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2015年1月4日 - 2015年1月10日

2015年1月10日 (土)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その4 衣・食・住)

(その3からの続き)

 それでは、次に、われわれの生活に絶対必要な「衣食住」について考えてみよう。
「衣」: 昔は木綿の普段着でもすり減って使えなくなると、それをほぐして座布団のパッチや雑巾にした。われわれの生活の中には、モノを大切にし、有効な形に仕立て直しそれを使い切るという習慣があったからだ。それがいつしか日本は衣類や雑貨の輸出国となり、資本家企業の元で大量に衣料がつくられ販売されるようになった。普段着は使い捨てとなり、やがて気がつくとそれらはアジアからの輸入品になっていた。すでに国際市場では労働力の安い国でつくられた衣料が席巻していた。やがて日本ではユニクロのようなある品質とデザインを維持しながら安い衣料をつくるようになったが、その作り手は相変わらずおどろくほど低賃金で働くアジア諸国の労働者であり、われわれの生活に根付いてしまった衣類の使い捨て状態は変わらない。われわれの生活からはもはや裁縫用具やミシンなどというものは姿を消してしまった。
「食」: 食料はわれわれの生活にもっとも必要なモノであり、昔はほとんどが国内で自給自足できていた。その後、主食であるコメは食糧管理制度のもとで長く保護されていたため、国内で生産されていたが、その他の食品は自由化によってどんどん輸入品が増え、穀物メジャーなどの市場支配によって国内での生産は圧迫された。やがて食生活の変化もあってコメも同じ運命を辿ることになり、ほとんどすべての食材が輸入に頼ることになっていった。さらに大きな変化は、昔は食事は食材を買って自宅で料理するのが普通だったが、いまでは出来合いの食事をコンビニやスーパーで買ってきて電子レジで「チン」して作るか、手のかかる食事は外食で済ます家庭が圧倒的に多くなった。その背景は主婦が家計を支えるために働きに出て食事を作る時間がなくなったことなどがある。ここでも生活者は「つくり手」の立場を追われたのである。
 そして加工食品産業や外食産業が輸入食材に頼る現実がある一方で、国内で生産される野菜や魚は高価な食品となり、富裕層の食生活を彩ることになった。そのため国内の生産者は「高くても売れる付加価値商品」の生産に走ることになっていった。最近では、海外の食品企業での安全性が問題となって、国内産の食品が市場で増えたが、しかしそれは貧困層が毎日摂るにはあまりに高すぎる食材である。そして皮肉なことに、富裕層の人々はリタイアすると田舎に別宅を持ち、そこで畑仕事をしながら野菜を作って食べることを好んでやるのである。
「住」: 昔はそれぞれの家が、施主が、大工や建具屋へ直接相談し、両者の交渉でデザインが決まって建てられていたが、いまは、ハウスメーカーという大企業が、あらかじめ住宅建材を量産し、設計エンジニアが注文に応じてそれを用いたいろいろな設計サンプルから選択肢を組み合わせて施主の要求に応じる形で建てられている。だから一目見ただけで、どこのハウスメーカーの「製品」であるかが分かる。地代が途方もなく高い日本では、狭い土地一杯に家が建てられ、生け垣で囲まれた古い美しいお屋敷が相続などで売り払われると、その後にたちまち小さな箱のようなよく似たデザインの量産住宅が建ち並ぶ。生活者にとって高くつく特注の住宅を建てることは事実上できなくなっている。だからこれで我慢するしかないのだ。それでも自分の家を持てるだけでも恵まれた方である。多くは賃貸住宅で生活せざるを得ないのだから。
 インテリアはどうか?せめてインテリアだけは施主の好みを直接反映したいという望みはあるが、これも出来合いのサンプルから選択するしかない。イケアのようなこじゃれたデザインで安い家具などもあるが、これはヨーロッパなどの若いデザイナーがデザインし、アジアやアフリカの驚くほどの低賃金で過酷な労働によってつくられている。そして多くの場合すぐに壊れるのである。つまりこれらも使い捨てという方針でつくられている。そうしないと商品の回転率が下がり、儲けを維持できなくなるからだ。
一方では、冷蔵庫、電子レンジ、TV、スマホ、パソコンなどが生活必需品化し、賃金の大部分はこうした生活用具や通信費、光熱費、そして法外に高い住居費に費やされる。
 こうしてわれわれの生活必需品はすべてが資本のもとでデザインされ、その多くは過酷な低賃金労働でつくられた輸入品として市場にやってくる。それは「ひゃっきん」という100円均一ショップの存在も可能にした。だから安くて使い捨てのモノを買って生活すれば何とか生きては行ける。その結果、日本の労働者も賃金が安く抑えられることになるのだ。
 労働賃金とは、資本家や富裕層がかせぐ「所得」などと同じではなく、資本家が雇用する労働者の労働力の再生産のために最低限必要な費用なのだから。そしてこの労働力の再生産費として受け取った賃金をわれわれは生活のために、海外の労働者たちがつくった生活資料商品を買うために支払わねばならず、その貨幣は巡り巡ってふたたび労働者を雇用して商品をつくらせている資本家の手に「所得」として戻すことになるのだ。
これが資本主義生産様式の社会におけるモノづくりの姿である。
(次回に続く)

