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2015年5月10日 - 2015年5月16日

2015年5月15日 (金)

これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その5: つまりはこういうことなのかも知れない)

つまりは、こうなのかもしれない。

自分が「自分」であるという意識がどこからくるのか? 

  自分は世界から孤立しそれとは無縁に「自分」を確立したわけではない。ある特定の歴史的な時代に、ある特定の場所で、そこに暮らす人々との関係において、自分の位置が決まってくるのであって、その中で「自己意識」が確立していく。内なる自分が確立するのは外なる「他分(他者それぞれの自分)」との関係においてであり、その自他を区別することを可能にするのがそれらの存在を可能にしている場所的・歴史的土台である。
  いかに自分の勝手に生きたいように生き、「人生を楽しもう」としてもそうである。何が「勝手」というかたちでの自由を可能にしているのか、何を「楽しい」と感じるのか、なぜ自分がそれを「楽しい」と感じるのかを考えてみればそれが分かる。
 所詮、人間はたった一人では生きて行けない。マルクスの言葉を借りれば、「類的存在」である。そうであれば「類的個」つまり社会的繋がりの中で初めてその意味をもつ「自己」という個の存在は、その社会が矛盾を生じ始めたとき、それを自己の存在危機として直感せざるを得ないだろう。逆にいえば、自分自身の存在の危機を感じるということは、日々の生活の中で自分を「自分」として位置づけることが出来ない世の中になりつつあるからであろう。
 だから世の中が自分を受け入れてくれない、とか世の中に入っていけないという思いから自死にいたるということは、その危機を暗黙のうちに他者に手渡し、引き継がせることを意味するのではないだろうか? まして、自分が死にたいのに他者をそれに引き込み「誰でもいいから殺したかった」などとして巻き添えにするのはどう考えてもわがままとしか言いようがない。
 ならば、自分を「自分」にしている世の中の真実を知ろうとすべきではないのか? そして自分の「置かれた場所」を知るべきではないのか?
 どこかの牧師がいうように「置かれた場所で咲きなさい」と「神」が命じたとしても、その「置かれた場所」が何なのかを知らずに「咲く」ことなどできない。それは「盲目的屈従」でしかない。
 もちろん 「耐えること」が悪いのではない、しかし「耐えること」が美しいのでもない。自分が何に耐えているのかを知ることが必要なのであり、そこからつかんだ真実が本当の自分への道をスタートさせるのであり、そこに向けて歩み出す過程でときには別の次元で「耐える」こともまた必要になるのかもしれない。
 精緻で高度な理論的解説よりも、時には、苦しみから生まれた一行の詩やブルースのような唄が何よりも真実を表現していることがある。どのような形であれ、真実を求め真実を表現することこそ、生きていることの意味を示すのではないだろうか?
 偉そうなことを言ったが、これも七十数年生きてきた一人の老人が、自分が自分であることの意味をいま、こう考えているというプレゼンにすぎない。
 さても生きるということは難しいことよ! されど生きていなければこんなことを考えることもできなかったのだ。

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2015年5月14日 (木)

これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その4:私の人生の意味は何なのか?)

資本主義社会が悪いとかそれを変えなきゃいかんなどと考え、自己矛盾に悩むなんてことは無意味であって、いまの人生を肯定してそれ楽しめばいいんじゃないの?  という「暗黙のアドバイス」は承知してるし、実際そう言ってくれる人もいる。私自身もあまり辛いときはときどきそういう方向に逃れようとすることもある。

