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2015年9月 1日 (火)

「市民」という覆いをかけられた労働者階級

前回の8.30デモに関するブログを書いた後、少しいまの若い人たちに厳しすぎる内容だったかな?と反省した。しかし敢えて前回のブログは削除しないことにした。ある意味で私の気持ちを率直に書いたものなのだから。

 前回のブログでおそらく一番引っかかるのは「市民意識を超えた階級意識」という考え方だろうと思う。いまさら資本家階級と労働者階級なんていう古くさい型にはまった考え方は捨てた方がいいと、ときどき人に言われることがある。
 しかし、「市民」というとらえ方はもっと古くさい。そもそも最初はギリシャ時代の都市国家「ポリス」の住人で奴隷階級はそこには含まれていなかった。しかし近代的な意味での「市民(Bourgeoisie)」は18世紀末のフランス革命で脚光を浴びたとらえ方であって、 絶対王政での王侯貴族の権力と戦って勝った「市民」であり、知識層に先導された革命であったが、そこには商人資本家や職人や労働者や農民も含まれていた。その後、その「市民革命」が西欧やアメリカでの、「市民(Citizen) による平等で自由な社会」という達成目的を掲げる思想を築き上げていった。
 知識人も資本家も商人も労働者も区別なく「市民」と言われる時代は、しかし、産業革命が進行し、産業資本主義時代に入ると変化していった。商人資本家たちは様々な形で古い封建制度を崩壊させたが、その典型はイギリスでの例である。彼らは封建的支配構造の崩壊で商品経済化が進む中で貧困化した農民から土地を買い叩き、それを牧草地にして、羊を大量に飼い、その毛を毛織物に加工する工場を建て、毛織物産業を興した。土地という生産手段を奪われた農民たちはその工場へ雇われ、賃金労働者として生活しなければならなくなった。商人資本家たちはこうしてさまざまな分野で産業資本家へと変貌し、やがて社会の経済全体がさまざまな形の産業資本家の支配のもとに置かれるようになった。
農村から工場のある都会へと大量の労働人口が流入し、近代社会特有の都市と農村の対照的形態ができていった。都市に暮らす労働者たちは、資本家が経営する工場で働きながら、他の資本家企業で生産された生活資料商品を購入して生活しなければならなくなった。資本家側は資本を投入して生産手段を購入し、労働力市場から雇用した労働者に生産労働を行わせる産業資本家と、そこから生み出される商品を販売して稼ぐ商業資本家に別れて行き、やがてさまざまな資本主義社会特有の社会的分業を生み出し、それらすべてにおいて「雇用者である資本家経営者」と「被雇用者である賃金労働者」という形の関係を築き上げた。
 ここに産業資本家と生産労働者との関係を中核とした全社会的な規模での資本家の階級と労働者の階級が生み出されたのである。資本家階級はその内部でやはり大資本による支配企業と小規模資本による被支配企業というヒエラルキーを生み、労働者階級もその内部に資本家の意図を代行する頭脳労働者と、最下層でその意図のもとで直接生産労働に携わる単純肉体労働者という支配・被支配関係を生み出していった。
 この二つの階級は、当然のことながら本質的に対立する関係であり、生産手段を掌握し、生産的労働から生み出される全商品を当然のように所有し、それを売って利益を挙げるため、商品流通市場で「自由に」競争をしながら経済を支配する資本家階級と、労働により生み出された価値のうち、自分たちの生活資料を買うための価値部分しか賃金として与えられず、それによって生活を営む中で、再び資本家に売るための労働力を再生産することによって生きていく労働者階級という基本的対立的関係で結ばれており、同時にそれは企業が利益を挙げられず倒産すれば労働者が路頭に迷う、という「矛盾的一体関係」にもとづく支配関係でもある。こうして自由な「市民」とは自由に市場で競争して儲けることができる資本家を指すことが明らかになってきた。
 20世紀前半には、第一次世界大戦中のロシア革命に端を発し、世界中の労働者階級が国境を越えて手を結び、資本家階級と対決しようという国際的な運動が拡がった。しかし、残念ながら様々な理由でこの運動は挫折し、第二次世界大戦の後に主導権を握ったアメリカが主導する資本主義体制の新段階がやってきた。それは高賃金の労働者がその賃金を自動車や家電製品といった奢侈品(贅沢品)的生活資料の購入に当て、見かけ上「豊かな生活」を謳歌しながらアメリカ的デモクラシーのもと個人の平等を認められた市民社会を形成するというイメージを広めた。やがてそれは道を誤った指導者による社会主義圏の衰退とともにワールド・スタンダード化された目標となったのである。
