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2015年8月

2015年8月31日 (月)

8.30安保法制反対デモをめぐって

 昨日(8月30日)国会前で大規模な反安保法制のデモが行われた。海外でもこのニュースは大きく報じられた。このデモはかつての60年安保闘争とは全く様変わりし、「市民参加」の整然としてデモだったようだ。

 私はこのデモが8月30日に行われることを知っていたが、結局参加しなかった。55年前の国会デモのときも参加しなかった。1960年当時はまだ大学入学直後で右も左も分からなかった時で、ニュースなどを聞いて、なんとなく怖かったのだ。
しかし、今回は違う。「怖さ」はまったくなかったし、当日まで「行ってみようかな?」と迷っていた。リベラル派の新聞などでは、市民一人一人の意志で参加するデモであり、かつてのような組織や政党の指導の下で行われるデモでなかったことは、まさに民主主義が根付いた証拠だ、という論調が多かった。たしかにある意味そうかもしれない。
 しかし、かっての60年安保を体験したインテリ・知識層の中には、今回のデモに参加しないのは「市民」としての資格がないとまで言う人がいるようだ。これにはいささか抵抗を感じる。
 ここで私がなぜ参加しなかったのかその理由を述べると何となく弁解がましくなるので気が引けるが、敢えていえば、この時代、「市民」と言われ、「市民」であることを自認している人たちの社会観や歴史観がいかにも浅すぎるように見えるし、多聞にそのときの状況的雰囲気(例えば、偉い大学の先生や法律家までもが反対してるから、やはり反対すべきなのだろうといった)に乗っているようにも思えるからだ。たしかに「私の子供が戦争に参加しなければならなくなるのはイヤだ」という主婦の感覚は間違っていない。
しかしそのレベルに留まっているかぎり、安倍政権の論理には勝てないだろう。彼らは「戦争を起こさないようにするために安保法制が必要だ」というし、「他国から攻められた時に「座して死を待つ」ようなことでは市民の安全を守ることはできない」と主張する。これら安倍政権の主張はごくフツーの「市民感覚」に基づいたものなのだ。
 いま自ら「市民」を自認する人々は、社会の中で起きている事実に目を向け、「市民」とは何か?をもう一度問い直し、 そこにはらむ欺瞞性に気づき、「市民意識」を超える意識(それは階級意識である)を持つべきであろう。特に影響力のあるインテリ・知識層はその責任は重大である。こうした軸ができない限り、安倍政権の危険な主張を根本からひっくり返すことはできないだろう。
いわゆる「市民社会」というイデオロギーの持つ欺瞞性を明確なしかも深い歴史観にもとづく思想から見抜き、主張することから、ほんとうの社会変革が始まるのではないか。明確な社会観や歴史観があるならたとえ自分一人でもその主張をアピールすべきだろうし、偉そうな顔した先生達が賛成しても、それに堂々と反論を唱えられなければダメだろう。デモに参加する人のすべてではなくとも、少なくともそれを先導する人たちはそうであるべきだと思う。
 さもないと、いつかはそのデモで盛り上がった雰囲気は「市民感覚」の中に潰えて行ってしまうだろう。この気持ちは、あの60年安保、そしてその後私も積極的に参加した70年安保闘争の盛り上がりが、その後結局社会を変革できなかったことへの私なりの反省である。

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2015年8月29日 (土)