この「暗黙のアドバイス」は、いま自分の人生を肯定できるような状況にある人にとってはリアリティーのあるものだろう。しかしとても自分の人生を肯定的にとらえることのできない状況にある人たちにとっては「そんな考えは毎日の食事をどう確保してどう生活したらいいのかと必死になって生きている者からみれば大変な贅沢だ」ということになる。所詮私は「プチ・ブル的知識人」の一人に過ぎない。だからこんなことに「悩む」ことができるのだ。
  私のような立場の人間を含め、いわゆる「中間層」と呼ばれる人々の日々の生活が比較的安定しているのは、低賃金労働を求めて次々と 「開発途上国」の労働力をグローバルに搾取し続ける資本家たちが上げる巨額の利益が資本家だけではなく、さまざまな形で「中間層」にも回ってくるからなのだ。それを見て見ぬふりをして「肯定的にとらえて人生を楽しむ」ことなどできるわけがない。
  実際、こ日本でも子育て世代では6人に1人が「貧困層」に入るとみなされる状態であり、「消費の拡大」は、富裕層の消費拡大とその「おこぼれ」に生きる人々の生活を潤しているにすぎない。世界に目を向ければ、グローバル資本がどんどん支配力を増していく中で、日々何千という難民が殺戮から逃れ海に漂い、その難民の生命をカネ儲けの道具としか考えていない密航斡旋業者が横行し、漂う難民を自分たちの都合で受け入れず死に至らしめている国々が多い。
 こんな状況を知りながら「自分の人生楽しければいいじゃない」なんて誰が言えるのか!
 かつて1950~60年代には、日雇い労働者で生計を立てながらユニークな視点でマルクス研究の成果を出していた田中吉六とか既成左翼政党の矛盾に抗しながら終始学生運動を独自の視点で支えながら貧困と孤独の中で自死した対馬忠行などというすばらしい知識人たちがいた。しかし恥ずかしながらとても私にそのまねはできない。
 「良心的知識人」が「リベラル派」あるいは「市民派」であり、権力迎合的知識人が「保守派」であるといった単純な切り分けはいまの世界では通用しないだろう。もちろん後者の権力迎合的知識人はつねに、時の権力の理論的サポートを自らの使命とする人たちであり、自分の富と地位のために犠牲となっている人たちの存在を顧みようともせず、つねに自分の人生を肯定的にとらえて「前向き」に、 人生を「楽しむ」ことができるような人たちであってこういう人たちはここでは論外である。
  前者の「良心的知識人」とはいったい何なのだろうか?たんに「反権力」や「市民の味方」を旗印にすることが「良心」なのであろうか?現に、「反権力」や「市民の味方」を旗印にすることで「リベラル派」のマスコミにつねに取り上げられ、それを自分の社会的使命とすると同時に生活の糧にしている知識人が多い。そういう人たちは高学歴と知識の豊富さで、社会的に安定した地位を得た上で、その上品で常識を越えない論理や高度な知的言い回しを駆使して「リベラル」ぶりをマスコミで披瀝する。だが彼らの意見や評論などを読むと、ほとんどの場合その内容の乏しさに気づく。いかに具体的データや最新の情報で固められていても、真実に切り込むリアリティーと「深さ」を感じさせないからだ。
 手厳しい言い方をすれば、そういう人たちは「保守派」の主張に反対する態度を示しながら、実はその足りない部分を補完する役目を果たしているに過ぎないのではないだろうか?
 私はそういう意味での「良心的知識人」こそ、いまの社会を覆い尽くしている支配的イデオロギーの陰の推進者なのではないかさえ思うことがある。
 さて、そこで私自身はいったいこれからどう生きて行けばよいのだろうか?平均余命まであと5〜6年しか残されていない人生をどう生きればよいのだろうか?これが日々わたしの頭の中で渦巻く思いである。
 いまのところその「答え」はこうである。いまの社会が成り立つ基盤における矛盾(経済的矛盾とそれを推進している政治権力の矛盾)と、それを暗黙の内に普遍化(永久化)し、あたかもその不完全なところを修正しながら人類の歴史の到達点に達することができるかのように見せようとするイデオロギーと、それを構成する具体的イデオローグたちの思想や理論に立ち向かい、その虚偽性や欺瞞性を明らかにしながら、真実を追究することである。
 とはいえ、実際にはこんな「かっこよく」行くものではないことも事実である。支配的イデオロギーを批判しようとする私自身の未熟さや誤りも当然あるので、私自身も批判の対象にならなければならないからである。そしてこの私への批判こそが私自身の次のステップへの糧になるのである。
 ところが現実にはそううまくコトが運ばない。このブログで私が自分の意見を述べても、それを「チラ」と見てくれる人は多いのであるが、まともに批判してくれる人はほとんど皆無である。空しいというべきか悲しいというべきか。しかしこれが現実である。
 そうなると私の主張はますますカゲキな方向に行きかねない。それを自己コントロールしようとすればだんだん支配的イデオロギーのわなに嵌まっていくことにもなりかねない。困ったものだ。しかし時間は待ってくれない。だからこのまま進むしかないだろう。

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2015年5月11日 (月)

これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その3:1975年以降の社会と自分)

1975年には当時の国鉄が数日間にもわたる「スト権スト」を打った。そしてその間首都圏の国鉄がほとんどすべて止まったのである。これに対して世論は賛否両論あったがそれはもう20年前とはまったく異なる状況であった。そしてその後、日本の労働運動も学生運動も急速に萎んでいった。