 そこでの「市民」はフランス革命当時の「市民」と同じように見えるが本質的に違う。それは現実社会が労働者階級と資本家階級に分かれており、実際は資本家階級は労働者階級に寄生しているにも拘わらず、これを覆い隠すという役割を与えられた概念なのである。そしてこれが近代的国家の構成員としてむりやり一体化させられると「国民(Nations)」ということになる。だれがこれを覆い隠そうとしているのかは言わずとも明らかであろう。この支配的階級のイデオロギーのもとで、私たちはあたかも階級など存在しない普遍的な意味での「自由で平等な市民社会」に住んでいるかのようなイメージを植え付けられている。
 現代の資本主義社会はこうしたイデオロギーのもとで、様々な社会的分業が複雑に入り組み、資本家の多くは企業経営陣として本来の資本家である投資家や株主のために利益をもたらす機能資本家(エグゼクティブ)という立場に置かれ、儲け高に応じた報酬を受け取り、頭脳労働者の一部も、いわゆるビジネスマンとして資本家の頭脳の一機能を担う労働を行うなど、だれが資本家でだれが労働者なのか分かりにくくなっている。強いて言えば、資本の処置に関する執行兼を持つか持たないかの違いくらいであろう。
  しかし、様々な社会的矛盾がこの潜在した階級的対立を軸に存在し噴出していることは事実である。例えば労働者が「高い賃金」だといってもそれはあくまで生活資料の購入や自分の子供を次世代の労働者として養育するための費用に充てられるのである。労働賃金の大半は奢侈品化した商品やレジャーなど非生産的な形での生活資料の消費にどんどん支出させられ、こうした労働者の賃金から支出されたあらゆる生活資料商品の購入に支払われたカネは過剰化した資本の不生産的処理による資本家の収入として還元される。
長年勤め上げた労働者は最後に貯蓄や退職金をはたいて自分の家を買うことが多いが、住居は生活必需商品であるにも拘わらず日本ではこれが生涯かけてやっと自分のものにすることができるほど高価なのである。そこに支払われたカネはすべて不動産業者や建設業者の収入となる。また労働者は自分の子供を就職率の高い大学に入れるために高額な教育費が必要となるが、これも子供を次世代の労働者として育て上げる費用なのであり、その育成は資本家が支払うのではなく労働者が与えられた労働賃金でやりくりしなければならないのである。そしてそこで支払われたカネはすべて教育産業や国庫の収入となる。
 こうして「豊かな社会」に見える生活は本当は決して豊かではなく、高額に見える賃金は無駄な消費と高額な生活資料商品、次世代の労働者の養育費に充てられ、働けなくなった高齢者や介護が必要な人たちに要する社会的必要経費はほとんど労働者階級からの税金で賄われる。だから労働者の生活が厳しくなれば税収が減り、社会保障も崩壊するのだ。そして私有財産を蓄えている資本家たちは悠々と生き残る。
 一方でグローバル資本家が蓄積した利益は巨額の私有財産を形成させたのち余りのほとんどは市場で競争相手に勝つために投資され、社会共通に必要な資金にはなるべく回さないようにする。資本家代表政府は資本家企業が競争力をつけて利益を増やせば雇用も増え、労働賃金が上がるからと言って法人税を減税する。
 こうして一方では世界的規模での社会的「格差」が拡大し、不安定な非正規雇用の比率が増大し、経済破綻する国や貧困から来る民族対立・宗教対立などによる難民や貧困層の悲惨な生活が激増し、西欧資本主義社会に攻撃を仕掛けるイスラム過激派が登場する、などなど現実の社会的矛盾はその例の枚挙にいとまがない。
 その現実の中でいまさら「自由で平等な市民の立場」を主張してみたところで何が変わるのだろう? もっと自分たちの「置かれた場所」の現実を見つめ、その惨めな場所で「咲く」ことを良しとするのではなく、そこに孕む現実的矛盾の根拠を深く洞察することによりそれを否定し克服できる未来社会の建設に向けて出発すべきではないだろうか?
 

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