ハマダユウジさんのコメントにお応えして

ハマダユウジさんという方からコメントがあった。コメント欄をご覧下さい。

その通りだと思います。安倍首相とその取り巻きは、かつての東西冷戦の中、岸内閣当時に出来上がったアメリカとの同盟関係が半世紀の間に起きた世界情勢の激変の後、ほころびを見せているので、最近の中国の習近平指導部による反日キャンペーン(実は中国国内で吹き出している矛盾から目をそらせるために行っている)という挑発を巧みに利用して(見方を変えれば習近平政権の思うつぼに嵌まって)国内の世論を煽り、アメリカとのより強固な軍事同盟を築こうとしているのだと思います。
アメリカはもはや 1960年当時の繁栄からはほど遠く、いま経済状態は一息ついているようですが、実は内外の矛盾や難問が山積し、人々はパックス・アメリカーナを護るために「世界の警察官」を自認して長年関わってきた戦争に対して嫌気がさしており、ますます内向きになってきています。オバマ大統領の掲げた核廃絶による世界平和への理想もいまや萎んでしまい、共和党の道化役者トランプが叫ぶように「アメリカは日本が攻撃されたら護らねばならないのに、日本はアメリカが攻撃されても護らなくてもいい、おかしいんじゃないの?」という気分が多くのアメリカ国民の間にあるようです。つまり経済的には中国に大きく依存しているアメリカは、日本と中国の間で軍事的衝突が起きた場合、日本が独自の軍事力で対処してほしいのです。
 安倍政権はアメリカとの安保法制体制を固める一方で、その先に憲法を改定して日本の国軍を持とうとしています。これが彼の政治生命を賭けた「闘い」なのでしょう。「他国から攻撃されたら自国を護る、当然のことじゃないですか?そのために軍隊が必要なことは明らかです」というわけです。
 これは「サルでも分かる」単純な考え方なので多くの日本人が「そうだ、そうだ」と思うようですが、しかし、世の中こんな簡単には行きません。
 そもそも近代における国家間の戦争というものが歴史的にみて近代特有の現象です。恣意的に引かれた国境線を挟んで、小さな島の取り合いや資源の取り合いなどをきっかけにその国を支配する権力者が 「国家」の名の下にその国にすむ人々が直接的には何の恨みもない他国の人々と殺し合わねばならない状況に追い込む。それが発端で憎しみが憎しみを生み、互いに憎しみの塊となって総力戦を繰り広げ、無差別な殺し合いが行われ、本来戦争などとは何の関わりもない人々の膨大な人命が失われ、街や村は破壊される。それを繰り返してきたのです。戦争はいつも交戦国双方が「相手が仕掛けてきたから自国を護るために始めた」といって始まるのです。
 こうしたことを多大な犠牲のもとで認識し、反省した結果がいまの憲法です。この数百万の犠牲の上に築かれた現行憲法を簡単に改定し、国軍を持つということは、少しも「当然のこと」ではなく、安倍首相とその取り巻きがあの戦争を全く反省していないことの証拠です 。
 いまの流動化する世界情勢やきわどい世界経済の状態を見ても、いまアメリカ一辺倒の軍事同盟や通商条約を結ぶことがどれほど危険なことであるか、「前世紀的頭脳集団」でしかない安倍政権にはまったく分かっていないのです。

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2015年8月26日 (水)

グローバル資本主義経済体制の崩壊が始まった(その2)

 中国発世界同時株安に対処するため、また中国人民銀行が利下げを行った。ヨーロッパでは株価が上がったようだがアメリカでは一旦上がってまた下がった。さて日本ではどうなるか?と投資家や企業経営者は気を揉んでいるようだ。

