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2015年7月

2015年7月24日 (金)

自ら墓穴を掘った公明党

最近の週刊朝日に載っていた記事によると、公明党内で安倍べったりの現執行部への批判がくすぶっているらしい。(以下引用)

「元公明党副委員長の二見伸明さん(80)は公明党の罪を指摘する。
 公明党から「平和の党」という看板は完全に失われました。山口那津男代表をはじめとする執行部は、総退陣すべきです。
 山口代表が1990年に初当選したあと、私の議員事務所に来て、集団的自衛権について議論したことがあります。そのとき彼は、「集団的自衛権の行使は、長い間にわたって政府が違憲と判断してきた。それを解釈改憲で認めることはできない」
 と話していました。弁護士らしく、筋の通った話でしたよ。それがなぜ、安倍政権の解釈改憲に賛成するのか。いつ変節してしまったのか。まったく理解できません。
 今でも私と付き合いのある公明党の党員や支持者は、本心では全員が反対です。法案の意味を理解しようと思っても、意味がわからないからです。今こそ党員や支持者は、昨年7月の集団的自衛権の行使を認めた閣議決定から強行採決に至るまでの経緯を検証して、公明党執行部がどういう役割を果たしたかを総括すべきです。
 今回の安保法案は、審議に116時間もかけたのに、安倍首相からはまともな回答は一つもなかった。それに協力した公明党の行動は、万死に値します。」(引用終わり)

 まったくその通りと思う。私は公明党の支持者でもシンパでもないが、政権与党にしがみつくことばかりで、安倍の暴走にブレーキを掛けるチャンスは何度もあったにも拘わらず、何一つできなかったばかりか安倍政権が打ち出した一連の危険な政治的決定をむしろ推進させてきたのが公明党だ。
そして民主党があのメタメタなマニフェスト不履行による自壊で、何の思想的裏付けもなく、雰囲気だけのいいかげんな「リベラル」がいかにもろく、人々の期待を裏切るものかを思い知らせたあと、野党としての力を完全に失ってしまった以上、安倍・公明政権がどんどん暴走を続けることになるのは当然であった。
 「民主党政権よりはマシだ」という消極的支持が多数を占めた結果政権を握った安倍自民・公明政権は、それをいいことに、「アベノミクス」で実体的価値のない紙幣をどんどん増刷し、世界一の借金国の道を促進させて、そのバブルマネーを右から左に移すだけで莫大な利益を得る連中を生み出した。彼らのカネの一部が輸出型大企業や第三次産業にこぼれてきて、世の中景気がよくなったと人々に思わせながら、実は世の中を支える大多数の労働者はますます実質的な生活が苦しくなっていった。そうした「見せかけの好況感」で、安倍自民・公明政権は支持率を維持し、それを背景に対外的危機感を煽りながら「解釈改憲」と自衛隊の実質的国軍化を押し進めてきたのである。その結果が今回の安保法制強行採決という事態をもたらしたといえる。
 こうした流れの中での公明党の一連の動きは戦後70年の民主主義の歴史に大きな汚点を残したと言わざるをえないだろう。これで公明党の命は終わった。

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2015年7月22日 (水)

日本版産軍学コングロマリットへの道を阻止しよう!

 安倍政権のもとで防衛省の予算がダントツに増えたと思ったら、今度は防衛省から大学での防衛関連研究への研究費補助を公募することになったようだ。武器輸出三原則の撤廃もそうだが、これは安倍政権が一連の産・官・学共同軍事技術開発コングロマリットをつくろうという計画の一環である。