 私はその年に結婚し、やがて二人の子供を得た。共稼ぎ夫婦での子育てと家計の切り回しが最優先課題となり、それは大変ではあったがそれなりに充実した時間であったと思う。そしてそのような状況で私の職場の状況も変化し、私は再び助手としての実務を与えられ大学での研究・教育に邁進するようになったのである。

 1980年代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ち上げられ、国内では「何となくクリスタル」という言葉に象徴されるような派手で過剰な文化が支配的となり、「バブル」の時代と言われた。この時代に乗じて一部のデザイナーはいまでは信じられないほどの高収入を得ることができたのである。 かつて「スト実」で学生運動を推進していた学生達はみな大学を卒業し、それなりの仕事に就いていった。いまから考えれば私を含めてこのバブル社会に呑み込まれていったのである。
 私についていえば、その中で10年以上の歳月をかけて、1990年代の中頃には、「デザイン発想支援」という独自の研究ジャンルを生み出し、それによって一応その道の専門家としての地位を築くことができたのである。
 その後1990年代になってこのバブルははじけ、日本の経済は一気に坂を下り始めることになった。しかしその暗転する状況でも、資本家を初めとする富裕層は「ITバブル」に期待を託すなど、ひたすら自分の富を護ることに奔走する一方、世界的には、「社会主義」を標榜していた国々の政権が硬直化した経済や官僚組織の矛盾が限界に達して崩壊し、「東西冷戦」は終わりを告げた。その影響もあって、日本の労働者や学生の多くは、もはやかつてのような高い意識を持つこともなく、ただひたすら自分の個人的興味を求めるようになっていった。そして私自身も学者としての実績と地位をもとめてひたすら努力を重ねたのである。
 こうした 1960〜80年代の日本では、いうところの「分厚い中間層」が形成され、労働者たちはほとんどが「中産階級」としての自覚を持つようになり、言い換えれば「小市民意識」に染め上げられてしまったのだ。それは諸個人がバラバラな「自由な個」であり、それぞれは自分のやりたいことを目指して生きることを理想とし、その機会が平等に与えられ、それらのアトム化した個人が勝手な振る舞いをしないように「国民全体の利益と権利を代表する国家」による法的な枠によってそれを統制していくというイメージが世の中の普遍的な姿として定着していったのである。
  しかし現実には「国民」とは本質的に対立する関係にある二つの階級の矛盾を覆い隠し「自由で平等な権利をもつ」諸個人として括ってしまったものなのである。そして国家は事実上労働者階級を支配する資本家を中心とした階級の利害を代表するものとなっているのである。この事実はその後次第に明白になっていく。
 やがて、21世紀がやってきても再びあの「何となくクリスタル」な社会は戻って来ず、「ジャパン・アズ。ナンバーワン」はまぼろしとなり、資本家的財力もナンバー2からやがて中国に追い越されてナンバー3まで落ちていくことになる。そして労働環境は悪化し、「規制緩和」と称して労働者を護る法律や組織は空無化され、「自由に好きな仕事が選べる」と称して非正規雇用が増やされ、労働者たちは不安定な生活を余儀なくされ、やがてかつての中間層から貧困層に落ちて行く人たちが年々増えていった。
 自民党を初めとする日本の長期にわたる保守政権がもたらしたこのような結果に対して、人々は疑問を持ち始め、選挙で一時政権交代が実現した。しかし、このとき政権をとった民主党をはじめとする、いわゆる「リベラル派」も実は同じ穴のムジナであり、「コンクリートから人へ」などというスローガンにもかかわらず、結局は資本家を中心としたいわゆる財界が景気を回復しなければ「国民」の生活はよくならないとし、一方で増大する社会保障への対応や税政の矛盾などとの間で板挟みとなり、沖縄問題でも右往左往した。そこに東日本大震災という自然界からの巨大なパンチを受け、あっけなく費え去ってしまったのだ。
