« ハマダユウジさんのコメントにお応えして | トップページ | 「市民」という覆いをかけられた労働者階級 »

2015年8月31日 (月)

8.30安保法制反対デモをめぐって

 昨日(8月30日)国会前で大規模な反安保法制のデモが行われた。海外でもこのニュースは大きく報じられた。このデモはかつての60年安保闘争とは全く様変わりし、「市民参加」の整然としてデモだったようだ。

 私はこのデモが8月30日に行われることを知っていたが、結局参加しなかった。55年前の国会デモのときも参加しなかった。1960年当時はまだ大学入学直後で右も左も分からなかった時で、ニュースなどを聞いて、なんとなく怖かったのだ。
しかし、今回は違う。「怖さ」はまったくなかったし、当日まで「行ってみようかな?」と迷っていた。リベラル派の新聞などでは、市民一人一人の意志で参加するデモであり、かつてのような組織や政党の指導の下で行われるデモでなかったことは、まさに民主主義が根付いた証拠だ、という論調が多かった。たしかにある意味そうかもしれない。
 しかし、かっての60年安保を体験したインテリ・知識層の中には、今回のデモに参加しないのは「市民」としての資格がないとまで言う人がいるようだ。これにはいささか抵抗を感じる。
 ここで私がなぜ参加しなかったのかその理由を述べると何となく弁解がましくなるので気が引けるが、敢えていえば、この時代、「市民」と言われ、「市民」であることを自認している人たちの社会観や歴史観がいかにも浅すぎるように見えるし、多聞にそのときの状況的雰囲気(例えば、偉い大学の先生や法律家までもが反対してるから、やはり反対すべきなのだろうといった)に乗っているようにも思えるからだ。たしかに「私の子供が戦争に参加しなければならなくなるのはイヤだ」という主婦の感覚は間違っていない。
しかしそのレベルに留まっているかぎり、安倍政権の論理には勝てないだろう。彼らは「戦争を起こさないようにするために安保法制が必要だ」というし、「他国から攻められた時に「座して死を待つ」ようなことでは市民の安全を守ることはできない」と主張する。これら安倍政権の主張はごくフツーの「市民感覚」に基づいたものなのだ。
 いま自ら「市民」を自認する人々は、社会の中で起きている事実に目を向け、「市民」とは何か?をもう一度問い直し、 そこにはらむ欺瞞性に気づき、「市民意識」を超える意識(それは階級意識である)を持つべきであろう。特に影響力のあるインテリ・知識層はその責任は重大である。こうした軸ができない限り、安倍政権の危険な主張を根本からひっくり返すことはできないだろう。
いわゆる「市民社会」というイデオロギーの持つ欺瞞性を明確なしかも深い歴史観にもとづく思想から見抜き、主張することから、ほんとうの社会変革が始まるのではないか。明確な社会観や歴史観があるならたとえ自分一人でもその主張をアピールすべきだろうし、偉そうな顔した先生達が賛成しても、それに堂々と反論を唱えられなければダメだろう。デモに参加する人のすべてではなくとも、少なくともそれを先導する人たちはそうであるべきだと思う。
 さもないと、いつかはそのデモで盛り上がった雰囲気は「市民感覚」の中に潰えて行ってしまうだろう。この気持ちは、あの60年安保、そしてその後私も積極的に参加した70年安保闘争の盛り上がりが、その後結局社会を変革できなかったことへの私なりの反省である。

|

« ハマダユウジさんのコメントにお応えして | トップページ | 「市民」という覆いをかけられた労働者階級 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

「資本家 労働者 ウィンウィン」と検索をかけてこのブログにたどり着きました。、『「市民」とは何か?をもう一度問い直し、 そこにはらむ欺瞞性に気づき』という指摘、どうもありがとうございます。私は、8月30日、国会前に行っておりました。しかし、そこに赤ん坊を抱えた若い女性までも来ていることに疑問を感じました。韓国のデモでは機動隊が催涙ガスや給水車からホースで冷水を浴びせたりしているのに、日本では絶対デモ参加者に危害を与えることはないと思っているんじゃないか、そんな甘い認識があるんじゃないかと感じました。たぶん「闘う」という意識はなく、自分の意見を主張したい、という思いで集まってきたんじゃないでしょうか。法案成立を阻止できなかったのは当然かもしれません。

投稿: さまよい人 | 2015年9月27日 (日) 09時48分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ハマダユウジさんのコメントにお応えして | トップページ | 「市民」という覆いをかけられた労働者階級 »