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2015年4月12日 - 2015年4月18日

2015年4月18日 (土)

資本について考える(その12 : 資本主義以後の社会について−6)

 話が少し本題から逸れてしまったようなので、ここでもう一度、資本主義以降の社会について考える際に重要な問題に触れておこう。

  それは、いまグローバル化し、世界中の労働者から収奪された「価値」が、少数の資本家たちの手に集中して莫大な資本家的富となっているが、これが一体どうなるのかということである。一口に言えば、それは労働者階級の手に取り戻されるべきものであって、それを生み出した人々に再配分されるべきものである。 しかしそれは社会化された形で取り戻されるべきものであろう。宇沢弘文がいう「社会的共通資本」はそういうものを指すのかもしれないが、それは決して「資本」ではないはずである。いわゆる「国庫」としてでもない。なぜなら近代的国家そのものが資本主義社会の産物であり、これが国内的には「国民」という形で労働者階級の存在を覆い隠し、対外的には労働者階級のインターナショナリズム的本質を覆い隠すための手段になっているからである。

 グローバル化した資本により国境を越えて労働者が搾取されているのに、それによる資本の蓄積を国単位で考えるのは間違っている。例えば、国家は、資本家に雇用され労働力を搾取されている労働者から、さらにまたさまざまな形で税を徴収し、一方で「法人」として資本家企業からも税を徴収することで、それらのまったく性質の異なる富(一方は剰余価値部分を資本家に不当に搾取された残りの労働者の生活必要部分からの切り取りであり、他方は搾取した価値部分を資本家が所得として獲得した富である )を一体化し、あたかも資本家的法人からも労働者からも平等に税を徴収しているかのように見せながら、資本家階級全体にとって必要な「社会共通資本部分」をファンド化し、それを「国庫」からの支出として税政を通じてさまざまな社会的事業や社会保障費(これは個々の資本家がおこなうべき労働者の生活保障を労働者からの税金によって社会保障費として徴収したものである)に用いる。一方でこうした税収を担保として国債を発行し、それによって大規模国家プロジェクトや戦争に必要な費用を捻出する。他方資本家同士は、資本がグローバル化するに従ってそこでの国際的規模での投資を資本家同士が融通しあい互いに利益を最大化するため(つまり各国の労働者からの収奪を資本家的に分配しあうため)に儲けられた金融システム(世界銀行、AIIBなど)を設ける。そしてそこで流通する国際貨幣(もはや価値実体を伴わなくなっている単なる価値表象)の価値を国際的に維持管理するための基金(IMF)といったシステムをつくることによってそれはからくも保たれている。

 資本家的国家は、これらの国際金融制度を活用する資本家をバックアップし、それによって潤う資本家を通じてさまざまな国の労働者階級から収奪された富を「国庫」として取り込む。これが「国益」の実態である。だからアベノミクスで株価があがって景気がいいと喜ぶのは資本家階級だけであって労働者階級はますます生活が危うくなるのである。これがいまの「経済成長」の実態である。そしてこの「国益」をまもるために軍隊が増強され憲法が改定されようとしている。そこでも「国益」をまもるために労働者階級が犠牲にされる。

 こうして蓄積されるグローバル資本家的富は、特定の国の労働者階級によって取り戻されるのではなく、世界中の労働者階級の連帯と団結によって、国際的な社会共通ファンドとして取り戻されるべきものなのだと思う。そして、そのときは同時に「国民」や「国益」というまやかしが明らかにされ、資本家的国家そのものが換骨奪胎される(もちろん形としての国家は存続するだろうがその意味はまったく異なったものになるだろう)ときなのだと思う。また貨幣もその流通手段や支払い手段としての機能(労働時間に比例した価値を表象するものとして)は維持されるだろうが、それが資本の一形態であることはなくなるだろう。

 そして国際的な社会共有ファンドに組み込まれた生産手段は、各地域やコミュニティー単位で労働者が自由に自分の生活を生産するために用いることができるようになり、そこでは、資本の法則が生んだ馬鹿げた競争は必要なくなり、膨大な無駄の生産は不要となり、したがってエネルギーの無駄使いや自然破壊はまったく意味のないものとなり、必要なモノが必要なだけつくられる本来の意味での経済的社会が可能になる。

 われわれはそういう社会を目指すべきであり、それは実現可能なのである。

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2015年4月15日 (水)

資本について考える(その11: 資本主義以後の社会について−5)