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モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その3 ソフトとネットの世界)

(その2からの続き)

 かつて、ホーム・コンピュータの目指した世界では、誰でも簡単に自分が欲しい機能を持つソフトウエアを作れる、という目標があった。Appleは最初、AppleSoftという名前のBASIC言語をApple IIに内蔵させることで、これを果たそうとした。やがてコンピュータのハード的レベルが上がり、それに対応してシステムやアプリの世界もレベルが上がったため、コンピュータ言語の世界も変化し、Macintoshには HyperCardというカード型データベース兼イベント処理型のソフトとその世界でアプリを自由に作れる言語(HyperTalk)が内蔵されるようになった。
 私はこのHyperTalkでいくつものスタック(HyperCardの世界で使うアプリをこう呼んでいた)をつくって楽しんだ。そこにはホーム・コンピュータの目指す、ユーザがアプリを自作する喜びの世界があった。
 しかし、やがてアプリをつくることは専門家の仕事になり、ホーム・コンピュータは「パソコン」として単にアプリを買って使うためのマシンとなってしまった。やがて、インターネットの普及によってパソコンは学生を始め、生活者の必需品とされるようになり、生活者はそれに高いソフトを買ってインストールして使うことを余儀なくされていったのである。ここで当初の「21世紀の知的自転車」という理想は崩れ去り、やがて生活者は稼いだ賃金の大半をパソコンやスマホの購入、そのアプリの購入、そしてインターネットの通信費などに支払わねばならなくなり、再びそれらを浪費する「消費者」に貶められてしまう道を歩むことになって行ったのである。
 インターネットというボトムアップ的ネットワークが世界規模で広まっていったときにチャンスはあった。それを世界中の生活者のイニシアチブの元に置くことができれば、ソフト的世界は、グーグルやマイクロソフト、アップルなどの巨大資本に牛耳られることのない自由な世界が切り拓かれる可能性があった。しかし、残念ながら生活者に組織はなく、世界中の生活者が連携する組織的基盤がなかったため、巨大な資本にバックアップされた強力な企業組織の前にその可能性はもぎ取られてしまったのだ。
 同様なことは電子出版の世界にもあった。紙の書籍の出版は出版業界という世界が牛耳っているが、それに対して、電子出版技術が進み、誰でも自由にインターネット上で出版ができる電子出版の時代がやってくるという期待があった。しかし、これもいまでは「ブログ」や「ツイッター」などという形でしか行えない。電子出版の世界では相変わらず「著作権」や「知的所有権」という形で大手出版業界がイニシアチブを握っており、生活者の自由な出版活動は押さえつけられてしまった。
 こうしてソフトの世界でも生活者は「つくるよろこび」や「生み出すよろこび」を奪い取られてしまったのである。
 一方、こうした巨大企業によるネット社会支配への反抗として「アノニマス」のようなハッカー集団が登場した。しかし、他方でそうしたパワーは、「サイバー戦争」に見られるような国家によるネットワーク支配体制に吸収されつつあるか、あるいはテロ集団化への危険な道を歩んでいるようにも見える。
 こうした世界の流れの中で生活者は翻弄され、稼いだ賃金をどんどん使わせるために資本のもとでモノがつくられ、生活者は、どこかの企業が激烈な市場競争の元で生み出した「スマホ」の新製品を競って買い、それによってこれもどこかの企業が少ない元手で多額の利益を得ようとして生み出したアプリ製品を買い、通信会社に高い通信費を払って、日がな一日、スマホの世界に入り浸らせられてしまっている。そしていつのまにか、そのコントロールされたネット世界から与えられた麻薬のような情報群に犯され、従順な「消費者」として何の疑問も感じなくさせられ、選挙があれば、それらの世界を牛耳っている巨大資本の頂点に立って、「経済成長(実は資本の成長のことである)こそわがすべて」などと叫んでいる権力者たちを選出してしまう。なんと惨めなことか!
そう、だからこそ、またまた言おう。モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!と。
(次回に続く)

