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2015年10月23日 (金)

資本主義社会崩壊後の社会建設に関する重要な論議(その2)

(前回からの続き)

前述したセミナで議論になった問題は私が把握する限りでは大きく分けて以下の3つがあったと考える。

1 価値に関する議論:(1)価値とは何か? (2)価値は社会主義社会においても存在するか? (3)それは過去の労働の成果として生産物に移転するのか?
2 マルクスの再生産表式に関する議論:(1)再生産表式は資本主義社会にしか通用しないのか、それとも社会主義社会でも通用するのか? 
3 社会主義社会における労働成果の分配に関する議論:(1)労働生産物としての諸個人への分配の対象は消費手段だけなのか? その場合生産手段に関してはどう考えるのか? (2)諸個人が受け取る個々の生産物の量はどのようにして算定するのか?

1 の価値に関する議論では、それは資本主義社会に特有のものであって社会主義社会では社会的に必要な平均的・抽象的人間労働の支出という形での労働時間量として存在する「価値規定」であって価値そのものではなく、したがって社会主義社会における生産物に価値は表現されないとする意見が多数だった。
 しかし、私はその考え方に疑問があり、マルクスによって明らかにされた、資本主義社会での商品の生産と消費を支配する価値法則は、市場では交換価値として現れている価値を形成する実体が(抽象的)人間労働であること。それによって、自分の労働力を再生産するに必要な生活資料の生産に必要な労働時間を超えて行われる労働によって剰余価値が生み出され、雇用者である資本家は当然のこととして自分の所有としてそれを 搾取しているという事実を明らかにすることができた。これによって、その真実から目をそらしている資本家達にとって自らを縛る法則としてしか見えないものの実体を明らかにし得たという意味で、社会主義を目指す者にとってはもはやそれは「法則」ではなくなったのである。そういう意味でその本質を明らかにされた価値はどのような社会においても、過去の抽象的人間労働の成果として生産物において表現されていると考えるべきである。
したがって私は労働過程において過去の(死んだ)労働の成果である生産手段の価値は「生きた労働」によって生み出された生産物に表現される新たな価値の一部として移転されると考える。
セミナ参加者の中でM氏やS氏など2〜3人がこれに近い考えを持っていたようであるが、主催者のH氏はこれに反対であって「価値は移転しない」と強く主張していた。

2 の再生産表式の問題に関しても、H氏は資本主義社会特有のものであって、社会主義社会ではこの表式とは違うものを考えるべきだ、と主張するが、私はそれに反対で、マルクスの再生産表式は普遍的なものであって、当然社会主義社会においても適用されると考える。
再生産表式とは、毎年生産される社会的総生産物を第I部門の生産手段と第II部門の生活(消費)手段とに分けて考え、単純に毎年同じように再生産が繰り返されるとすれば、 それらの生産物に含まれる価値構成、c(不変資本部分), v(可変資本部分), m(剰余価値部分)部分の関係は、I(v+m)=II(c)とならなければならない。もし総生産が毎年拡大するとすれば、I(v+m)>II(c) とならなければならない、という事実である。
 ここでいう、「価値構成」は文字通り価値の構成なのか、そうでないのか、という議論である。私は価値というものを1で述べたように考えるので、これは文字通り価値の構成でありしかもあらゆる社会に通じる事実だと考えるが、H氏はそれを否定するのである。

3 の社会主義社会における分配の問題はやや複雑である。資本家によって労働力商品として買い取られて労働する立場とは異なり、社会主義社会では生産物の生産に必要な労働時間は透明で見えるものになっている。したがって、当然のことながら、自分が社会に提供した労働量の分に相等する生産物量の分配を受けることができる。これはすべてのセミナ参加者も認めるところである。また労働者諸個人に分配される対象は消費(生活)手段だけであって、生産手段は社会的共有が前提なので分配の対象にはならない、とする考え方が何となく(はっきりとではなく)合意されていたようだった。
 価値移転を認める立場であるM氏は、したがって、生産手段に含まれる価値の移転分を新たに生まれた価値に加算してやれば生産物の価値は計算できると考えている。S氏も同様な考えで、彼は行列式を使ってその計算方法の一例を示した。M氏はしかし、ここでひとつ問題なのは、生産過程において、どこまでが生産手段でありどこからが最終生産物なのかを判定することがなかなか難しいと指摘する。
 これに対してH氏は、価値の移転などということを考えるからそんな問題にかかずらうことになるのだ、と両氏を手厳しく批判する。
 
 ここで私は、釈然としない思いであった。というのは、何が生産手段であり、何が最終生産物であるかは、その生産過程の置かれている状況(社会的生産条件など)により異なり、一概には決められないと思う。問題なのは、何が生産手段であり何が最終生産物であるかではなく、その生産物に過去の労働も含めてどのくらいの労働量が対象化されているのかであろう。その場合、生産過程で必要になった原材料(部品も含む)、機械などの労働手段の生産や原材料などの労働対象の生産に要した労働時間は、それぞれの生産手段に労働時間が対象化された「価値」として表現され、これらが生産過程の準備段階で等価交換によって収集され、そこに表現された価値の合計が生産過程に要した生産手段全体の価値を表現すると考えてよいのではないかと思う。
  ここでは「価値による等価交換」を前提としており、これは社会主義社会においても商品経済に形式上似た生産物の交換過程があるという風に考えるべきではないのか? もちろんそこに流通するのは「物神化」された貨幣ではなく、生産物の交換の媒介をするために用いられる労働時間を証明するものでしかない。もちろん、それは前述した中国のように、せっかくマルクスによって明らかにされた価値の実体を再び商品価格レベルに逆戻りさせてしまいそのことによって再び価値法則の奴隷となってしまった「社会主義体制への市場経済の導入」というものとは根本的に違う。
 このように考えることがなぜ問題になるのかが問題であるように思える。したがって議論はもっと深いところにある問題に行かざるを得なくなるのである。
(次に続く)

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