 大学はこれにどう対応するのだろうか?大学として拒否しても個人の研究者として応募することには歯止めが掛からない。おそらく一方で文科省が法文系の研究施設への予算を大幅削減していることと裏表の関係があるのであろう。
 つまりうるさい憲法学者やアベノミクスに異を唱えるような経済学者の研究にカネをだすことはやめ、安倍の目指す「新・富国強兵」体制に向けて一歩踏み出したといえるだろう。
 安倍政権は特に次世代を担う若者の教育・研究面での締め付けを厳しくしており、小中学校での歴史教育や道徳教育、そして高等教育での政府の政策にとって不都合な内容への締め付けを行うとともに、「スポーツ振興」や「オリンピック」へと若者の目をそらさせ、「アイデンティティー」や「愛国心」を醸成しながら「教育的洗脳」を行い、都合の良い方向へと国民的コンセンサスを導きながら、研究費の流れを産・官・学コングロマリット形成の方向に持って行こうというのであろう。
 そうした流れの背後には、「経済成長」と「積極的平和主義」という表看板のもとで、憲法改定と「富国強兵」へと民意の潮流を変えようとしている意図が見え見えである。
 しかし一方では、安倍が「地球を俯瞰する外交」とやらで多くの国家予算を使わせて、諸外国を歴訪する際に、大企業の幹部を大勢同行させ、「日本株式会社」のトップセールスを行ってきた中で、東芝の不正経理事件にも見られるように、 日の丸企業として原発や軍事技術のセールスを正当化し、その上にアグラをかいてきた大企業の腐敗の一角が露呈しはじめたのである。
 若手研究者は、この流れに乗ってはならない! それは自分たちの手で、やがては自分たちの首を絞めることになるからだ。そして、中国や北朝鮮の「脅威」をことさら強調して世論を煽り、安保法制の参議院通過をゴリ押ししようという安倍ブレーンの策略に乗ってはいけない!
 いまわれわれは歴史の岐路に立たされている。大企業の利益や投資家の利益がすさまじい勢いで蓄積していって「富国」になるように見えても、決してわれわれの生活は楽にならない(ピケティーが証明している通り)だろうし、改憲とそれによる「強兵」策は結局、「独りよがりの独裁者」安倍とその取り巻きブレーンたちの偏狭な保守思想の産物にしか過ぎない。中国や北朝鮮のあからさまな挑発を、良いチャンスとばかりに利用し、取り返しのつかない軍国体制に向かおうとしている現政権の政策は明治から1945年8月15日まで続いた富国強兵策の悲惨な結末と失敗の歴史を何一つ反省していないやり方なのだ。
歴史を繰り返してはならない!

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2015年7月20日 (月)

閑話休題: ハッツアンの「国家の責任」論

暑さで思考能力が著しく落ちているので、また落語で行こう。

クマ「おーいハチ、昨日のテレビ見たかよ?」
ハチ「仕事もカネもねえから朝からずっとテレビ見てたぜ」
クマ「そうか、そんなら話しやすいや。テレビで自民党の高村とかいうやろうがよ、「国民の支持率が落ちたといっても、責任政党であるわが党は国家としてやるべきことはやるのがスジだ」とか言ってたぜ、てめーどう思う?」
ハチ「言ってた言ってた。オレは頭に来たぜ」
クマ「どう頭に来たんだ」
ハチ「国家としてやるべきことっていったい誰が決めんのよ。自民党と公明党の偉いオヤジ連中が勝手に決めるんかよ! オレたちじゃねーのかよ」
クマ「憲法じゃ国民主権て書いてあるが、国民って自民のことか?」
ハチ「安保法制が国民を護るため国家としてやるべきことなら、それによって危ねー外国での戦闘で命落とすことも覚悟させられる自衛隊員は国民じゃねーのかよ?」
クマ「自衛隊員もそうだけど、オレっちだって、日本がアメリカ助けるために戦闘に参加すれば、その相手の国の軍隊から攻撃されるかも知れねーんだぜ」
クマ「だよな。国民を護るためとかいう国家っていったい誰を護るんだ!」
ハチ「「国家のため」とかいって国民を戦場に引っ張り出して命落とさせて、いったいだれがそんな嘘っぱちを吹き込みやがったんだ! 前の戦争でオレのオヤジが招集されて特攻隊で死んだときも同じだったんだぜきっと」
クマ「そいでもってよ、オマエのオヤジは靖国神社に祀られてるんだろ?」
ハチ「おうよ、「英霊」だってよ! ふざけんな!! 安倍のやろうがいくら玉ぐし捧げたってオレのオヤジは蘇らないんだぜ、トホホ....」
クマ「泣くな、いい歳して」
ハチ「ところでよ、オマエこの前の選挙で誰に投票したんだ」
クマ「威勢の良いことばかり言うから、自民党に入れちまったんよ。前に民主党が約束ぜんぜん守らなかったもんでよ」
ハチ「ばかやろー! よく考えて投票しろ! 」
クマ「で、オメーはどこに入れたんだよ?」
ハチ「公明党だ」
クマ「ばっきゃろ−!!! そういうのを「同じ穴のタヌキ」ってんだ」
ハチ「ムジナじゃなかったっけ?」
クマ「 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」