 なぜ株価の上下がこんなに大きなニュースになるのかといえば、直接株で大儲けをしようという投資家や、資金調達が不調になり、会社の経営に対する信用が問題になる経営者はもちろんのこと、企業の業績が悪化すれば雇用されている労働者の賃金が厳しくなり、場合によっては解雇という事態にもなり得る。さらにいまの日本のような超高齢社会で年金を頼りに生活している多くの高齢者にとっては、年金の原資が投資などの運用によって賄われているため、株価が下がれば原資が目減りし、それが続けば、年金の減額に繋がる。つまり株価の上下が株とは無縁なはずのわれわれの生活を脅かすことにもなるのである。
 しかも現代資本主義経済では、いわゆる「実体経済」を遙かに超えた流動過剰資本としてのマネーが世界中をもうれつなスピードで回転し、過剰な消費によってその見かけ上の価値が維持されているために、消費の低迷や単なる思惑などで株価が上下し、この莫大な量のマネーが一瞬にして価値を失うことにもなるのだ(もちろんここでいうマネーは貨幣だけではなく株券や信用といわれる形がほとんどである)。
 この膨大な「根無し草」的なマネーが世界の経済を支配し、そのもとで、実際に社会のために労働し、価値を生み出している労働者たちが、その生み出した価値の大半(剰余価値部分)を「合法的」に持って行かれた上に、そのマネーを動かす連中の思惑で膨れあがったり縮んだりする価値によって生活を振り回され、 もっともその被害を被っていることになる。
 さらにいえば、この「根無し草」的なマネーをどんどん生み出すことで経済を活性化させようというアベノミクスがいかに危ういものであるか、もうそろそろみんな気がつき始めたのではないだろうか?
 アベノミクス(これは決して安倍政権が考え出した政策ではない)に代表される現代資本主義経済の経済政策では、景気が低迷し、労働賃金が下がり、消費が縮小し、物価が下がりいわゆるデフレ状態になると企業の利益が減り、税収も減って政府の財政もうまく行かなくなるので、景気浮揚策として金利を下げてマネーの回り方をよくしたり、それでもだめなら貨幣を増刷し、国債発行などにより国家が莫大な借金を負いながら銀行にこれを買わせ、その信用を一定程度維持させて市場に流通するマネーの量を増やすことで、それを動かすことにより得られる利益を増加させ、企業の利潤増大による労働賃金の一定程度の高騰を図り、その高騰した分をすべて労働者の生活資料購入に振り向けさせ、それらの商品を製造販売する企業が利益を増大させることにより資本家全体で獲得する利益のパイが大きくなるという「好循環」を目論む。こうして労働者たちは実際には生産的労働者でありながら「消費者」としておだてられ、ガラクタや無駄な消費で溢れた「豊かな生活」を築くことで資本家のために賃金のほとんどすべてを捧げつくすことになる。
 しかし、この「根無し草」的マネーの増大による見かけだけの「好循環」は、当然かならずどこかでその矛盾を噴出させ、例えば経済状態が悪化し国債の償還が不可能になったりすればたちまちその国の財政は破綻する。仮にもし比較的長期にそれが維持されたとしても、その結果は必ず一部の資本家が莫大な利益を得、絶対多数の労働者たちの生活は貧困化する。これはあのピケティーも証明している通りだ。
 250年以上続いた資本主義経済体制はもはや末期的状態なのである。EU内(ギリシャなど)で度重なる経済危機や財政破綻、いまやグローバル資本の立役者となった中国経済の崩壊を予兆させるきしみ、それによって右往左往するアメリカや日本そしてヨーロッパ諸国、さらにブラジル、インド、ロシアなどの「新興」資本主義諸国の混乱を見てもそれは明らかだろう。

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2015年8月25日 (火)

グローバル資本主義経済体制の崩壊が始まった(その1)

 今年の春頃からしばしばマスコミでも取り上げられてきた中国経済の低迷が、このところの世界同時株安で、いよいよ顕著になり、もはや「低迷」ではなく「崩壊」の始まりを予兆させるような状態となってきた。これは単に中国経済の崩壊だけではなく、グローバル資本主義経済体制全体の崩壊を意味するかもしれない。

