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2015年9月 3日 (木)

人工知能に芸術創作をさせることに何の意味があるのか?

 昨日の朝日夕刊によれば、人工知能に小説を書かせる研究が進んでいるそうだ。上手くいけば文学賞に応募するのだそうだ。しかし、いまのところ、全面的に人工知能に小説の創作を任せることは不可能で、やはり人間が介入して「共作」という形の研究が行われているらしい。

 私は小説に限らずさまざまな芸術の分野で人工知能に創作を行わせようとする試みを知っている。こうした研究はすでにコンピュータが実用化された直後から行われている。
 しかし、さまざまな制約のもとである目的的機能を実現させるデザインの様な世界ではそれは非常に意味のあることであるが、こと芸術に関しては私は疑問に思う。
そもそも何のために人工知能に創作させるのか? 例えばモダンアートなどでもコンピュータを使った作品は山ほどあるが、それはあくまで人間である作者の意図を道具としてのコンピュータを用いて表現しようというのであって、コンピュータ自体が創作するわけではない。人工知能による芸術創造が究極的に目指すものは、作者不要の機械による創作だろう。だがこれに一体何の意味があるのかと問いたい。
 芸術創作とは、プロの芸術家が「売れる作品」を次から次へと創作するような形がいまでは一般的になっているが、これは資本主義社会特有の歴史的に特殊な芸術形態だと思う。
 実は私も以前、人工知能学会の会員であったことがある。その研究誌に論文を載せてもらったこともある。だからなおさらそう思うのだが、いまの人工知能研究は、どこかがおかしくなっている。「人工知能研究」の目的は人間と同じような働きをするコンピュータをつくることではなく、人間の頭脳がもつ特有の生理的制約や限界を超えた機能、つまり人間にはできないことをやれる道具としてのコンピュータをつくることが本来の目的なのではないだろうか?人型のロボットを作ることに大変な努力が払われているが、これも良く考えればあまり意味がないのではないかと思う。人間が行うには危険な仕事や過重な労働を人間に代わってやってもらうためのロボットが必要であれば、それは何も人型である必要はない。
 芸術表現という世界は、一人の人間がその固有な人生のあゆみの中で経験した様々なことがその人の記憶の中に蓄積され、その人固有の内的(精神的・人格的)世界を(動的に)つくっていく過程で、どうしてもある思いや感情を表出したいという欲求のもとに初めて達成しうるものであって、本来、それが売れっ子のプロの芸術家であるか市井の庶民であるかに関わりない世界である。
それはその人自身の内的世界の中からやむにやまれなず絞り出されてくるものであって、だからこそ、共感や深い感動を人の心に起こさせるものである。それが結果的に多くの人の共感を得て「売れた」というのと、最初から「売れる作品をつくる」というのでは全く意味が違う。
 「売れる芸術作品」が創造性の高い芸術であると勘違いしてしまうのは、芸術作品がいったん有名になるととんでもない価格で売れる「おいしい商品」になる社会だからであろう。そういう社会では、コンピュータがいままで「売れた作品」の要素を抽出し、それをうまく組み合わせて新しい作品をどんどん作ってくれることで儲けようとする「芸術産業」にとっては、作者に高い著作権料を払わずにすむ有効な手段として意味があるかもしれないが。
人工知能研究はもう一度その普遍的な意味を考え直した方が良いのではないだろうか?

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