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2015年1月 9日 (金)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その2 Appleのケース)

 (その1からの続き)

しかし、いまの資本主義社会でのモノづくりは、こうした生産手段を占有する企業を経営する人々が支配権を握っているのではなく、そうした企業に資金を提供している人々、つまりその企業に融資している金融機関、その企業の株を買った投資家や株主などによって支配されている。生産企業の経営者は「機能資本家」としてそうした本来の資本家たちに支配され、その資本の増殖の機能を果たしているにすぎない。

 こうしてモノづくりは投資や蓄財の手段とされ、社会にとって必要な物資はすべてこのような仕組みの中でつくり出されている。
 資金は持っていないが、意欲と能力の高い若者達が新しくモノづくりの企業を立ち上げようとする場合、まずその起業の主旨をアピールし、資金を集める。そしてその資金で生産手段を購入し、そこに労働者を雇用してモノづくりを始める。いまや世界一の「企業価値」と言われるようになったアメリカのアップル社もこうして起業した。
  私は1980年代の初め頃からこの会社に注目していた。起業者のジョブスは天才的エンジニアであるウオズ二アックと組んで会社を興し、ガレージの中に作ったコンピュータ製造工場を立ち上げた。当時はコンピュータがIBMなどによる大規模なシステムとして構築されたものしかなく、それに対して「21世紀の知的自転車」として誰でも気軽に使えるホーム・コンピュータの実現を目指して出発した。私は このコンセプトはひとつの革命をもたらすだろうと予測していた。そしてApple IIを世に出し、やがてLisaを出して失敗し、その廉価版であるMacintoshを世に出すことで、この革命を現実のものとした。
 しかし、ジョブスは製品開発に集中すべく、企業経営の専門家を呼び込んだ。コカコーラ社のジョン・スカリーである。スカリーは投資家や株主の要望に応えるため「売るためにつくる」ことに徹しようとした。そしてその結果、彼と対立を深めたジョブスはアップル社をやめ、スカリーの経営方針で他の競争会社との「差別化」が曖昧となったアップル社の経営は危機に立たされた。
 その後、一時Next社やPixar社を立ち上げたジョブスが再びアップルに戻ってきたが、それ以後のジョブスはもはや以前の彼ではなかった。自身のカリスマ性を全面に出した経営で、企業イメージを高め、質の高いデザインによって製品を「付加価値商品」として売りまくることになったのである。そこに投資家が目を付けないわけがない。株価はどんどん上がり、ついに「世界一の企業価値」(企業価値とは投資家達が企業をひとつの商品のように売買の対象にする場合のとらえ方である)をもつ会社といわれるようになってしまい、完全に投資家や株主に支配された企業となってしまったのだ。いまやアップル社は、デザインや製品企画はシリコンバレーの本社で行うが、アジアやラテンアメリカの「途上国」での大量の低賃金労働によるモノづくりによって成り立っている。
 このアップル社の成長過程は現代のモノづくりのひとつの典型であると私は考えている。
 つまり、いまの資本主義社会では、だれでも能力のある者は起業することができ、それが成功すればだれでもその能力によってリッチな生活ができるようになる、というのが若者向けの「売り文句」となっているが、自分のやりたいことを社会に役立てようとすれば、どこかで必ずそれが資本のターゲットとなり、巨大な資本家たちの欲望の波に呑み込まれることになり、やがて、自分は「機能資本家」として多くの低賃金労働を搾取しながらそこから吸い上げた莫大な価値を巨大資本に捧げながら生きる位置に置かれていることに気付くことになるのである。もちろん気付くこともなく新興富裕層の一員となったことに満足している機能資本家がほとんどであろうが。
 こうして意欲ある若者の能力はことごとく資本に支配され、その機能となりモノづくりは資本のもとで「売るために」行われるようになる。そして生活者は資本家企業に雇用され賃金をもらい、そのお金で資本家企業が作ったモノを買うだけ(正確には「買い戻すだけ」)の「消費者」となる。
そう、だからこそ、ここでもう一度言おう。モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!と。
(以下次回に続く)