 そして民主党政権失墜後に登場したのが安倍政権であり、安倍首相はこれまでの保守政権がもたらした過誤への反省もなく、かつての古き良きニッポンを取り戻すべく、憲法改定を射程に入れ、歴史の時間軸を逆方向にたどろうとしたのである。安倍政権は、「アベノミクス」を旗印に、とにかく大量に通貨を発行し、財界の富を増やし、お金の循環を早めることで「景気回復」させ、そこからのおこぼれで「国民」(ここでは労働者階級を指す)の生活を向上させようというのであるが、現実はいわゆる「格差」を増大させるばかりであって、しかもその政策によって日本は莫大な借金を背負うことになり、やがてはこのアクロバティックなお金のやりくりがつかなくなり、国家財政が破綻することは目に見えている。しかもそのツケはすべて国家財政のもととなる財を生み出してきた労働者階級に回されてくるのである! 
  現政権は人々にその事実から目をそらさせ、その真実を伝えるのではなく「すばらしいニッポン」 というイメージだけを植え付けるためのマスコミ操作を行い、その「すばらしいニッポン」を護り、「国益」(実は財界の富なのだが)を護るための軍事力を増大させることは当然、という世論を醸成し、そのために「国民」が「前向き」で「積極的」になるべきだとしている。いわゆるリベラル派も見事にこの流れに押し流されている。
  こうした政権の振る舞いに、巷の人々の中では「とにかく景気が良くならなければ何事も始まらないからね」とか「安倍さんは民主党と違ってブレずによく頑張っている」という評価をする人も多い。完全に政権の世論操作にコントロールされてしまったようだ。
 しかし、 かつての高度成長期を背負い資本家階級に莫大な富をもたらした労働者階級はいまではリタイアした高齢者集団となり、まったく不当なことであるが、社会保障の負担を増やすやっかい者扱いされるようになってきた。新しい世代の労働者階級である若者たちは高度成長でもたらされたはずの社会的富の恩恵を引き継ぐこともなく、高齢社会への負担を個人的に背負わされ、よい仕事に就くことも、結婚して家族を持つことも難しくなり 自分の将来や世の中に希望を持つこともできなくなって、ただ目前のバーチャルな世界に逃げ込んでいってしまっているかのように見える。
 そしてこうした状況全体が「高度経済成長経済政策」の結果であり、「分厚い中間層」だった人々のまぎれもない現実の姿である。ピケティーも指摘するように、あの 1960〜80年代の日本の「高度経済成長」とは資本主義経済発展の歴史で、さまざまな背景と条件のもとでたまたま現れた現象であり、労働者階級が一時的にその生活状態を改善できた(ただし消費資料商品の購買者として)時代であったのだと思う。
 労働者階級が、次々と購買欲をかき立てられ買った生活消費財に取り囲まれて、あたかも豊かになれたかのような錯覚に陥らされ、それによって自らを「消費者」として自覚するような小市民的生活にとらわれ、自分の個人的世界に没頭して生きるようになっている中で、 ときの支配階級を代表する政府や国家の方針に無関心となっていった。それによって、世の中の富はどんどん一部の富裕層に集中し、本来は社会全体の共有財になるべき富が「もう一方の国民」である資本家たちの富の獲得競争のために投じられて行くことで階級的「格差」はどんどん増大するばかりとなった。
  しかもそれは日本だけの問題ではなく、いま世界中の労働者階級がそのような状態に置かれているのである。そしてそれらの国の支配層を代表する政府の国家の間で世界市場の奪い合いが激化し、それぞれ「国益」をまもるために軍の増強を図りナショナリズムを煽っているのである。
 一方、すでに1970年代から問題になっていたことであるが、「経済成長」を支える過剰消費社会は、他方で本来人類全体の共有財であるはずの地球資源を資本家達が際限なく奪取し、その資源を用いて過剰な消費を生み出すため過剰に生産される過程で排出される廃棄物や過剰に生産された商品の廃棄による大気海洋汚染や自然環境の破壊をもたらしている。
  しかしいまの資本主義経済体制はもはや「消費の拡大による景気浮揚」なしには存在できない構造になっている。つまり持続可能な社会はこの体制では不可能なのである。この矛盾の中で、人々の物欲がかきたてられ無駄な消費がどんどん生み出され、そこに私の研究対象でもある「デザインの創造性」も利用されるのである。
 こうした状況の中で、私は少なからず自己矛盾に悩んだ。資本主義社会の矛盾に気づき、それを問題としてきたはずの自分が、その専門的領域において結局その矛盾を後押しすることになってしまっていたのである。なお、この辺のことは、野口、井上著「モノづくりの創造性--持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」(海文堂、2014)という本の中で詳しく述べているので読んで頂ければ幸いである。

