでいく階級の違いがますますあきらかになっている。資本論を読んでいないピケティーでさえ、その矛盾を指摘している。
 私はいまの日本国憲法が変えてはいけない絶対的なものであるとは思っていないが、少なくとも、日本が明治維新以後その近代化の過程で行ってきた国家間戦争が何であったのかを反省し、その過ちを繰り返さない社会を求めなければならないという戦後の日本社会に於ける共通認識を含んでいたと思う。当時のアメリカを中心とした連合国側の思想を反映したものであったことは確かであろうが、それはまさに、敗戦という歴史によってうまれたあらたな日本のかたちへの希望が表現されているのである。そしてそこにはアメリカ的民主主義の「よき部分」が純化されて表現されているのだと思う。
 佐伯氏のいう「近代的憲法とは別の、その国固有の歴史的文脈に即した、いわば歴史的憲法というべきもの」が何を意味するのか分からないが、すくなくとも現行憲法に含まれている戦争への反省からうまれた普遍的な内容に関しては、それをその国固有の憲法ではないといえる根拠はなにもないと思う。現行憲法こそ、戦争の反省を踏まえて戦後生まれ変わろうとした日本が生んだ固有の憲法なのではないだろうか?
そしてもしこの憲法に問題があるとすれば、そこに謳われ、いまやその矛盾が明らかになりつつある「国民」という概念の実体をあきらかにし、働く人々自身がその社会の主人公になるための闘いを経て、「国民」という虚偽を排した基本的人権の獲得を目指す内容にすべきなのではないだろうか。

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コメント

 野口さん、今晩は。

 5月1日付 朝日耕論下欄 異論のススメ(異論扱いと云うのも面白いのだが)、 私も読みました。ご指摘の通りです。くりかえしになってしまって余計なものになってもいますが、一言コメントさせて貰います。

 「5月3日は、憲法記念日だが、憲法を前にして、私は居心地がよくない。」と、佐伯京大名誉教授、保守の論客は云う。「“人権”を保護することが近代憲法の根本であるとしはしば言われるが、それは何故なのか。それは人権こそ人類の普遍的権利だから、とされているからのようだ。」

 「だが、もう一つ、「国民主権」も「憲法」の根本とされているようだ。」

 すると、たちまち疑問が彼に生じる。「“人権保障”が「国民の意思である国家権力」を制限し、それに対抗することになるではないか。」と、彼は云う。「どっちかだろう。どっちかが主役でなくては矛盾するではないか。」と。逆に云えば、「国民主権」が「人権」を脅かすことになるではないかと。(9条が資本の権利を脅かす。と云いたいのでしょう。)

 さすがに、見事に、彼は苦もなく、学者として、この問題を解決してみせる。フランス革命では、近代市民革命が王権と戦って、革命の中から市民主権と人権保障を獲得し、それを憲法に宣言したのである。主権も人権も絶対王政に対抗する意思として両立していたのである。と。

 そう。いいところまで到達しているのだが、国民も人権も階級もよく見えていない御仁には、日本国憲法がまったく革命を経過してはいないし、それどころか、敗戦・占領下のどさくさ紛れのいい加減なもので、改めて自らのそれを作る必要があるのではないか、となってしまう。

 もう王権が存在しないフランスで、そのブルジョワ憲法にどのような自己矛盾が発生しているのかについては、まだお勉強が進んでいないようだ。イスラム各国からの労働者に対して、その人権保障は未達であるし、主権も与えてはいない。

 彼が少しも触れていない点に触れたい。天皇象徴制と、天皇の憲法公布という特別のお仕事(96条)についてである。人間天皇に選挙権も被選挙権もないのはどうしてか、は、さておき。憲法を改正すると、天皇の国事行為である、公布が、天皇によってなされることが規定されている。もし天皇がいなければ、新改正憲法も公布され得ない。あるいは、天皇によって、公布が拒否されることも想定しうる。安倍にとっては想定外のことで、なんの不安もないかもしれないが、簡単に協力が得られるかは直面してみなければ分からない。原発事故並である。安倍解釈が天皇を支配できるだろうか。「憲法第96条」には、はっきりと書かれている。別の言い方をすれば、天皇制廃止を天皇が公布するという前代未聞の憲法大騒動にならないとも限らない。これって、「国民主権」にも「人権」にも対抗していないと云えるか。「王権」そのものではないか。日本国憲法の矛盾ではないか。どうしてだか、自民党もそのとりまき学者も、この人間天皇の政治的権利保障(普通の人間化、天皇制の廃止)や96条を改正する案を出すだけの市民革命派はいないらしい。今も昔も大日本帝国憲法復帰派なのかな。佐伯啓思先生の妄想もそんなところでしかないらしい。

投稿: mizz | 2015年5月 2日 (土) 14時57分

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