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2015年9月 7日 (月)

「格差」ってなに?

 今朝の朝日新聞朝刊の「フォーラム」欄でも取り上げられていたが、いま「格差社会」といわれる中で、特に若い人たちがその現実をどうとらえているのかが、問題となっていた。学生の中に、「平等である社会が本当に理想の状態なのか」と疑問を投げかけ「格差のない社会を実現することは困難で、すべてが平等である社会を望んではいない」と述べている学生もいた。また実際のジニ係数などで示される格差と、「格差意識」は一致しないということも指摘されていた。そして要は、「(機会均等な)開かれた社会があれば」よいのではないか、という考え方が何となく結論的に扱われていた。

 ここで問題なのは「格差」と「個人差」が明確に区別されていないことだ。「格」は社会的地位を表すことばであり、個人差とは直接は関係ない。個人差はその人が生まれながらに持つ個性である。
 人は自分で何かになろうとして生まれてくるのではない。親が子をどのような人間に育てたいかはいわば、その時の社会の在り方とその中で親たちがどう生きているかに関わっている。やがてあるとき親の意向に逆らって自分の生き方に目覚めた子は、自分が世の中でどのような役割を担う人間になるべきかをどこかで決断する。しかしその場合もそのときの社会の在り方がその決断の決め手になるだろう。例えば戦争中であれば立派な兵士になりたいと思うかもしれないが、高度成長経済の中では、一流の会社の社長になりたいと思うかもしれない。そして現在のような「サービス産業時代」には一流のパテシエやシェフになりたいと思うかもしれない。その時代の社会の在り方あるいは成り立ちが、なりたい職業の選択肢を決める。
 ここでいう「社会の在り方や成り立ち」の基本となる構造が「格」(正確には支配構造)を形づくっている。いまの社会では昔のような「士農工商」といった「格」はないが、その代わりいわゆる「社会的地位」としてその職業の格付けがあり、政治家や官僚、企業の経営者、大学教授、有名タレントなどが「格」の高い職業とされている。しかし若者が何になりたいかを決めるとき、こうした「格」を自由に選択できるわけではない。自分が何になり得るかを考えるとき、「個性」の的確な判断が重要だといわれるが、結局自分や自分の親がどの「格」に属してるかが大きな決め手とならざるを得ないことが多い。
いまの社会ではそのような「格」をたえず生み出し支えているのは結局お金の流れであり、「お金」が事実上すべてを支配している社会のため、「所得」が「格」とほとんど同じ意味で用いられる。
 どう自分の個性を生かして社会の中で一つの役割を担うべきかを考え、一つの目標をもって勉学し、資格を得てどこかに就職することを目指すことがだれでも可能な社会は「機会均等社会」と言われる。たしかに機会均等であることは重要である。
  しかし、この「機会」そのものがすでこうした「格」によって条件付けられ、「お金さえあれば何でもできる」という「自由」のもとで、それを首尾良く実現した人が大きな「機会」を得、そうでない人は「機会」がほとんど得られないのである。これが「格差社会」である。
  いまはだれでもその気になれば自由にお金儲けができる社会ではないか、という人もいるが、それはまったくウソである。一方でお金をどんどん儲ける人がいれば、必ず他方で貧乏になる人が増える。いまの「自由」な社会とはそういう意味で「自由な人たち」にお金が集まる分だけ、生きる目標や機会を自由に実現できなくなる人々が増えていくという仕組みになっている。もし本当にだれでもその気になればお金持ちになれるのなら、世の中のほとんどの人がお金持ちになっているだろう。現実はそうでないことは自明である。そしてたとえお金持ちになれたとしても、それによって多くの貧乏になる人が出るということに対し「能力や努力に応じた報酬は当然であり、それをせずに不平等というのは自助努力が足りないからだ」と冷ややかな目でそれを見下ろすような「上格」の人間がまた一人生まれるだけである。
 確かに「能力さえあれば格差とは関係ない」ということもできるだろう。しかし、「能力」とはあくまでその「格」の基準で測られるものであり、個性が能力と結びつくためにはその社会の仕組みや成り立ちが前提となる。そして「格」を軸として形づくられる社会の仕組みが、「個性」にもとづいて「なりたい自分」を決めるときの選択肢の枠組みとなるため、「個人差」と「格差」が同じような意味として目に映ってしまうのだろう。
 こうした社会の在り方や基本構造を変え、「格」そのものをなくし、その人の個性をフルに発揮することがそのまま社会の役割を担うことになり、ある人は医者になり、ある人は下水道メンテのベテランになり、ある人は工場で生活に必要なものをつくる仕事に能力を発揮し、ある人は畑を耕し、様々な「個人差」がそれによって「同格」に世の中全体を支えて行けるような社会を創っていかなければならないのではないだろうか? そしてそういう社会では、「格差」ではない「個人差」がそのまま社会のあらゆる可能性を生み出せる源になるだろう。「平等」とはそういうことではないのだろうか?

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