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2015年5月10日 (日)

これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その2:戦後30年頃までの自分史)

 私がまだ小学校に入ったばかりの頃、昭和21年頃のことだったと思うが、母親に連れられて都心の焼け残ったデパート見物に行ったとき、階段ですれ違ったアメリカ兵が立ち止まり、持っていたサンドイッチを私にくれたことがあった。食糧難で栄養状態も悪く、青白い虚弱な子供だった私に目がとまったらしい。私は当時街を歩いている大きくて顔立ちの違うアメリカ兵を怖いと思っていたが、そのときサンドイッチをくれアメリカ兵は顔つきも日本人と変わらず、しかも流ちょうな日本語を喋ったのである。多分日系2世の兵士だったのだろう。私はびっくりした。母は丁寧に礼を言っていたが内心複雑な思いであっただろう。戦争に負けたアメリカの兵隊から子供が食べ物をめぐんでもらったのだから。その兵士にしてみれば敵国として戦ったかっての故国の実情があまりに惨めだったことへの素直な同情心からであったと思う。私はそのサンドイッチをかじってみた。中にこれまで食べたことのないような肉(コーンビーフ)と野菜がたっぷり入っていて、これにまた驚いた。

 かくして、私の幼い心に、アメリカという国の豊かさへのイメージが植え付けられていった。やがて学校ではアメリカ民主主義の歴史と自由と民主主義にもとづく平和国家を目指す日本という未来像が教えられ、一方でアメリカの支援で日本の産業が復活を開始し、やがては日本もアメリカのような国を目指すことをごく自然に描くようになっていった。映画館ではアメリカ製の映画が大人気で、いつも満員だった。「ターザン」は欠かさず観に行った。ラジオからはジャズが流れ、とにかくアメリカ文化はあこがれの的だった。しかし一方で左翼政党や労働組合によるデモ、ストライキなどが新聞紙上を賑わすようになった。そして隣国朝鮮での戦争勃発、その中で否応なしに東西冷戦のキナ臭い臭いを嗅がされることになっていった。そうした中、アメリカとソ連の核兵器増強競争、核実験のニュースが次々と報道され、第五福竜丸事件が大々的に取り上げられた。そしてその頃になってようやく広島、長崎の原爆による惨禍が社会的に大きな問題として取り上げられるようになっていった。しかし、この朝鮮戦争の時期に日本の産業界は連合国からのいわゆる「特需景気」で後の高度成長の基礎を築いたのである。
 学校では戦争で親を亡くして食うや食わずの貧困から中卒や高卒で就職する子が多く、また地方からも集団就職という形で中卒や高卒の人々がどっと首都圏や関西、中京地区の工業地帯に労働力として注ぎ込まれた。こうした人々がやがてその労働力と人生のすべてを「高度経済成長」といわれる戦後日本資本主義体制復興のために捧げたのである。
 たがて1960年の安保闘争が始まった。これは東西冷戦下での軍事的緊張という情勢の中で、日本の戦後資本主義社会がアメリカ主導でようやく立ち直り、同時にそこには労働者階級の大きな反戦パワーが結成されきたことを意味した。学生運動ではスターリン的社会主義一辺倒だった既成左翼政党への批判から新しい左翼運動が始まり、こうした人々による反安保闘争は日本全体をその渦に巻き込んだ。
 当時私は大学受験に失敗し進む方向に悩んだ末、アメリカやヨーロッパから入ってくる家庭電化製品や自動車などにある種のあこがれをもっていた経験からそうした工業製品のデザインを手がける仕事に進もうと決心した。1960年には何とかデザイン学科がある首都圏のある総合大学に入学できたばかりで右も左も分からなかったが、大学では学生の大半がデモに行ってしまい、授業にならないので、名物教師の心理学科教授が学生を一堂に集めて「講話」をしたことを覚えている。残念ながらその内容は全然記憶に残っていない。そしていまの安倍首相の祖父である岸首相が退陣し、登場した池田首相がブチ上げたのが「所得倍増計画」である。そしてこの安保闘争で盛り上がった学生運動・労働運動はその後、この「所得倍増計画」の推進の中に体制内化されていくことになったのである。
 大学で経済学の教授が「いま日本の経済成長率は二桁になっている。これはすばらしいことだ!」と「感動的に」語ったのを覚えている。時代は折しも東京オリンピックの準備で大騒ぎであり、東京は喧噪と活気に満ち、日々変わりつつあった。労働運動は政治的色彩を薄め、もっぱら賃上げ闘争という形となり、「春闘」を通じて労働者の賃金は増加し、「所得倍増計画」はどうやら本物になるかもしれないと思わせる勢いだった。そして私は大学で工業デザインの専門教育を受け、何の抵抗もなく工業デザイナーとして一流企業への就職を目指したのである。
 ある電機メーカーに就職して仕事に就いたときは、すでにいわゆるオリンピック景気が下降線をたどり始めた時期であった。それもあって、仕事はあまり多くなく、入社1年ほどたっても私が手がけたのは新型のトースターのデザインと接地抵抗計という汎用計測器のデザインだけだった。あとは会議用プレゼンパネルの制作とか現行モデルのTVのダイヤル周りのマイナーチェンジとかだった。学生時代に読んだ、川添登の「デザインとは何か?」ではデザイナーはまるで文明の形成者であるかのように書かれていたが、現実はそれほど甘くはないことを知った。その上、トースターの試作モデルを作るために試作工場に図面を持って行くと、そこでは中卒の現場工員さんが私のヘタな図面を解読し実に見事に部品を作ってくれ、私は教えられることばかりであった。開発部の設計室でも図面の描き方やメカニズムの考え方など高卒の先輩に教わることばかりだった。いったい自分は大学で何をやってきたのだろうと自信を失いかけていた。そこに母校で大学院ができたという知らせをもらったので、さんざん悩んだあげく会社を辞め再び大学に戻ることにしてしまった。