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2015年7月18日 (土)

閑話休題:新国立競技場

落語を一席

クマ「おい、ハッツアンおめえゆんべのテレビ見たか?」
ハチ「オリンピック・スタジアムのことか?」
クマ「おう、安倍ちゃんがでてきてよう「新国立競技場のデザインは白紙にもどします」だってさあ、あきれてものがいえねよ」
ハチ「そういえば「未来を想像させる斬新なデザインで、国際的に認められた案なので当初予算より多少余分にお金が掛かっても基本デザインを変更することはいたしません」とかなんとか言ってたのはついこないだだったよな」
クマ「おう、都知事も反対してたが安倍ちゃんに何とか言いくるめられて手を下げたようだったが、それより3000億ものカネを誰が支払うか知ってるか?」
ハチ「株で大もうけしたどっかの超富豪が出すのか?」
クマ「ばかやろー! 俺たちの税金から支払うんだよ!」
ハチ「え?マジかよ?」
クマ「アタボーよ、ベラボーメ。それなのに俺たちの意見も聞かずに勝手に金食い虫の大げさな競技場つくることに賛成して、クレームがつくと、そう簡単には変更できません、とかいって言い逃れしていたのに、いよいよ反対意見が大きくなってきたら、安保法制でゴリ押しして人気急落したのであわてて「白紙に戻します」だって、聞いてあきれらーな」
ハチ「ゆるせね〜!オレっちはここんとこまともな仕事もなくて、汚ねえ仕事にも手を染めねーと食っていけなかったんだぜ。 それなのにあんな馬鹿げた競技場のためになけなしの税金からそれを支払うなんて、マジゆるせねー!!」
クマ「おう、ま、これで少しは安くつくる方向に行くんだろうが、それにしても税金収めてるオレっちの気持ちなんぞぜーんぜん分っちゃいねーんだ。 そいでよー、安倍ってやろうはいつも「責任はすべて私にあります」とか言ってよー、まるで自分が世の中のすべてを仕切っているような言い方をしやがる! まったくゆるせえねー!」
ハチ「あんなやろーが「アベノミクスで経済を成長させればみなさんも豊かになれます」なんてったって誰が信用するもんか!」
クマ「おうよ、そんならアベノミクスとやらで上がった株で大もうけした野郎が新競技場の建設費みんな払えばいいじゃねーか」
ハチ「オレのもってるカブはちっとも高くならねーけど」
クマ「なんだオメー株もってんのか」
ハチ「ああ、3日前に八百屋の安売りで買ったカブでもうしなびちゃったよ」
クマ「.............................」

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2015年7月16日 (木)

歴史は繰り返すのか?(その2)