 1980年代に鄧小平の「改革開放」政策により「市場経済」(資本主義経済体制)を導入し、世界市場の一角に参入してきた中国は、政経分離の立場を取りながら、共産党独裁政権のもとで、国内の労働者や農民の労働力を資本主義的な労働力商品化することにより、世界市場における労働者の生活水準の差からくる、労働力価格の大きな差額を強力な武器として利用して、瞬く間に、低価格商品で世界市場を席巻し、大きな貿易収入を得ていった。それをテコに、さまざまな産業を政府指導で育て上げ、労働者階級の一部は、賃金の高騰により奢侈品的生活資料を購入できるようになり、それによって今度は欧米や日本の資本家企業の生み出す奢侈品的「ブランド商品」にとって最大の消費市場を形成することになった。そしてそれらの取引が生み出す収益から国家は莫大な税収を得て財政も急速に豊かになった。
 1990年代のソ連崩壊後、東側の経済をグローバルな市場へと引きずり込み、紆余曲折を経ながらも2000年代初頭に何とかふたたび繁栄期を向かえたアメリカ、ヨーロッパ、日本を中軸とする資本主義陣営も、こうした中国を世界資本主義経済を支える格好の市場としてとらえたのである。ところがそれが2008-9年の「リーマン・ショック」でもろくも崩れたのである。 しかし、そのときには中国経済がまだ「成長期」にあったため、何とかこれをつっかえ棒にしてグローバル資本主義体制は立ち直ることができた。
 ところが、今回の世界同時株安は、世界資本主義体制にとって、もっと事態が深刻である。というのも、中国経済を支えていた製造業の貿易収入は、国内の労働力価格の高騰によって、競争力を失いつつあり、これまでに蓄積された資本を回転させる役目を果たしてきた不動産業も行き詰まり、個人投資家の投資意欲を削ぎ、政府がいくら通貨政策を駆使して経済体制を維持しようとしても無理な状態となってきたからである。
 そもそも、資本主義陣営は、第2次世界大戦以後、一方で社会主義体制がスターリン派による「一国社会主義政策」のもと、独裁的政治経済体制を固定化し、事実上、労働者・農民の政府ではなくなってしまったことによる経済の閉塞と停滞に陥ったことに助けられ、他方では、ケインズらの理論にもとづく、過剰資本の処理体制としての「消費駆動型」経済に変貌して行くことにより「市民主導の自由と民主主義」というイメージを確立していったのである。
 この体制は、実は外面的には「市民主導の自由と民主主義」に見えるが、経済的には、過剰消費によって成り立つのであり、過剰消費の最大の源である労働者の生活資料商品の奢侈品化やレジャー・観光などの第3次産業を頼みにする一方、もう一つの莫大な過剰消費の源である「戦争」を必須の基盤としているのである。事実、第2次世界大戦という莫大な人命と資源の消費による軍需産業の膨大な利益がアメリカの戦後資本主義体制の経済的基礎を築き上げたのであり、その後も、東西冷戦状態をテコとした朝鮮戦争やベトナム戦争などが経済成長には事実上「必要」であった。
 そしてレーガンやブッシュによるいわゆる「新自由主義」がこの過剰消費経済体制を「普遍的な経済体制」と勘違いして登場し、ケインズ派の国家主導型資本主義体制を「社会主義的」として批判し「自助努力」を旨としたレッセフェール市場体制に向かった。それが東西冷戦が崩壊することにより「グローバル資本主義体制」といわれる世界規模でのアンコントローラブルな経済体制をもたらしたのである。
その結果、莫大な過剰消費による廃棄物や資源枯渇による自然破壊がもたらされ、消費拡大を必須条件とする「経済成長」とそれによる自然破壊のアンコントローラブルな連鎖いう相容れない矛盾が急速に顕在化してきたのだ。
 中国経済もこの流れの中に組み込まれ、やがてグローバル資本主義体制を支える大きな柱になっていった。いまやグローバル資本主義体制は中国なしには成り立たない。
 そしてそのグローバル資本主義の世界的な資本の流れの中で莫大な利益が一握りの資本家のもとに集まり、そのもとで搾取され、資本家の「おこぼれ」からも取り残された、疲弊化する国々の労働者や農民はますます貧困化し、この状態に抗しようとする人々の闘いは民族対立や宗教対立という悲劇的な形となって現れ、その戦乱の渦の中で多くの人々が命を落とし、生き残った人々も生きるために生まれ育った場所を捨てて民族大移動を始めている。
  その一方で西欧資本主義国の政府に支えられた巨大軍需産業はこうした戦乱による危機感に乗じ、世界中でハイテク兵器を次々と売り込み、莫大な利益を得ている。
 まるであの強大なローマ帝国が崩壊するときのように、いま巨大なグローバル資本主義体制はその内包する本質的矛盾ゆえに、自らの存立基盤を食いつぶしながら崩壊しつつあるといえるのではないだろうか?