 そして大学院に入った私は、デザイン方法論という分野で研究を進めることになった。しかし、そこで同じ指導教官K教授のゼミに参加したある友人と出会ったことがその後の私の人生を変えてしまったのである。
 その友人O君は学部で1年下のクラスだったが、安保闘争以後の学生運動低迷期に羽田闘争などに参加し、私のいた大学で、新左翼系の全学連支部委員長をやっていたようだが大学院に来たときは何か理由があって運動に挫折していた時期らしかった。K教授のゼミで一緒にまだ和訳が出ていないクリストファー・アレグザンダーのテキストを訳しながら読んだが、彼は英語力もあったし、論理的な思考力は抜群であった。彼は文学や映画などに通じており、左翼的芸術論の一家言でもあった。デザイン方法論研究を通じて彼との交流を深めていくにつれて彼の人間観の深さに打たれたのである。そこには人生を掛けてマルクスの思想を吸収し同時にそれと格闘している一人の人間の姿があった。その彼の生き様への敬意と共感から私のマルクスへの歩みが始まったのである。
 そして私が大学院修士課程を修了し、どうするか迷ったあげく、結局母校の助手のポジションを得ることになり、彼はある英語塾のアシスタントなどを行いながら生計を立てることになった。そして私は色彩研究室の助手としての一歩を踏み出した翌年、いわゆる70年安保闘争の火が拡がっていったのである。この闘争は60年の時のような「安保」問題だけではなく、公害問題、大学への批判、ベトナム反戦など既存権力への総合的な抵抗運動という形で発展していったのである。主な担い手はいわゆる新左翼系の学生であり、フランスの5月革命やアメリカの学生反戦運動などの影響も大きかった。
私の学科でも自衛官入学拒否というスローガンから始まり、デザイン教育の在り方への批判に運動が広まった。大学全体でも既存の大学管理体制への批判が運動の中心となり、あちこちで授業阻止のバリケード封鎖や、「大衆団交」が行われた。
 私のいた学科では私より5年くらい下の学生たちが主体となりストライキ実行委員会という組織をつくった。そして彼らと私はいろいろな面で意見が違うためほとんど連日徹夜に近い状態での討論が行われた。私が激しい討論にクタクタになっていたときO君が私に「基本的には学生の主張は正しいと思う。彼らは次の社会に敏感だ」と言った。私も次第に学生達の意見に賛同し、やがては教員のスタッフでありながら教員団と学生達の大衆団交では学生側に立ち彼らを擁護する発言を行った。
 たちまち教員会議で私は「けしからん存在」と見なされることになり、そこから私はやがて10年以上にわたって実務から遠ざけられ、窓際に追いやられることになるのである。それは私が大学教員として研究者としての社会的生命を失ったことを意味した。
 私はスト実の面々と「デザイン問題研究会」という自主ゼミを開設し、O君も交えて度々研究会を持った。しかし学生運動は東大安田講堂攻防戦の後、徐々に展望を見失い、セクト間の「内ゲバ」が激化する中、社会的に孤立化し、惨めな形で終息していった。
  そのような中で私とO君はマルクスの理論を習得すべく資本論の講読会を始めたのである。この時期大学で干されていた私はずっとマルクス関係の文献を読みあさり、自分なりにそれを吸収していった。この時期に得たマルクスの思想への理解は現在の私の思想の根幹を形づくるものであった。
 一方で将来を見失った私は、自分がいったいどう生きていったらよいのか絶えず考え続けた。それは「悩む」というようなレベルではなく、給料はもらえても一切仕事を与えられない苦しさから自分の存在意義がどこにあるのかを必死に探し求めるという状態であった。学科主任からは何度も退職勧告を受けていたので、こんな無意味な生活を捨てて、世の中の役に立てる清掃員とか工場労働者にでもなる方がはるかにマシだと真剣に思った。しかしその度に、自分なりのデザインの考え方や思想が形になってくるまではここで勉強し続けたいと言ってその勧告をはねつけた。
 この苦しい時期に私は母との2人暮らしに見切りを付け結婚という形で人生の転機を図ろうという気持ちもあり、ちょうどそこに知り合いから紹介された女性と会ってその人との結婚を決意したのである。その結果その後の人生はそれまでとはまったく異なる歩みを踏み出すことになった。これはある意味で「逃げ」と言われても仕方ないかもしれない。そしてまもなくあの恭友O君とは逢うことがなくなってしまったのである。それはちょうど世の中が社会変革への動きをやめ、バブルにいたる過剰と退廃の時代に流れ込んでいく時期にあたっていた。
1975年、この年は私の人生にとっても日本の社会ににとってもひとつの変曲点であったように思うのである。
  ここでなぜこのような恥さらしな自分史をながながと書いたかといえば、それは私自身の「自分史」がその時代の一つの典型的「個」の実像であったと言えるからである。そこには「私という個」の実存とそれを外側から規定している「国家という形の社会」との間の確執が内在しているからであり、それ全体がその歴史的時代の姿だからである。