ついに安保法案が衆議院で強行突破されてしまった。

ここで、いささか私事に関わることなので忸怩たる思いもあるが、前回のブログで書いたことの補足と、その後考えたことを記しておく。

 私は1960年の第一次安保闘争には積極的参加しなかった。だが1970年を挟んだいわゆる70年安保闘争には積極的に加わった。当時大学院を修了したばかりの私は大学に助手として残ることが決まっていた。しかし、学生達との何日にもわたる徹夜の討論の中で、私は彼らの主張の正しさを感じ取り、学生達とともに闘争に加わる決心をした。自主ゼミを開講したり、国会周辺のデモに参加し、官憲から暴力をふるわれたこともあった。しかし、やがて学生の運動は一方で過激さを増すとともに、同時に大衆の支持を失い、敗北していった。私は学生運動に関わったことを理由にそれから11年間にわたり事実上業務から外され、「干され」続けることになった。30歳代は研究者としてもっとも成長できる時期であったが、私はそれを完全に失った。何のために自分が存在してるのかが分からないということはつらいことであった。しかしもとより覚悟の上でのことであったから耐えるしかなかった。その間私はマルクス関係の本を読みあさった。
 幸いにも40歳を過ぎた頃、私はある教授のお陰で業務に復帰することができ、それから研究者として自立するための必死の努力をした。そしてなんとか大学での研究歴と職歴を重ね、10年ほど前に定年を迎えたのである。
 その間、世の中はバブルを挟んで「なんとなくクリスタル」なのに「限りなく透明に近いブルー」な時代を経て、長期の不況という事態に入り、学生達の就職もままならなくなっていった。一方で人々はほとんどが「中流意識」を持つようになるとともに他方ではいわゆる「格差社会」化が進んでいったのである。しかし多くの若者達は社会の動向や世界情勢への関心から遠のき、漫画やゲームに血道を上げ、中年層も、「IT革命」の中でビジネスに埋没していった。
 私はリタイアした後になって、自分の専門領域(デザインの創造性に関する研究)のもつ矛盾に悩み出し、悶々としながら再びマルクスの資本論と取り組む日々が訪れた。
 そのひとつの結論が「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会に向けて」(海文堂 2014)という本に書いた内容である。しかし、もちろんそれだけが結論でないことは充分に承知している。私の悩みはまだまだ続くだろう。
 そしてかつて学生運動を担っていた仲間たちは、いまやほとんどが「ノンポリ中間層」となり、もっぱら趣味の世界に生きているのを見て、実に苦々しい思いをするのである。
 結局、 安倍は「安保条約もPKOもあれだけ反対があったのに、いまは国民のほとんどが当然のことのように許容しているではないか」と言いたいのであろう。そしてまさに過去の反対運動はそのような結果を生んできたのである。「経済大国ニッポン」が音をたてて崩れていく中で、矛盾と腐敗だらけになった自民長期政権はいったん崩れるべくして崩れたのだが、それに取って代わろうとした民主党政権の見るも無惨な崩壊と敗北が安倍政権のいまをもたらしたのだ。「ほかの政党よりましだから」という理由で自民・公明同盟に投票した多くの人々はいまになって安倍政権の本性を知り、「なんとなくリベラル」な意識をよみがえられ、安保法案への反対運動に加わっているのかもしれないが、それは安倍政権の手のひらの上で展開されているデモでしかないのではないだろうか? 安倍はしばらくはガス抜きをやらせておけばいいと考えているにちがいない。そんな事情もあって、私はいまの安保法案反対のデモに加わることに積極的になれないのである。
 もちろん反対運動そのものに異議を唱えるつもりはない。もっと盛り上がってほしいと思う。だがしかし前回選挙で安倍自民党とその同盟である公明党を「なんとなく」支持した人々が多数派を占め、議会では安倍政権が提出する議案のすべてがどんどん可決されていってしまうことになるのはその必然の結果なのだ。いま安保法制に反対する人が60%を超えたそうであるが、ならば何故あのとき自民・公明に投票したのか? それへの反省からしか新たな状況は生まれないだろう。
 残り少ない人生でどこまでの「結論」が出せるのか分からない。しかしそこに向かって歩むしかないと思う。

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2015年7月15日 (水)

歴史は繰り返すのか?

いよいよまもなく衆議院で「安保法制」法案が強行突破されようとしている。思えば1960年にもこれとよく似た状況があった。安倍現首相の祖父である岸信介首相が、安保条約改定を、人々の反安保を叫ぶ大デモや運動を無視して強行採決したときだ。私は当時大学に入学したばかりだったが、デモに共感しながらも参加しなかった。同級生がデモに参加し、警察に捕まったことを覚えている。そして今回も私はデモに共感しながらも参加していない。なぜか?