 さらに宇野学派についていえば、宇野の考え方を受け継いだ第2世代の研究者たちがかつて展開した、国家独占資本主義は、「段階なのか?」という論議があった。ここで詳しくは述べないが、ここでいう「段階」とは資本主義社会の新たな段階として、いわゆる帝国主義段階というのを想定する考え方である。これは宇野弘蔵のいう「段階論」という視点から捉えた考え方であり、資本論に見られるような「純粋な形での資本主義体制が確立した段階」でそれを対象とした理論が「原理論」として成立するのであるが、それに対してそれが歴史的な変貌をとげてあらたな段階へと展開していく状態を論じるのが「段階論」である。例えば、20世紀初頭の資本主義社会をイギリスを中心にして分析したレーニンがそれを金融資本が主導権を握った帝国主義的資本主義社会として把握したのがそれである。つまりマルクス以後に顕著となった資本主義の帝国主義的段階である。これについてもここでは詳しく述べないが、レーニンはこの分析にに基づいてロシア革命を労働者階級による世界革命の端緒として考え、運動を推進した。

 そして第1次世界大戦があり、そのさなかにロシアで「社会主義」革命が起き、それ以後の国際社会の図式を塗り替えた。第1次大戦後のヨーロッパの変化がやがてナチズムを生み、一方ではソビエト指導体制がスターリン一派による変貌を遂げることで第2次世界大戦へとなだれ込んだのであるが、その過程で、資本主義体制も大きな危機を迎え、それに対処すべくケインズらの理論に基づいた新資本主義体制ともいうべき形が生み出されていった。これを国家独占資本主義体制と呼ぶことがあるのだが、戦後の資本主義再興が盛んだった1960~70年頃に、 これが帝国主義段階の「形態」なのか、帝国主義に変わる新段階なのかが論争になった。しかし、私の知る限りこの論争に決着がつかないまま、いつしか「国独資」という把握そのものも曖昧となり、「新自由主義派」などがケインズ派を批判してアメリカやヨーロッパで主導権を握り、「社会主義圏」の低迷が顕著になったことで、ますます混迷の度を深めていったように思う。そして1990年前後の「社会主義圏」崩壊という事態の後は、まったく鳴りを潜めてしまった。
 私はこの過程で宇野学派はその最大の弱点を晒してしまったと感じた。それは一言で言えば、現状分析の弱さとその頓挫である。宇野理論のいう3段階論の最上位(最下位?)にある現状分析がなぜできなかったのか?なぜ原理論や段階論にこだわることになるのか?といった疑問である。
 これは多分その方法論での弱点に起因したものだと思う。ここで「科学としての」資本論という宇野のとらえ方がもう一度議論の対象にならなければいけないのではないだろうか?
 これはあくまで私の考え方であるが、マルクスは資本論の冒頭から商品分析、価値論、と非常に抽象度の高い理論を展開しているが、その前に、ライン新聞の記者として当時の資本主義化が進むドイツ社会の現状をよく把握している。そしてエンゲルスらによるイギリス社会での労働者階級の実情分析などをつぶさに知るところから彼の分析は深まっているのだ。つまりマルクスにおいては常に下向的分析が上向的理論展開のドライビング・フォースになっていると思われる。しかし宇野派においてはどうだろう? どうも原理論の整合性を高めることから出発し、その「あてはめ」として現状を捉えようとしているかのように見える。方向が逆ではないか? マルクスは資本論を高度に抽象的な理論体系を成しながら同時にそこに現状分析を巻き込んだ形で書いている。宇野は、なぜマルクスが資本論をそのような形で記述し、決して「経済原論」として「純化」した形では書いていないことに目を向けるべきではなかったのか?
 経済学者はマルクスやレーニンによる資本主義社会の分析やそれに対する批判や論議を踏まえながらも、そこには表れてこなかったあらたな歴史的現実をあるがままに捉え、それがいったい何を意味するのかを分析することから出発すべきではないのか? そうでなければ肝心の「原理論」そのものが固定化されてしまい、「歴史の遺物」化されてしまうだろう。
 資本主義以後の社会を考えるということは、そういういみで、目の前の現実をあるがままにとらえ、その視点の基礎としてのマルクスの理論を生かしながら新たな現実を巻き込んだ理論を生み出し、それを実践に結びつけていくことなのではないだろうか?