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これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その1:近代社会の軋轢)

 これまで資本主義社会の矛盾とそれ以後の社会について書いてきたが、ここで、もう少し私たちの住む社会に対する総合的な視点から、私たちがこれからどういう生きて行ったらよいのかを考えてみようと思う。

 私たちが生活する社会は、いわゆる「近代社会」であると言ってよいだろう。この社会は、ヨーロッパでは13〜14世紀頃から徐々に始まった中世社会の崩壊とともに形成されていった。そしてアジアでの「近代化」はそのヨーロッパでの近代社会の成長が明確に資本主義社会としての姿を確立した19世紀頃からその影響(侵略など)のもとに始まったと言えるだろう。
 それでは「近代社会」とは一体何なのだろう?私はそれを構成する3本の柱として、<資本主義経済体制>、<近代的国家>、<近代的個人>を挙げようと思う。近代社会とは、この3つが中世の封建的社会の崩壊とともに登場し、それがあたかも歴史的な必然性を持って登場した社会の普遍的姿であるかのように見せながら、実は近代とは、この3者のとてつもない矛盾関係によって成り立つ文明なのだと思う。
 中世の封建的的社会のもつ宗教的イデオロギーのもとで、社会はそれだけでは成り立たないことを証明するかのように、徐々にそのリアルな姿を現してきた商人たちの世界と彼らが支配する商品流通でカネを稼ぐ仕組みとそれによる富の蓄積が、やがて商品経済社会への基礎を生み出し、宗教イデオロギーのもとで支配階級であった封建的王侯貴族による農民や職人への支配を根底から破壊して行くことになった。
 そしてその商人パワーがもっとも発揮されたのが、コロンブスやバスコ・ダ・ガマに代表される大航海時代に始まる世界を股に掛けた略奪貿易である。この略奪貿易は行き詰まりつつあったキリスト教の布教拡大というミッションをも受けて、南米やアフリカ、アジアなどにおいてヨーロッパ人たちによる現地の住民と文明への破壊と殺戮による侵略と略奪を推進した。
 その結果、大量に流入し、蓄積された莫大な富が、その後のヨーロッパにおける資本主義経済の礎となったのである。この過程で植民地獲得競争に参戦したヨーロッパの各国が互いに競い合う自らの王国のアイデンティティーを明確にし、そこに住む人々の結束意識を強めるために、「国家」とか「国土」いう概念を強調するようになっていったのであろう。
やがて封建的領主と農民の関係は徐々に崩壊し、自営農民の登場や商業的生産への農地の奪取や転換を通じて農民自身が自らの生活資料や生活用具をつくっていた自給自足的生産体制もまた崩壊していった。 そして王侯貴族の注文でその家具調度品や武器・城郭などをつくっていた中世的ギルドの職人たちは、土地を奪われた農民とともに商人パワーによる生産手段の奪取とその支配のもとで賃金労働者として雇用され、商品生産に即応した効率的な分割労働体制となったマニュファクチュアで生産に従事させられる労働者になった。
やがて分業にもとづくマニュファクチュアは資本家的により「合理化」された機械生産へと発展し、いわゆる産業革命を推進していくことになる。その中ですべての生活資料が商品としてつくられ、働く人々は自らの労働力を商品として資本家に売り渡すことで受け取る賃金によって自分たちが生産した生産物を「商品」として買い戻すことで生活しなければならない社会が形成されていったのである。その過程で労働者を雇用して働かせる資本家的経営者は、労働者が生み出す価値の大半を無償で獲得し、それを市場で販売することによって自らの利益として富を蓄積していくようになった。
