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2015年1月11日 - 2015年1月17日

2015年1月12日 (月)

パリ・自由の大行進で考えさせられたこと

イスラム教を皮肉った記事を掲載したフランスの新聞社を襲ったテロやユダヤ人マーケットでの無差別テロに対して、世界中から言論の自由を護ろうという大きな反響があり、オランド大統領の呼びかけで、ドイツ、イギリス、イスラエル、パレスチナなどなどの国々の首脳が集まり、自由を掲げてパリを行進したが、それにおよそ140万人もの一般大衆が参加し、空前の大デモンストレーションになった。

宿敵ネタニヤフ首相とアッバス議長がオランドやメルケル、キャメロンなどと共にデモの先頭を歩く姿は、大きな驚きを呼んだ。「なんだやればできるじゃない。それなのになぜいつも角突き合わせてるんだ」と思わせる情景であった。
 私もそう思った。そして同時に、あの「イスラム国」や「アルカイダ」と称する集団が、なぜあのような過激で残忍な行為に出るのか、 あれで世界中の人々の共感を得ることができるとでも考えているのだろうかと首を傾げたくなる。
 しかし、一歩引き下がってよく考えてみると、彼らは世界中に共感を求めているのではなく、むしろ世界中の大多数の人々を覆っている既成の価値観に刃を突きつけ、そこにある虚偽を曝こうとしているようにも見える。
 もちろん私はあのような残忍なテロ行為や言論の自由への抑圧に対して寛容であるべきだなどとは決して考えてはいない。しかし、多くの西欧圏の若者がなぜあのような集団に帰依したがり、そこから自分の命に代えてまで残忍で過激なテロ行為に走ることを決断したのか、このことを深く考えねば問題の深淵は見えてこないと思う。
 この問題はこの狭いページの中で語り尽くせるような問題ではないので、いまはそのほんの一部分についてしか語れないが、彼らが突きつけていることには、西欧社会の「自由と民主主義」は本当に自由で民主的なものなのか?という問いをも含んでいると考えるべきかもしれない。ほんの一握りの過激な思想にかぶれた者の仕業、として片付けられない大きな問題を含んでいないか?
 彼らの多くは、西欧社会の中で追い詰められ、生きる希望を失い、そしてそこから脱出しようとしたのではないのか?なぜ「自由と民主主義」の本家であるはずの西欧社会でそうなるのか? その意味では死を覚悟の上で残虐な殺戮に走ってしまった彼らにとっても悲劇的な状況といえるのではないだろうか。
  一方で働けど働けど生活はよくならず、希望は打ち砕かれ、生きる望みすら奪われている人々が急増しているのに、他方では、それらの人々が働いて生み出す価値をまんまと「自由に」搾取して、リッチな富裕層となり、さらに働く人々への搾取を拡大している人々がいる。このような西欧社会における「自由と民主主義」とはいったい何なのか、それを深く考え直すことなしに、「パリ・自由の大行進」に感動してばかりいてよいのだろうか?

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2015年1月11日 (日)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その5 エピローグ)

(その4から続く)

 こうして、われわれの生活は「高度消費社会」となり、モノづくりの能力は生活者の手から奪われて行った。そしてその結果、生活者は「消費者」として生きるしか道がなくなったのだ。資本主義社会の成熟過程は、まさに生活者からモノづくりの能力を奪い、それを資本のもとに糾合し、資本が生み出す商品を購買することなしには生活者が生きてゆけない社会を生み出す過程であったと言えるだろう。

 生活者はこうして生活に必要なモノすべてを商品として買わねば生きてゆけなくなり、そのために必要なお金を資本家の経営する企業で働き、賃金として得なければならなくなったのだ。資本はその労働力を商品の生産や「サービス」の実践に必要な労働力として用い、そこから莫大な利益を上げている。だからすべての生活に関わるモノや場は商品化され、生活者の人生はその誕生から成長、成熟、老化、死に至るすべてのライフステージで資本家たちの「ビジネスチャンス」の対象とされてしまった。

 そればかりではない。そのような「高度消費社会」はどんどんモノを買わせ、できるだけ早くそれを捨てさせ、商品販売の回転を上げ、世界中でそのために莫大な資源がつぎ込まれ、その生産に必要なエネルギーが消費され、地球はもはや到底持続可能な状態とは言えなくなっている。それなのに、資本家たちの代表である政府の人々は、「経済成長こそがすべて」と叫び、「国際競争に勝てる創造的人材の育成」などを声高に叫んでいる。

 資本主義社会がグローバル化し、いまや世界中で働く人々は、ほとんどすべてそのために労働力を提供しなかれば生きてゆけなくなっている。そして次々とモノを買わされ、モノたちのあふれる社会の中で、自分が何者であるのかが分からなくなり、モノを買うことだけが生きる喜びのようになってしまっている。モノを買うことができなくなった人々は、そこからドロップアウトし、とても人間の生活とは思えないような過酷な生活に生きねばならなくなっている。かつて、われわれの先祖は、自らの手で自らの生活を築き、それに誇りを持ちながら生きて行けたのに、いまの「豊かな」資本主義社会は、資本が生み出すモノに幻想を乗せ、あたかもそれを買うことが幸せなのだと思わせるような生活を築き上げてしまったのだ。

 そこでは「デザイナー」たちが資本家経営者のブレーンとしての地位を与えられ、そのいつわりの幻想を生み出すことに専念している。そこではつねに「創造性」が強調され、デザイン思考やデザイン創造性がホットな話題となる。

 しかし、それはかつて生活者が持っていた生活における経験と必要があたかも自然に生み出させたような本来の創造性とはまったくことなる恣意的で欺瞞的な創造性である。

 そう、だからここでもう一度しつこくも言おう、モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!と。

 私は、このような「思い」を長年温めてきた、そしてその思いと考え方をいまやっと一冊の本にまとめることができた。

それが「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」(海文堂)という本である。

 私の「思い」がどれだけ普遍性のあるものなのか、どれだけ多くの人の共感を得ることができるものなのかは分からない。しかし、それはきっとモノづくりやデザインに関心のある人々にとって一読の価値はあるものと信じている。

以上

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