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2015年4月5日 - 2015年4月11日

2015年4月11日 (土)

資本について考える(その9: 資本主義以後の社会について−3)

 マルクス主義を標榜する人たちは、資本主義社会が崩壊した後の社会について論じることをあまりやってこなかったように思う。その理由として考えられることは、マルクスが自分の思想を形成する過程で同時代のいわゆる「空想的社会主義者(サン・シモンなど)」たちの思想への批判を通じて、問題への「解」をそれに対置する「対案」として安易に提起することの危険性を指摘しているからであろう。

 このことはマルクスの研究方法とも関わる。マルクスが思想形成を行った時代、ヘーゲル左派が当時カリスマ的だったヘーゲルを「死んだ犬」と揶揄していたのに対して、マルクスは自分が紛れもないヘーゲルの弟子であることを明言した。ヘーゲル左派の人たちは一見過激に見える言動にも拘わらず、決して本当の意味でヘーゲルを乗り越えてはいないということをマルクスが知ったからだろう。そこにマルクスがヘーゲルから学んだ「批判」という方法の真骨頂があるのだ。
マルクスはヘーゲル自身が行った近代哲学への批判を受け継ぎヘーゲルそのひとの思想を批判したのである。そして、ヘーゲル的弁証法は「頭で立っている」という指摘を可能にし、そのことによって初めて「足で立った弁証法」としてのマルクス自身の方法を獲得できたのである。
 このことはマルクスの思想における「批判」という方法の持つ意味を示している。例えば、今日の社会が抱える問題に対して、何が悪いかを指摘し、すぐにそれに対する対案を対置するというのはいかにも正しい方法のように見えるが、この方法は問題の背景にある深い暗闇を照らし出すことはない。なぜそのような問題が生じるのか、その根拠をまっすぐ深く追究しなければ決して本当の解は見えてこない。あたかもクイズにおける選択肢から解答を選ぶように、あらかじめ問題の枠組みが暗黙的に決められた中からしか「解」を選んでいないのである。どこかの学会での「次世代社会をデザインする」などというタイトルがこれの典型である。次世代社会はそんな簡単に「デザイン」できるようなものではない。そもそも現代社会がどのような問題を抱えているのかが「問題」なのである。それを的確に把握することなくして次世代社会のデザインなど出来るはずがない。
 マルクス的批判は、問題状況への否定的意識から始まり、それを「問題」として捉えることから始まる。矛盾や問題はそれ自身客観的に存在するのではない。 客観的問題状況と、それをある主体が捉えた「問題」とは同じではない。だから「問題」の把握の仕方そのものにそれを捉える主体の、問題状況への関わり方が示されるのである。これが矛盾の出発点である。そしてその矛盾の発生してきた根拠へと主体的批判の目は深まり、その背後にある問題発生の根拠へと向かう。それはマルクスのいわゆる下向的分析という局面である。
 この下向的分析はしかしつねに主体が抱える問題意識にプッシュされており、そのベクトルにおいて分析が行われ、徐々に「問題像」が明らかになる。そしてその時点で把握できた限りの「問題像」を表出する過程がマルクスのいわゆる上向的方法(総合)である。一旦表出された「問題像」はそれを手がかりとして再び下向分析へと向かうことになり、さらに深い問題把握に達する。そしてそれはさらに明確な「問題像」の表出を可能にさせる。
 こうして繰り返される下向と上向の過程で、批判の対象となった問題状況を構成する問題像が明確となり、それは同時にその批判を裏打ちするポジティブな側面を生みだして行くのである。
 こうして批判を媒介としながら初めて本当の意味での「解」が求められていくのである。マルクスの批判は決して単なるケチツケなどではなく、批判という形での矛盾の否定を通じてその否定の否定としての「解」をその裏側に生みだして行く過程なのである。
 このようなマルクス的批判の成果が資本論なのであるが、資本論そのものは次世代の社会への「解」を直接示してはいない。しかし、その批判を裏打ちするポジティブな側面はさまざまな形で表現されている。これらの手がかりからわれわれは、これから生み出そうとしている社会への展望をつかみとっていくことが必要なのではないのか?

