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2015年11月 2日 (月)

資本主義社会崩壊後の社会建設に関する重要な論議(その4)

 これまで表記のブログで3回にわたって、あるセミナでの資本主義崩壊後に建設されるべき社会での価値と分配の問題を論じてきたが、その後、このセミナの主催者であり唯一の講師であったH氏のこの問題に関する考えが整理されて掲載された資料を得たので、これについて検討と加えてみたい。

 H氏は「社会主義における分配法則は、資本論冒頭における商品論(価値の理論)と、第2巻における再生産表式、つまり資本の総流通と再生産の理論によって説明されうるのであって、「過去の労働」やその移転の理論によって媒介される必要はありません」と主張している。 ここでH氏のいう「価値移転論」とは、もともと労働生産物には、それを生産するために新たに支出された「現在の労働」により形成される価値とそれを作るために用いられた生産手段に対象化されている過去の労働による価値部分も移転されて含まれており両者を加えたものが生産物の価値となっている、という考え方のことであるが、しかし、H氏はそれを、消費手段(生活手段)としての生産物には「生きた労働」が対象化されており、生産手段には「死んだ(過去の)労働」が対象化されていると考えているのが価値移転論の問題点だとしている。H氏のいう「価値移転論」とはマルクスが再生産表式の中で述べている価値の移転の論理とはここが違うようだ。

 そのためH氏は「価値移転論」の第1の矛盾は、資本の総流通と再生産の表式が示すように、使用価値の面ではともかく、価値の生産の面での計算の二重性という困難をもたらすことです。つまり年々の全体の労働者の労働に、生産手段部分に「移転されてきた」過去の労働が加わるために、生産手段部分の価値が2倍の価値として表されてしまいます。つまり「生きた労働」は消費手段(生活手段)とその価値を生産する労働ですが、同時に生産手段は使用価値も生産するが、その「価値」の方は生産しないという奇妙な労働として現象することになります」と述べている。

 しかし、マルクスの再生産表式の中で述べられている「過去の労働の移転」とは、生産手段も生活手段も使用価値であり同時に価値であるが、生産物の生産は過去の労働の成果である生産手段を用いて行われるのであって、生み出された生産物にはその生産物を生み出すのに要した「現在の労働」(v+m)と生産手段を生産するために支出された「過去の労働」のうち「現在の労働」で生産的に消費される分(c) が 移転し含まれている、というものであると私は解釈している。

 重要なことは、その場合、マルクスが資本論第1巻第3篇第5章で、「労働過程において用いられない機械は無用である。そのうえに、それは自然的物質代謝の破壊力に侵される。鉄は錆び、木は朽ちる。織られず編まれもしない糸は、駄目になった綿花である。生きた労働は、これらの物を捕らえ、蘇らせ、単に可能的であったにすぎない使用価値から、現実的にして効果的な使用価値に転化せねばならない。これらの物は、労働の火によって舐められ、労働の肉体として取り込まれ、労働過程におけるそれらの概念および職分にふさわしい機能を吹き込まれて、消耗されるのではあるが、しかし充分な目的をもって消耗されるのであり、生活手段として個人的消費に入りうるか、または生産手段として新たな労働過程に入りうる新たな使用価値の、新たな生産物の形成要素として消耗されるのである。 かくして、現在ある生産物が、労働過程の結果であるだけでなく、その存立条件であるとすれば、他面では、労働過程への生産物の投入が、したがって、生きた労働とのその接触が、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し、または実現するための唯一の手段なのである」(向坂訳岩波版より引用)、と言っているように、過去の労働の成果である生産手段は、生きた労働の「火に舐められる」ことによって初めてその使用価値を発揮するのであって、したがって生産物を生産する労働に要した時間に対応する価値分だけを生産物の価値に移転するのである。

だから生産手段に含まれる価値はそこにそれまでに行われた過去の労働がいくら重層的に蓄積されていたとしても、そのすべてが価値として新たな生産物の価値に単純に「加算」されているのではなく、そこに過去の労働のすべてが圧縮されていようとも、それが使用価値を発揮している間、生産的に消費された分だけの価値しか生産物に移転しない。つまり生産手段は労働過程で使用価値を発揮することにおいて過去の労働による価値をそれだけ消滅させ、その分を新たな生産物に移転させる。それが再生産表式における価値構成の"c"部分である。私はそのように考える。だからH氏が言うような「生産手段の価値の二重計算」などということは起こりえないと考えるべきではないのか?

 H氏がいう「価値移転論」とは多分こうしたマルクスの考え方を曲解した誰かの考え方を指しているのだろう。だがH氏はそのため、マルクスの再生産表式が社会主義社会では通用しないと主張するのである。H氏はマルクスの再生産表式は資本主義的生産様式でしか通用しないと考えているようだ。それは価値というものに対するとらえ方にあるのかもしれない。H氏は社会主義社会では価値は存在せず、価値規定のみがある、と考えているようだ。この問題はここではこれ以上立ち入らないことにするが、H氏の提唱する社会主義社会での分配を示す表式(図表?)とは消費手段のさまざまな種類を労働者にどのように分配するのかについて書かれており、基本はマルクスの再生産表式を下敷きにしているように見え、そこではc+v+mという価値構成の考え方を用いている。ここでのH氏の"c"は何を意味するものなのであろうか?

そしてH氏の主張では、生産手段は「社会的共有」だからという理由で分配の対象にはされていない。しかし、各種の生産部門に労働力と生産手段は配置されなければならないので、これがどのように行われるのかも考えるべきではないだろうか?

(続く)

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