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2015年1月 8日 (木)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その1 プロローグ)

最近、「モノづくりの創造性」という本を海文堂から出版したので、それに関連して、モノづくりという視点から現代社会の矛盾を採り上げてみようと思う。

 ここでいうカタカナ書きの「モノ」は人工物、つまり人間が何らかの意図によって自ら生み出したものを指す。そこにはいわゆるハードウエアもソフトウエアも含まれる。
 「モノづくりの創造性」にも書いたように、人類は、自らの手でモノをつくり出すようになって初めて類人猿からヒトつまりホモサピエンスになったと考えられる。その過程は数十万年という時間を要したと考えられ、それは百数十億年の自然史の中では一瞬のできごとであったかもしれないが、人類の歴史においては長い長い時間を要したともいえる。
  ヒトは何かの目的でモノをつくる。ただ何となく出来てしまったモノであっても、その「何となく」は何かがしたかったか、何かがほしかったからであろう。出来てしまった結果からその「何か」に込められた意図が何であったのかを自分であらためて知ることもあるかもしれない。しかし、これらはすべて大きな意味での「意図」にもとづく行為であるといえるだろう。
  こうした「意図」とは、一方で「自分」というものが自覚され、他方で自分の外側の世界を「対象あるいは他者」として認識するようになって初めて、両者の間で生じるある種の対立や緊張関係のもとで表れる内面的状態であるといえるだろう。この対立あるいは緊張関係を解消すべく行う行為は、人間の「実践」の土台であるが、実践はそれを成し遂げるためには、ある種の方略や方法が要求される。
 そしてその方略や方法が「手段」として認識されるようになり、実践の求める結果が人体の物理的・生理的制約を超えた状況を求めるようになると、そこに、ある対象を自分の身体的能力の延長として用いようとする意図が現れる。こうして人類は、手段あるいは道具を用いて目的を達成する、「目的・手段関係」という実践の基本的パタンを確立したと考えられる。
 しかし、たまたま近くにあった自然物を目的達成の手段にするということは、偶然に支配された状態であり、それをより確実にするためには、手段や道具を自分自身の手でつくり出すことが必要である。そこに人工物つまりモノが登場する。
 こうして、モノはヒトが自分とその外部世界との間に生じるある種の対立や緊張関係をひとつの「問題状況」として認識し、それを解決する手段として自らの手でモノをつくり出すようになったのである。だからモノにはそれをつくったヒトの意図が反映されている。そしてそれが本当に目的達成に役立ったかどうかという判断が成功あるいは失敗として認識されることになるのである。ここにモノづくりの原型があるといえるのだ。
  しかし、いまわれわれの住む現代の資本主義社会では、このモノづくり行為が分裂し、逆立ちしてしまっている。つまり、生活に必要なモノはすべて「生産者」と呼ばれる人々によってつくられ、生活者はそれを買うことによって取得し、消費できるようになる。
  「生活者」は、実は何らかのかたちで社会に必要な労働を行っている人々であり、その中には直接に生活物資を生産している労働者も数多くいる。ところが彼らは、生活の場面においては「消費者」と呼ばれているのである。
 そう、われわれの社会で日々生活に必要なモノを作っている人々は、実際には生産者なのに、「消費者」と呼ばれている。なぜなのか? それは生産に必要な手段つまり生産設備や原材料などを最初から占有している人たちがおり、その人たちが、生産に必要な労働者を「労働力」として雇用し、生活物資を作らせているからなのだ。しかも生産に必要な労働の過程はズタズタに分割され、モノの設計や企画を行う頭脳労働者がおり、その人たちが作った図面や企画書によってモノを実際につくる現場の労働者がおり、それを市場に運び分配する物流関係の労働者がおり、それを店に並べて売る人々がおり、...という具合である。
 また生産手段を占有する側の機能もいくつにも分かれ、設備導入を実行する人々、原材料の入荷を管理する人々、企業全体のお金やモノやヒトの管理をする人々...などなどであり、これらもある種の「頭脳労働者」として機能している。
そしてそれらすべての労働を支配する人々が企業の経営を考え、運営資金を集め、いかに利益を上げるかという立場から、そこで労働をしている人々に指示を与えている。このような人たちが「生産者」(正確には機能資本家)と呼ばれているのだ。
 なぜこんな風にしてモノが作られるようになったのか? それはひとことで言えば、すべてのモノが「売るため」につくられ、そしてそれによって利益をあげることが目的となり、モノに込められた「必要」や機能は、そのための手段と化してしまっているからなのである。本来のモノづくりにおける目的と手段が逆転しているのだ。
モノはいかに売れるようにつくるか、いかに市場での競争に勝つために安く作るか、こうした意図がすべてのモノづくりを支配しており、モノが生み出され販売されるまでのすべてのプロセスがその目的のために極度に「合理化」される。そして実際にモノづくりをしている人々も含めてわれわれ生活者は、「生産者」の利益獲得に必要な商品の購買者として、つまり「消費者」として(正確には購買は消費ではない)のみ存在意義があるかのようにされてしまっている。これがわれわれの住む資本主義経済社会でのモノづくりなのである。
(以下次回に続く)