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2015年8月16日 (日)

モノづくりの創造性 著者解説パンフ

昨年12月に海文堂書店から発刊した「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」の内容の概略を著者自身が解説しているパンフレット(A4 三枚)をファイルとしてこのブログのサイトにアップロードしましたので、ここをクリックしてぜひご覧ください。

ダウンロード MonodukurinoSouzousei.pdf (230.0K)

発行部数があまり多くなく、街の書店でなかなか手に入りにくいのですが、ジュンク堂系書店やアマゾンなどの通販で入手できます。
読後の感想やご意見などが頂ければ幸いです。

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2015年8月 8日 (土)

mizzさんからのコメントにお応えして

mizzさんから、前回のブログ「安保法制が「戦争法案」ですって?という桜井氏の意見広告を巡って」にコメントを頂いた。

 mizzさん---「なぜ、(安保法制が)戦争にしないための法案なのでしょう。戦争放棄と云う憲法があるのですから、戦争をしない法はあるのですから、なぜ、戦争にしないための法案が必要となるのでしょうか。」
まさにその通りです。この矛盾した思想はまず現行憲法の無視、否定という態度からしかありえませんね。彼(彼女)らにとっていったい何が「国家基本問題」なんでしょうね。
 mizzさん---「戦争にしないために、これらの脅威に対応して安保法制が必要だと云うことの様です。安保法制があれば、アメリカが軍事費を増大して、中国が自国領だとの主張を引っ込め、海洋プラットホームの日中共同開発を進めることになるのでしょうか。そうは桜井さんとても思っていないでしょう。ならなんで、安保法制が必要になるのでしょう。」
まったくそうですよね。彼(彼女)らの独善と思い違いもいいところです。
 mizzさん---「戦争放棄を再確認し、戦争にしないための政治を考えることがなぜできないのでしょう。安倍談話はその絶好の機会になっていると思うのですが、桜井さんそうは思いませんか。多分頭が働かないでしょうね。」
 そうですね、安倍談話の下書きを提供している有識者会議は一方で侵略戦争や植民地支配という事実を認めながらも、「謝罪」は首相の判断の問題だと言ってますね。私は安倍政権が当時の戦争遂行政府の後継責任を自認するなら、まず真っ先に日本の人民に謝罪すべきだと思っています。あの何百万もの人民の死や郷土の破壊に対して日本国政府からもその最高責任者であった天皇からも「謝罪」の言葉は一度も聞いたことがありません。そしてそれがそのまま侵略や植民地支配によって多大な被害や損失を与えた国々の人民や交戦相手国のアメリカやイギリスなどの兵士の家族などへの深甚な謝罪に繋がらなければならないのだと思います。そこからしか戦争放棄の思想は生まれないでしょう。国家の命で侵略戦争に引き出されて死んでいった兵士達をその命令を発した戦犯たちと同じ神社に「英霊」として祀ってしまうなどというごまかしは絶対に許されませんね。

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2015年8月 6日 (木)

安保法制が「戦争法案」ですって?という桜井氏の意見広告を巡って

 今日の朝刊に「公益財団法人 国家基本問題研究所」の名前で桜井よし子氏が意見広告を出している。例の「毅然とした」ポーズでカッコイイ写真つきである。氏はこう主張する。