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2015年4月13日 (月)

資本について考える(その10: 資本主義以後の社会について−4)

 先日友人から誘われて参加した、ある資本論講読会で、資本論冒頭の商品分析について、私は、これはマルクスが単なる歴史上の単純商品について分析しているのではなく、労働力商品を意図して書いている、と言ったところ、そうではなくこれは単なる歴史上の単純商品の展開を論じているのだと反論を受けた。そしてその人は私の考え方が宇野弘蔵から来ているのではないかと指摘した。私は「そうだ、宇野弘蔵のとらえ方は正しいと思う。資本論は労働力商品の自覚過程を表現していると思う」と言った。話はそこで終わってしまったが、私は宇野弘蔵への弁護論をどこかで述べておく必要があると感じた。それは、私が独学で宇野の「経済原論」や「価値論」から多くのものを学んでいるからだ。一部のマルクス研究者やマルクス主義者からは、宇野弘蔵の理論はマルクス経済学ではなく宇野経済学だ、と評されている。しかし私から見れば宇野はマルクスを自分として納得の行く形で理解しようとしているのであって、それがかえってマルクスの真意を汲むことであると考えていると思う。マルクスの理論をあったがままに理解することはもちろん最も重要なことである。しかしそれは決して一字一句マルクスの言葉を経文のように引き写して絶対化することではないし、それがマルクスを真に「理解」したことにはならない。そのことを身をもって示したのが宇野弘蔵であったと思う。

 宇野弘蔵は自分はマルクス「主義者」ではなく、科学としての資本論を捉えている、と述べている。このこと自体はいろいろな論議が必要であるが、宇野は「主義」という形のイデオロギーを前提としなくても真理が追究できるはずだという見地で「科学として」と言っているのだと思う。ここでいう「イデオロギー」とは何なのかが問題なのであり、大いに議論が必要なのであるが、ここではひとまずそれには触れないことにしておこう。
 ここで言いたいことは、マルクスによって明らかにされた「価値」という概念の基礎となっている実体である。マルクスは価値の実体は社会的に必要な労働であり、その値は、その抽象化された表現であって、その社会的必要労働に要する平均的労働時間の量を表すと言っている(スミスやリカードなどの古典派による労働価値説とマルクスのそれとは本質的に異なる) 。この一般的な意味での価値の内実をマルクスは商品の分析から明らかにしたのであるが(宇野はマルクスのここでの分析に無理があると指摘しているのだが)、そこでは商品というものが生まれてきた歴史的過程に含まれている「存在の論理」(つまり存在の論理としての生成の論理) を明らかにしようとしているのであって、単に商品の歴史を述べているわけではないと思う。
  資本論ではこうした価値がまず商品の交換の場で、相対的価値形態と等価形態という裏表の関係として表れ、それが一般的等価としての貨幣という形態を生みだすと同時に裏表が逆転して物神化され、資本に転化していく過程の論理が述べられているのである(と私は理解している)が、 労働者は資本論を読むことによって、自分の能力が「価値を生みだす能力」(つまり労働力)として、労働市場で商品価値(相対的価値形態)を付けられ、その「等価」としての賃金をうけとるのであるが、実はその「等価」としての賃金は自分が労働時間内に生み出す価値のうち自分自身の存在に(つまり労働力の再生産に)必要な生活資料の価値部分でしかないという矛盾的事実を自覚することになるのだと思う。そして自分たちが生み出した価値の大部分が資本として資本家の所有物となり、逆に自分たちをつねに支配する存在になっているという事実を理解することになるのだと思う。宇野の言葉を借りれば「本来商品とはなりえない労働力までもが商品となっている社会」が資本主義社会なのである。
 宇野は、「価値論」の中でこうした価値の歴史的展開を、論理必然性ともいうべき論理の展開で把握しようとしているのだと思う。それと同時に、価値というものを社会的必要労働の社会的分担という見地から、それぞれの分担労働で生み出された価値を交換し合うための指標という意味が本来そこに含まれていることを指摘している。このことはマルクスも資本主義以後の社会における「貨幣」に代わる「労働証紙」というものの可能性に言及している。ある人が社会的必要労働のどのくらいの割合を行ったかを労働時間によって示す証紙であって、これによってその値に相応しい労働の成果物を交換することでそれぞれが分担した労働の成果を対等に分け合うことができるのである。 価値の分析はこうして資本主義社会でのマヤカシの「等価交換」の矛盾を曝き、それによって次世代社会での社会的必要労働の正当な分担と分配方法が見えてくるのである。
 資本主義社会以後の社会を想定するためにはこうした研究の成果を不当に退けることなく、キチンと踏まえると同時に、刻々と形態変化を遂げる資本主義社会がどのような方法で資本の延命を図ろうとしているかを的確につかみ、そこに存在する資本のメカニズムを明らかにすることで、次世代社会実現へのプログラムを具体化させていくことが必要なのだと思う。

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