 その一方で宗教的イデオロギーから解放されつつあった諸個人の意識も、自らの手で生計を立て、生きて行かねばならない状況と、自らの人生を自分で決めねばならない状況のもとで、そこに「近代的個」と言われる特有の実存が生まれる基盤が形成されていったのだと思う。
 当然商人や資本家たちもこうした近代的個の実存を自覚し、古い支配構造に縛られることなく自由に商売し、自由に自分の富を築けるようになる状態を希求するようになったのだろう。そこに「自由な競争」「自己責任」ということばで表される近代的個人特有の自己意識が形成されていったと考えられる。
 しかし、生産手段を持たず、それを所有する雇用者に雇われ労働力を提供することで得られる賃金によって生活資料を商品として買い戻しながら生活しなければならない人々における「個」と、自ら労働することなく、そこから生み出される商品を競争市場で売りさばくことによって得られる利益で富を築く人々の「個」は自ずとまったく異なる内容をもった「自由」と「自己責任」のもとに置かれている。被雇用者である労働者たちは否応なしに生産手段から「自由(free from)」にされているのであり、自らの労働力を買ってもらえる雇傭主を探し求める「自己責任」を問われるのである。ここでは賃労働者となることも、失業することも「自己責任」とされる。
 この二つの階級として決定的に 対立する「個」の矛盾を覆い隠す近代的イデオロギーが「自由で平等な社会」であり、それをひとつの「幻想共同体」としてまとめ上げたのが近代的国家であるといえるだろう。
 この近代的国家では、諸個人が平等な個人として扱われ、自由な競争で自己の利益を追求でき、自己責任において財産を形成できるとされる。そしてそうした「自由」を国家は保障するが、一方では対立矛盾関係にあるふたつの階級が同じ個人と見なされ、ともに「国民」として国家に義務を果たさねばならないとされる。そしてこの近代国家は、それが世界に於ける「自由な利益追求」集団としての機能を果たすために他国とつねに競争関係に置かれ、その「国益」を護るために国軍が必要となる。「国民」は「国威発揚」のかけ声のもとで、ナショナリズムをかき立てられ、自分たちと同じ立場で搾取されている相手国の労働者階級と手を結ぶこともできず、互いに殺し合わねばならない状況に追い込まれてしまう。その行き着く先には、産業革命によって生み出された近代兵器による大量無差別殺戮が待っている。
 このような悲劇は20世紀初頭のヨーロッパで第一次世界大戦として現実となり、悲惨な結果をもたらした。その過程で労働者階級の支配する社会を目指したレーニンらに率いられたロシア革命があり、世界のいっかくに非資本主義社会が登場したのである。 そしてそのときすでにヨーロッパでは「近代の終焉」が現実問題として語られたのである。
  しかし、その後、ヨーロッパ諸国とは異なる資本の蓄積過程を行ってきたアメリカを中心とした資本主義社会の新展開があった。やがて、ヨーロッパでの敗戦国から生まれた民族主義的国家主義であるファシズムと、労働者国家とは名ばかりとなったスターリンによる「社会主義国」のソビエト、そして後発資本主義国としてアメリカや西欧諸国の利害と対立関係を生じ出した日本などが、アメリカによって息を吹き返した西欧資本主義勢力とのあいだで三つ巴の戦いとして第二次世界大戦が引き起こされた。ここでも多大な犠牲が払われ、その屍の山の上にアメリカがソ連と対立しつつ戦後世界資本主義社会のあらたなリーダーとして登場したのである。
 私はこの敗戦後の日本におけるアメリカ的文化へのあこがれという雰囲気の中で育った最初の世代である。それは一方で自由で豊かな未来社会というイメージを持っていたが、同時に東西冷戦下での核戦争の恐怖に脅かされ、やがてその社会の内部にもとんでもない矛盾が渦巻いていることが分かってきた。
 次回ではこの私における実存的変化について述べようと思う。

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