「戦争しないための法案を「戦争法案」と言い換え、「次は徴兵制だ!」とありえないことを煽る一部マスコミ・野党・学者の主張は無責任ではないでしょうか。彼らは世論を安保法制反対へ誘導しようとするデマゴーグです。」
 以下、南・東シナ海での「力による現状変更」を強行する中国の脅威を「キューバ危機の再来ともなりかねません」と訴え、「一部野党や市民団体を名乗る安保法制反対勢力は、国民のリスク軽減を語らず、憲法違反とのレッテルさえ貼っています。国会における党利党略は日本の国力を削ぎ、悪辣な国を喜ばせるだけです。」と主張している。
 要するに氏は、”悪の強国”である中国の進出に「安保法制」で備えることなしには「国家の安全」は保障できないと言いたいのである。屋台の傾きかかった安倍政権への「バックアップ」であろう。 だが何とマア、安倍さんと同様、単純な頭脳構造のお方である。
 はっきり言おう、私たちは中国の人民を決して敵とは思わはないし、彼らも本音では私たちをきっとそう思っているに違いない。あの前大戦での苦い経験から、私たちはこれまで中国の人々にその償いをしようと様々な努力もしてきた。私自身も大学在職時代に中国からの留学生や研究者を大勢受け入れ、育てて送り出してきた。いまさらその日本を「敵」と思わせたいのは、彼らを強圧的に支配し、国内で噴出する矛盾から人民の目をそらそうとしている習近平主導の中国共産党政権である。
 ところがそれにそのまま乗せられて、アメリカとの軍事的同盟を強化して対抗しようというのが安倍政権である。マンマと習近平政権の狙いに嵌まっているではないか。
 アメリカはといえば、傾き始めた国庫の屋台を支えるため国家予算の大半を要する軍事費を削減したいし、イラクやアフガンなどの戦場に引っ張り出されたアメリカの若者達の犠牲が大きくなって国内での厭戦気分が高まっているので、極東の軍事的緊張への負担の半分を日本に肩代わりさせたいのが本音だろう。
 しかし、他方ではアメリカや日本の資本家たちは、中国を巨大な成長市場として大きな利益を得てきたので、中国との経済的関係を崩したくない。中国の新興資本家たちも同様である。このことは中国経済が怪しくなってきたことに対する日本やアメリカでの株価の大幅下落に現れている。すでに資本はグローバル化し、とっくの昔に「国家」などというものを事実上無きに等しい存在にしているのである。
 支配的政権の立場からの「国益」とグローバル化した資本による経済体制とのジレンマの中で、声を上げつつあるのが日本と中国の人民である(私は「国民」という言葉と区別するために敢えて「人民」という言葉を使う)。中国の人民は強圧的な政権の支配下でろくに声も上げられない厳しい状態であるが、日本では若者を中心にして現政権の危険な動きに反対しようとする声が日に日に大きくなっていく。中国でも日本でもグローバル化した資本と、国家という壁を前提とした「国益」との間で右顧左眄する政権のもとで、もっともその人権や生活を無視され未来を閉ざされ続けてきたのが社会のために働く人々=人民である。
 そう、中国と武力で対抗することほど間違った選択はない。中国の人民は中国の強権的支配者たちが醸成するナショナリズムと軍事的緊張の欺瞞をあばき、それに対する抗議の運動を起こすべきであり、私たち日本の人民はそれに連帯して、中国政府による恣意的な軍事的緊張醸成と、それへの直対応である「安保法制」という形での安倍政権による軍事的対抗措置に反対すべきなのだと思う。
 これはデマゴーグでも何でもなく、リアルな現状認識にもとづく私たち(特に若い世代)の未来を賭けた闘いでもあるのだ。それが読めないで「安保法制が国民のリスクを減らす」などというのはとんでもない時代錯誤である。

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70年目の広島が語り継ぐべきものは?