 あの60年安保反対の大デモンストレーションの中で、人々は大勢の仲間と一緒にいるという繋がり感や意識の共有感を持てたのだと思う。そして今回もだ。これは非常に大切なことであり、必要なことだと思う。しかし、60年安保の強行突破の後に訪れた反対運動の担い手の虚脱感、虚無感を忘れることができない。そして今回もまたそれを繰り返すことが目に見えている。
  岸政権もそうであったように安倍政権も「のど元過ぎれば熱さ忘れる」という事実を見据えている。決まってしまえば、あとは反対運動などやっている連中はいずれおとなしくなり、国民はその法律があることを当然の既成事実として認めて行くことになる、と読んでいるのだ。そして岸政権の場合は事実そうなった。日本は当然のごとくアメリカの軍事力の「庇護」のもとに置かれ、沖縄は東西冷戦の基地と化した。
 そして時代は変わり、東西冷戦状態がなくなり、アメリカの経済力・軍事力が相対的に低下してきた中で、欧米の資本主義文明に反抗するイスラム過激派が巻き起こすテロや戦争に資本主義化したロシアや中国が、 経済・軍事両面の入り組んだ関係をもって絡んでくるという複雑な様相を呈する現実が訪れた。
 その中で、日本が東アジアでアメリカの国際警察的役割の一部を担わねばならなくなってきたというとらえ方をしているのが安倍政権であるし、これはアメリカの要求でもある。そしてやがては憲法を改定して自衛隊を「国軍」として確立させ、米軍に代わって日本国軍を反欧米・反日陣営の攻撃への備えにしなければならないというミッションを自分に課している。
 この安倍式の図式に嵌まる以上、これが当然の方策となり、いくら「安保法制は憲法違反だ!」と叫んでみても、「じゃ憲法を改定しましょう」という返事が待っているだけである。だからいまの反対運動の状況では勝ち目はないし、民衆デモも結局は安倍政権には何の痛手にもならないだろう。
 問題は、いまの日本が憲法9条を改定して、自衛隊を国軍にしなければならない必要がどこにあるのかである。確かに中国や北朝鮮は軍事的脅威と見えるが、彼らが憲法で軍隊を持たない日本を本当に攻撃し、侵略してくるかという問いには「ありえない」としかいえないだろうし、もし仮に日本が憲法を改定して国軍を持ち、軍事大国になったとすれば攻撃や侵略への「抑止力」になるかといえば、それはむしろ逆に攻撃や侵略の正当化の口実を与えることになるだろう。
 戦争とはつねにすべての戦争当事国がその戦争を他国から自国を護るために始めた「防衛戦」であるとして正当化するものであり、その背景に相手国の軍事力が脅威になってきたという把握がある。
いまやかつて第二次世界大戦当時のような世界ブロック経済体制はなく、経済体制はグローバルな資本によって支配されている。このグローバル資本にとってはどんな理由があっても経済的に損になる関係は長続きしないのである。だからかつてヒトラーがゲルマン系住民が多いという理由でチェコのズデーデン地方を軍事的抵抗なく侵略したようなことは現代ではありえないといえる。ウクライナ問題にしてもロシア側が行おうとしているウクライナの東部併合はロシアにとって致命的な経済制裁を受けることは明白であり、実現出来ないであろう。
 本当は、こうした世界経済を支配しているグローバル資本と戦うためには、「国家の壁」を超えて各国の労働者階級同士が互いに手を結び、団結することこそが重要なのである。
 国軍の強化による戦争抑止という発想やナショナリズムの宣揚は、古い世界観をいまだに引きずる政権の発想であり、しかもその発想自体がグローバル資本主義にとっても本当はリアリティーが薄れているのである。だからこそ、あの強大な軍事力をもっていたアメリカでさえその図式から手を引きつつあるではないか。そしてアメリカはむしろそうした安倍政権の古い体質とそれを支持する国民のバカさ加減を利用しようとしているのである。
 こうした現実を踏まえたうえで安倍政権をとらえていくことがなければ、反対運動は60年安保闘争と「同じ穴のムジナ」とならざるえを得ないであろう。

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2015年7月 8日 (水)