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2015年1月 5日 (月)

アベノミクスのマルクス経済学的分析(その9 カタストローフ)

アベノミクスの矛盾について8回に渡ってマルクス経済学の視点から分析を行ってきたが、今回で一応一区切りとしようと思う。

 これまですでに書いたように、資本の成長である「経済成長」は、いまや「消費拡大」とグローバル化した資本の国際的競争によってしか延命できなくなっており、世界人口の大半を占める労働者階級の生活は、そのための手段にされ犠牲にされてしまっている。そしてさらにそれは「宇宙船地球号」の内部で限られた資源やその自然環境を食いつぶし破壊しながらしか存立し得なくなっている。自分の身体を食いつぶしながら「成長」する経済はいずれ必ず破綻することは誰の目にも明らかである。
  いまアメリカでのシェールガス採掘が安くできるようになったため、世界中で石油価格が下がり、石油や天然ガス資源を売って儲けていた国々では不況に陥っている。 石油消費国では増え続けるエネルギー代が節約でき経済に好影響を与えていると思われているが、しかしこれを喜んでなど居られないはずだ。なぜなら、それによってかえって「消費拡大」が助長され、地球環境はさらに確実に悪化していくからだ。
科学的予測に依れば、30年後には地球の温暖化が深刻な状態となり、気候の激変で世界中の農産物収穫量は激減し、海水温の変化で海産物は激減し、一方でまだ増え続ける人口に対して深刻な食糧難がやってくる。第1次産品の価格は高騰し、これを巡って金儲けをしようとする資本家たちが動き回るだろう。富裕な人々だけが食料にありつけ、大半の人々は食料品の高騰で生活が持たなくなるだろう。自然災害が激増し、世界的な金融恐慌で世界経済は大混乱し、株価は暴落しお金の価値は激減し、企業の倒産が相次ぐだろう。そして社会不安が激増する。それでも石油や原発などでエネルギーを供給を増やして 「消費拡大」を目指すならば、やがて互いの利害をぶつける資本はそれが支配する国々の間で「国益を護るため」と称して戦争を引き起こさせることになるだろう。こうしてやがて人類の大半は生存不可能になるだろう。
 おそらくそうなる前にそれに何らかのブレーキを掛けねばならなくなるだろうが、そのブレーキは資本主義経済の存立を不可能にし、あらたな、世界経済体制を築かねばならなくなるだろう。そのときこそ150年前にすでに資本主義社会の矛盾の本質を見抜いていたマルクスの残した経済学理論研究の成果が大きな力になるに違いない。それはそう遠くない将来に必ずやってくる。
 だが、残念ながらいまそのことに気付いている経済学者は実に少ない。だから私のような経済学の素人が苦労してこのような分析を行わねばならなくなるのだ。
 いまの幻想の「豊かさ」やまやかしの「成長」時代に生きている若い人たちには、ぜひこのことに気付いてほしい。そして、こうした視野のもとで新しい社会をどう築いていけるのかを考え、実行していくことこそ、あなた方の生きる意味なのではないかと思う。違いますか?
(完)

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