 今日は70年目の広島の日であった。朝のTVで平和記念式典の実況を観た。

松井市長は冒頭のスピーチで、日本国憲法の目指す武力に依存しない安全保障と、国籍や民族の違いを超えた核廃絶への人々の連帯を主張していたのが印象的であった。それに比べて安倍首相のスピーチはなんとも定型的でつまらないものであった。当然といえば当然の話であるが。
 ところで、最近ニュース解説などで取り上げられる話題として、原爆体験などの戦争体験の語り継ぎでの問題が挙げられる。例えば、もう戦争体験のない親たちが産んだ「孫世代」への語り継ぎが必要になって来ているが、そのときに、原爆や戦争の悲惨で残酷な場面をあまりにリアルに語られることで、子供達の心に傷が残ってしまうのではないか?という懸念を持つ親たちが増えているということ、そしてさらに、その親たち自身が「語り部」の戦争体験が「定型化」してしまって「またか」という気持ちでそれをなんとなく拒絶してしまう風潮があるということである。
 このことはさまざまな問題を含んでいるが、まずリアルな戦争体験を語ることが子供の心に傷を残してしまうという懸念について考えてみよう。
 私は敗戦の年にまだ5歳の子供であったため、敗戦直後の東京の焼け野が原や食糧難の記憶は鮮明だが、あまりリアルな戦争体験があるとはいえない。しかしまだ小学生だった頃、学校から映画鑑賞会でたしか「原爆の子」という題名で乙羽信子主演の映画を観に行った記憶がある。そのときの原爆投下シーンの印象が強烈でいつまでも夢に出てきたことがあった。さらに母方の親類で広島で被爆した人の話を叔母から聞き、髪の毛が全部焼け焦げ、下腹部が破れて腸が飛び出している人、全身の皮膚が焼けただれてまるでボロが袖から下がっているように両腕にぶら下がり「水をくれ!」とつぶやきながら彷徨している人々の話などを聞いたことがある。また聞きの話とはいえそのインパクトは大きかった。それ以来「広島の原爆」と聞いただけで、「怖い!」という気持ちが条件反射の様に起きるようになった。この記憶は私の核兵器への脅威に対する「理屈抜き」の拒否感として定着したと思う。
 話は少し違うが、1920年代のドイツに、第一次大戦の悲惨な場面をリアルな絵画で伝えたオットー・ディックスという画家がいた。さらに第二次大戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争の戦場での残酷な戦死者などのリアルな写真を伝えたロバート。キャパという写真家がいた。これらの作品は、当時の LIFE誌で私も見たが、みな目を背けたくなるような凄惨・悲惨なものである。しかし、これがまさに戦争の現実なのだ。これを見て、子供心に残った「傷」こそが理屈抜きの反戦という心を育てていくのではないだろうか?
 そしてもう一つ「語り部」の話が「定型的」として拒絶してしまうという戦争をしらない親たち。戦後の「平和」な時代に生まれ、それしか知らない人たちに共通の気持ちかも知れない。確かに「語り部」の人たちも高齢化し、話がワンパターンになっているかもしれないが、その話を聞く人には、自分たちがなぜこの「平和」な時代に生きていられるのかという根本的な問いがなければ、意味が無い。それはあの惨たらしい現実の中で「国家のため」としてまるでモノか動物のように捨てられ殺された何十万、いや何百万という人々の犠牲とそれへの痛切な反省の上に立っているのだということを決して忘れてはならないだろう。そしてその反省がもっとも端的に表れているのが現行憲法なのである。
 たとえどれほど残酷なものであろうとも、それがまさにリアルな現実として過去にあった事実なのだということからは絶対に、子供といえども、いや次世代を担う子供だからこそ目をそらしてはならないのではないだろうか?