洗脳技術の浸透に気づけ

 最近思うことは、世の中で知らない間に洗脳技術が飛躍的に拡大浸透していることだ。

例えば、イスラム「過激派」といわれているISへの勧誘もそれだ。西欧の若者達がブログやSSNを駆使した勧誘で誘い出され、洗脳され、自爆テロを行う気にさせられてしまう。
  もちろん、その背景には、西欧社会での労働者階級や学生などの、宗教・人種の差別という外観を持った根深い階級対立があり、それへの反抗があることは忘れてはいけないし、それに呼応するかのように「反西欧社会」の急先鋒としてISなどの活動が急拡大しているという事実があるのだが、それにしても自爆というかたちで命を捨ててしまうことにはそれほど簡単には同意できないはずだ。そこには最新の応用心理学的手法を駆使した洗脳技術があることはたしかであろう。そしてこの同じ手法が、いまの資本主義社会で惨めな被搾取者の立場に置かれている若い労働者たちやその予備軍としての学生たちにも適用されているといえる。
 例えば、「愛社精神」とか「家族的結びつきによる結束」という形で、企業への帰属意識や忠誠意識を高めることはかなり一般的に行われている。「愛社精神」とか「家族的結びつきによる結束」が悪であるというわけではないが、それによって、すでに過去において労働者たちによって生み出された膨大な価値の蓄積が、その疎外態である資本の力として、労働者自身の上に労働の搾取という形でのしかかっているという事実、そしてそれが幾重にも支配の構造をつくっている資本家たちの企業ピラミッドにおいて、下層にに位置する中小企業では、親会社からの不当なコストダウンへの要求や、労働の合理化(つまり労働者の首切り)あるいは、競合他社との熾烈な競争に勝つという圧力として労働者に過酷な労働を強いているという事実を覆い隠してしまうのだ。
その結果、まじめな労働者ほど会社の仕事のためつまりは資本の競争と増殖に貢献するために自分の生活や人生のすべてを、時には「よろこんで」犠牲にしてしまうことになるのだ。
 学生においても卒業間近となり就職期に入ると、「就活」(つまり労働市場への労働力商品の売り込み)が始まり、学校側もその指導と称して、面接や入社試験に通るための技術を教える。学生達は、こうして本当の自分ではない「あるべき自分」をいかにうまく演じるかに苦慮する。
 こうして「めでたく」就職できたとしても労働のリアルな現場は厳しいものである。本当の自分をさらけ出すこともできず、日々つらい仕事の中で自分自身をもだましながら生活しなければならない。そこでは疎外された労働をなんとか「やる気」を出して乗り切ろうと苦慮する自分と、それを雇用者側の立場から利用しようとする場が生まれる。こうした中で、企業側では、従業員の「やる気」を出させるために前述した「愛社精神」や「家族的結束」をもたらすべく、研修や社員教育という形で、さまざまな「洗脳」を行うのである。禅寺に合宿して座禅を行うなどもそのひとつである。しかし、それにも拘わらず やがてそのストレスが蓄積し病気を引き起こすことにもなり、それが原因で退職する者も出てくる。さらにはその蓄積したストレスが一気に爆発して自殺や殺傷行為へと悲惨な結果を生むことさえある。
  そして大学の研究者や教育者は応用心理学、脳科学、経営学などという領域でそうした「洗脳技術」の研究を行っている。そういう研究者の中からマスコミでもてはやされる「有名人」も登場したりする。
 また労働力(人間の能力)という商品ではなく、モノとしての商品の宣伝という分野においても、いかに購買者の意識を「買う気」にさせるかという形で 「洗脳技術」は駆使されている。商品の正確な内容よりも架空のイメージをそこから引き出して「その気」にさせようと努力するのである。要するに資本主義社会がそれによって立つ、全面化した商品経済社会での商品市場とは実際の価値よりもいかに高い価格で売れるかがすべてなのである。いうなれば「だましの社会」なのである。こうした社会では、つねに人間の在り方そのものがきわめて歪んだものにならざるを得ない。
 しかし洗脳技術の研究は、元を正せば軍隊の中でもっとも古くから盛んに行われてきたのである。軍という組織ではいかに個人としての個性や特性を抑え込み、組織に奉仕できる人間を育てるかが至上命令である。そして戦争ともなると、「国家」の名の下にその国に住む人々すべてに対して同様な「洗脳」がマスコミや世論の操作を通じて行われ「国家への忠誠心」を煽るのである。
百田尚樹氏が好んで描く特攻隊員の心も世界も、こうしてあるがままの自分と「あるべき自分」として押しつけられたイメージの間での深刻な葛藤の段階を経て、最後に本当の自分を否定して、「お国のために命を捧げることが自分の存在意義なのだ」というところに追い込まれた結果といえるだろう。これこそ国家権力によって生み出された「非常時」という状況のもとで、国家という幻想共同体に自分の実存の意味を見いださせるおそるべき洗脳の結果であるといえるだろう。
 そしてそれを推進した国家の権力者たちとその犠牲者たちが同じ神社に「英霊」として祀られるという悲劇もまた現実なのである。
 だまされてはいけない! あの戦争の悲劇を繰り返すことのないよう、無防備に洗脳されることなく、 目の前で起きつつある現実の真実の姿を見いだすことがいまもっとも必要なことではないか?

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