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2015年11月15日 (日)

パリのテロ事件を巡って(修正版)

11月13日にパリで起きた同時多発テロに関する報道が大々的にマスコミを賑わしている。ほとんどの場合が、「自由社会への挑戦」、「許せぬ暴力と無差別殺人」、といった視点から報じられているが、少し違った視点から見る必要もあるだろうと思う。

 私は今年1月12日のこのブログでシャルリエブド誌へのテロ事件とその後の「パリ自由の大行進」についての私の感想を書いたが、そこでもこの「自由と民主主義」を世界の普遍的でスタンダードな立場とする考え方に疑問を投げかけた。
ここで再び言うが、私はこうしたテロに賛同する立場では毛頭ないし、彼らを擁護する立場でももちろんない。そしてテロで不条理にも殺された方々は、本当に悲しくお気の毒であるが、しかし、何か特別な「国民的義憤」ではなく、 戦争で不条理に亡くなられた多くの方々たちに対するのと同様な哀悼の気持ちを抱いている。
 テロリスト達は、おそらく彼らの命を賭けて、テロ行為を以ていまの西欧社会を支配する市民社会至上主義に抗議を行ったのだろうと思う。それがいわば西欧的市民主義の裏返しとでもいえる過激な宗教理念のもとで行われ、その結果本質的には彼らと同じ立場にあるフランス庶民の多くの命を奪うということになったのが悲劇なのだと思う。
 いまのアメリカを中心とした西欧的市民主義は、実は近代資本主義(ブルジョア)社会のイデオロギーであるという事実、そして誰もが「市民」という立場で自由平等であるという幻想のもとに、そこに厳然として存在する階級社会を覆い隠すイデオロギーであるということは、もうすでに150 年以上も前からマルクスたちによってあきらかにされている。そしてそのイデオロギーのもとで「同じ国民として国家のために」と称して多くの人々が戦場に駆り出されることになった(こういうときには「市民」と「国民」はほとんど同じ意味とされてしまう)。
 「万国の労働者団結せよ!」というスローガンのもとで生み出された第2インターナショナルはそれなのに、第1次世界大戦のときには、 「国家を護るための戦争」に賛成してしまったのである。その結果、同じ立場にある各国の労働者階級同士が「国家」の名の下に互いに5年にわたる不条理な殺し合いを強制され、2千万もの命が失われた。 そしてその余塵が収まらないうちにナチズムなどの国家主義を生み出し、これに対して当時のコミンテルンはスターリンによる一国社会主義政策のもとで何も成しえなかった。その結果、第2次世界大戦が起きるべくして起き、ふたたび悲惨な戦争が繰り返されたのである。
 そしてこの2度にわたる悲劇の後、東西冷戦時代が訪れ、スターリンによって変質した社会主義国と対立してアメリカ的市民主義とコマーシャリズムが西側世界を越権していくことになった。そしてその間、多くの「代理戦争」が繰り返され、ここでも多くの人々の命が「国家のため」に失われた。
 いわゆる東西冷戦時代崩壊以後の「グローバル社会」あるいは「国際社会」(これほど曖昧でご都合主義的カテゴリーはない)は資本主義的階級社会をあたかもなかったことのように片付けるのである。そしていまは「ワールドスタンダード化されたアメリカ的市民社会」を世界が実現させる途上にある、という歴史認識を浸透させることに成功したのである。
  しかし、そのイデオロギーの下で、日々「開発途上国」の人々は賃労働者化され、低賃金労働で働かされてその成果をグローバル資本に搾取され、グローバル資本は、その財を天文学的数値にまで増やし「国際政治」をも動かしている。いわゆる先進資本主義国においては、そのグローバル資本の「おこぼれ」で「富裕層」や「中間層」となった人々の生活を下支えし、過酷で不安定な労働条件で働く人々がどんどん増えていく。そして世界レベルにおいても一国レベルにおいてもいわゆる「格差社会」が進行する。そのなかで、そうした偽りの「自由な市民社会」に疑問を持ち、反発する人々も当然増殖するのである。
  しかし残念ながらそうした人々を吸収し、巨大なグローバル資本に対抗できるようなインターナショナルな連帯に基づく階級的勢力としてまとめ上げて行ける組織は世界にまだ存在しない、というか70年以上も前に崩壊してしまった。それが西欧的社会で生活する非西欧民族の下層庶民を反西欧的な宗教への帰依に向かわせたり、過激なテロ行為に走らせたりすることになるのだと思う。
 それらとは対照的ではあるが、日本でのSEALsなどに見られる「市民運動」がいまだ「市民意識」を脱していないのもまことに残念なことである。
 今回のテロ事件に際してもフランスの人々はオランド大統領のかけ声のもと国歌を斉唱し、三色旗を仰いで犠牲者への弔意を表していた。結局ナショナリズムが再び顕著になり、互いに同じ立場の人々が国家や宗教の名のもとで互いに排斥し合い殺し合うという事態は少しも変わっていないのだ。マルクスの主張の正しさが証明され、本来の平和と民主主義を獲得する道が見えてくるのは残念ながらまだ遙か先なのかも知れない。

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