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2015年6月21日 - 2015年6月27日

2015年6月26日 (金)

批判とは何か?

 大分前にも同様のことを書いた気がするが、最近またこの問題が気になるので触れておこうと思う。

例えば、学会などでの研究発表で、発表内容や発表者の主旨が間違っていると感じたとき、質問で正直にそれを表明すると、イヤな顔をされることがある。ケチつけされているとか何か悪意を持っていると受け止められたように思うことがある。しかし、疑問とか批判というものは本来そういうものではない。むしろ間違いや誤解を指摘し合って、互いに自分と相手を高め合うことが目的である。
 もちろん人間であるからには、何か感情的に「カチン」とくるときもあるだろう。しかし、そこを抑えて一段高いところからかなり厳しい疑問や批判にもキチンと応えることが必要だ。質問する方もそれなりの心構えが必要なことはいうまでもない。
 最近の学会でのディスカッションが、何となく、仲間うちで互いに傷つけ合わないようにすることが暗黙の了解となっていて、そういう質問をする人がほとんどであるように見受けられる。こんなことでいいのだろうか?これでは問題の本質や、研究の一段高いレベルへの進展がなくなるのではないだろうかと心配になる。
 これとは反対に、かつての学生運動でのセクト間の激しい誹謗中傷合戦に見られたような形もまた不毛な「批判」であったと思う。例えば、マルクスの理論を巡る論争でも、「あいつは○○派だから」という理由で頭からその主張を否定し誹謗中傷を浴びせ合っていては、本当に必要な論争はいつまでたっても進まないばかりか、次第に感情だけが前面に出て、しまいには、対外的には問答無用の暴力に訴えることになると同時に、内部では相互批判ができなくなる。戦時中の日本と同じ状態であり、最悪である。
 マルクスは彼の著作の中で、独特の皮肉と諧謔を混ぜて論争相手にかなり手厳しい批判を加えていることが多いが、最初から相手が○○教だからとか○○派だからというレッテルを貼った誹謗中傷は一切ない。マルクス自身が、かつてヘーゲルを批判する過激な青年ヘーゲル派が「ヘーゲルは犬だ!」とするのに対して、自分がまぎれもない、ヘーゲルの弟子であると告白したことは有名である。しかもマルクスのヘーゲル批判はその「カゲキ派」とは比べものにならないほど徹底的であり、その意味で建設的であったことはいまでは誰でも知っている。
 現在日本の国会での議論を見ても、いかにも不毛な議論が続いている。互いに議論の対象となっている問題の核心に迫ることができず、政権側は持論の正当化のみに腐心し、追究側はいかに相手が答えに窮するような質問をし、自分の政党の主張を目立たせるかに腐心しているとしか思えない。さらに最悪なのは、「是々非々主義」と称して「良いものは良い、悪いものは悪いという態度」で望むという連中だ。まるでやくざのまとめ屋のような態度で結局は政権の主張を通す側に立つのは目に見えている。
 この混沌とした世情の中で、いまこそ本来の批判の精神を貫ける論争が必要なのではないだろうか?

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