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2015年4月 5日 (日)

資本について考える(その8: 資本主義以後の社会について−2)

 前回に引き続き、資本主義以後の社会についてさらに考えてみよう。前回のブログで資本論第1巻第24章7節でのマルクスの記述を引用したが、その中で「労働者がプロレタリアになり、彼らの労働条件が資本に変容するとともに、そして資本制的な生産が自らの足で自立できるようになるとともに、労働のさらなる社会化が発生する。土地やその他の生産手段は、ますます社会的に活用される共同の生産手段に変わり、私的な所有者の収奪がさらに進んで、新しい形態をとるようになる。収奪されるのはもはや自営の労働者ではなく、多くの労働者を搾取する資本家の側なのである。」というくだりはいろいろな解釈ができる。ここで「労働の社会化」とは古いギルド制などでの個人的職人技術を基礎とした労働ではなく、分業化され、組織化され、そして労働そのものが誰でもが出来る形の作業に変わったことを意味しているのであるが、この資本制生産様式特有の労働形態がそのまま資本主義以後の社会に引き継がれるという意味ではない。資本制生産様式での労働は、それが賃金(生活費の前貸し)と引き換えに資本家経営者に売り渡される労働の形態であり、そこからは労働の目的は「資本の増殖」という形で労働者自身からは疎外されている。労働者自身は単に生活費を稼ぐためにやっている労働なのだ。だから社会にとってなくても良い様なモノが大量に生産され、無駄な消費の拡大が資源の無駄使いや環境汚染を起こしても、労働者自身には制御不能なのである。

資本主義以降の社会では、労働は社会化されるとはいえ、このような形ではなく、さまざまな分業種に分かれた労働者たちが互いに連携し、互いに自分たちの生産の目的が何であるかを把握し、共通の目的意識を了解し合って生産全体が進む。だから本来社会にとって必要のないモノなどつくることはなく、資源や環境は最大限に護らねばならないし、労働者階級全体がそれを目指して直接社会的生産を制御できる。そしてそうしたことにもっとも相応しい形の新たな労働形態が生み出されていくだろう。

次につづく、マルクスの「土地やその他の生産手段は、ますます社会的に活用される共同の生産手段に変わり、私的な所有者の収奪がさらに進んで、新しい形態をとるようになる」という部分の意味は、資本制生産様式での生産手段の社会化(個人地主が所有する土地が資本によって統合される)が進む一方で、それが資本家の私的所有いう形で集中し、世の中どこを見てもどこかの巨大不動産企業の所有地と化してしまうような状態を指している。土地はもっとも基本的な生産手段であり、特に農業ではそれが明確である。

  TPPなどで農業が世界商品市場に引き出され、資本主義化(安倍首相はこれを「攻めの農業」と言っている)が進む と、必然的に小規模農家は成り立たなくなって農地は大資本によって統合化され、そこに商品としての農作物を生産する巨大な「農業工場」が現れるだろう。そして土地を失った農民は農業プロレタリアートになり、成功した農民は農業資本家になっていくだろう。まさに「本源的蓄積過程」の再現である。

こうして土地は資本主義的に社会化されるのだが、資本主義以降の社会ではそうした土地がすべて社会的な共有地となり、社会全体で社会に必要な農作物を生産する体制ができていくだろう。それはかつてスターリン時代のソ連や毛沢東時代の中国にあったような強制的集団農場化での奴隷的ノルマ労働とはまったくことなる「社会的共有を基礎とした個人的な所有」という形での諸個人の生活ができていくようになるだろう。

 工業における生産手段についていえば、巨大な工場や大規模設備はまさに社会化された生産手段であり、これを資本の増殖を目的とした私有が支配することはまったくもって不自然な形なのである。こうした生産手段が社会的共有という形になって初めて、社会全体に計画的な生産ができるようになり、必要なモノが、必要な時に、必要な量、生産できる体制が可能になるのだ。

 そのような、社会的共有にもとづく私的所有が達成されることで諸個人の目的と社会全体の目的が部分と全体の関係として無理なく成立することになるのだと思う。私的所有や個人の自由が一切否定されたスターリン時代の「社会主義」や毛沢東主義や北朝鮮やポルポト体制などは、マルクスの目指した共産主義社会とはまったく相容れない形であったことは疑いもないことだ。

 いまや労働の社会化や生産手段の社会化は、国境を越えてグローバル化している。そしてそのグローバル化する労働者階級が互いに連帯し合い、横に繋がり、巨大な、そして歴史を動かす力になることをもっとも恐れるのがグローバル資本家である。

世界中の労働者が生み出した莫大な富を一手に支配し、世界を「我がもの」にしている彼らは、労働者が国境を越えて階級的連帯の動きをしないように、国内でしきりにナショナリズムや「アイデンティティー」を煽り、「国家の危機」とか「国益が失われる」とかほざいて、各国の労働者階級同士の対立を煽っているのである。

「国民」とか「国益」ということばに騙されてはならない。われわれの歴史は必ずや国境を越えた労働者の連帯を生み出すに違いないのだから。憲法改定問題や沖縄基地問題などもこうしたコンテクストで考えねばならないだろう。

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