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2015年8月 1日 (土)

朝日新聞 耕論「消費しない日本人」を読んで

 今朝の朝日新聞の「耕論」欄に「消費しない日本人」というテーマで3人の識者が意見を書いていた。いずれも、いまのアベノミクス景気の中で消費を控える人々について、「リスクをとらない人」「お金を使って楽しむことをしない人」「先行きが心配で節約に走る人」よいった意見がほとんどであり、日本人はもっと消費をするべきだという論調であった。しかし、私はこの論調に異を唱えたい。

 アベノミクスで景気指数が良いのは、誰でも知っているように、日銀がお金をジャブジャブばらまいて、お金の価値が下がって円安となり、為替レートの差益で輸出企業が大儲けをしていることが要因であって、円安によって海外からの観光客が激増して「爆買い」や観光地の儲けが増加していることもそのひとつだろう。
 その裏側では、輸入に頼る中小企業や生活消費財販売業などは値上げを余儀なくされて窮状にある。、もっとも重要なのは雇用が増大したにも拘わらず、多くの若年中年層の実質賃金は増えておらず、一部の新富裕層にのし上がった人たちだけがその恩恵に与っている。だから平均賃金が上がったように見えるのだ。
  そしてジャブジャブお金をまき散らすアベノミクスは莫大な借金で支えられている。これはきわめて危うい橋を渡っているのであって、虚妄の「経済成長」であることの何よりもの証左であろう。人々はうすうすこの「危うい橋」に気がついている。だから、節約し、危機に備えようとするのである。当然のことだ。
 そしてもうひとつもっとも重要なことは、「お金を使って楽しむことこそ人生」という「哲学?」はまったく間違っているということだ。これは、片方で地球全体の自然が破壊され、気候変動で世界中が熱波や豪雨に見舞われ、海水面が上がり、やがて世界中の第一次生産物が危機に瀕し、人口が急増するのに反比例して地球環境がどんどん人類の生活に適さなくなりつつあるという状態にあって、持続可能な社会が謳われているにも拘わらず、他方では自然をどんどん破壊する過剰消費を推進させ、それがなければ経済が成り立たないという絶対的矛盾にぶち当たっているのが現実なのだ。
 もともと人類は「消費を楽しむ」などという性向はなかった。自然界が与えてくれるものを大切に使い、それが永久に恵みを与えてくれることを期待して自分たちの生活の営みを行ってきた。その中で、自然の反面であるその猛威から身を守り、制約の中で工夫したりやりくりしたりして、必要なモノを努力して作り上げるよろこびが人々の生き甲斐になってきたと考えられる。
 つまりもともと人類は「消費するよろこび」ではなく「生み出すよろこび」をその本質としてもっていたと考えるべきであろう。それが「買い物をしたり、消費したりすること」が生きる意味のようになってしまったのは、ほんのここ100年足らずのことなのである。その経済学的解析は私がこのブログで何度も行ってきたが、ひとことでいえば、過剰資本の処理形態としての過剰消費なのである。
世の中に必要なモノを生み出している労働者たちが、その生産現場で「生み出すよろこび」を感じることができず、それを賃金によって別な形で「商品として買い戻す」ことによってしかよろこびを感じることができないという資本主義社会の基本的構造の中で、一部の「中間層」(相対的に賃金の高い労働者などを指す)といわれる人々に奢侈品的要素を加えたいわゆる付加価値商品(例えば高額家電製品、自動車、高級趣味用品、レジャー、そして家など)の購入に賃金を使わせる構造が出来上がり、そこに、蓄積して身動きならなくなった過剰資本のはけ口を見いだしているのが現代の資本主義経済体制なのである。
 この地球・自然環境の危機と「経済成長」の絶対的矛盾がもたらすであろう重大な危機のことをまじめに考えなければ「もっと消費すれば景気はもっとよくなる」などと呑気なことは言っていられないことが分かるだろう。
朝日新聞の立ち位置がいかにいいかげんな「リベラル」であるかがこの記事の扱いを見てもよく分かる。

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