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2015年8月2日 - 2015年8月8日

2015年8月 8日 (土)

mizzさんからのコメントにお応えして

mizzさんから、前回のブログ「安保法制が「戦争法案」ですって?という桜井氏の意見広告を巡って」にコメントを頂いた。

 mizzさん---「なぜ、(安保法制が)戦争にしないための法案なのでしょう。戦争放棄と云う憲法があるのですから、戦争をしない法はあるのですから、なぜ、戦争にしないための法案が必要となるのでしょうか。」
まさにその通りです。この矛盾した思想はまず現行憲法の無視、否定という態度からしかありえませんね。彼(彼女)らにとっていったい何が「国家基本問題」なんでしょうね。
 mizzさん---「戦争にしないために、これらの脅威に対応して安保法制が必要だと云うことの様です。安保法制があれば、アメリカが軍事費を増大して、中国が自国領だとの主張を引っ込め、海洋プラットホームの日中共同開発を進めることになるのでしょうか。そうは桜井さんとても思っていないでしょう。ならなんで、安保法制が必要になるのでしょう。」
まったくそうですよね。彼(彼女)らの独善と思い違いもいいところです。
 mizzさん---「戦争放棄を再確認し、戦争にしないための政治を考えることがなぜできないのでしょう。安倍談話はその絶好の機会になっていると思うのですが、桜井さんそうは思いませんか。多分頭が働かないでしょうね。」
 そうですね、安倍談話の下書きを提供している有識者会議は一方で侵略戦争や植民地支配という事実を認めながらも、「謝罪」は首相の判断の問題だと言ってますね。私は安倍政権が当時の戦争遂行政府の後継責任を自認するなら、まず真っ先に日本の人民に謝罪すべきだと思っています。あの何百万もの人民の死や郷土の破壊に対して日本国政府からもその最高責任者であった天皇からも「謝罪」の言葉は一度も聞いたことがありません。そしてそれがそのまま侵略や植民地支配によって多大な被害や損失を与えた国々の人民や交戦相手国のアメリカやイギリスなどの兵士の家族などへの深甚な謝罪に繋がらなければならないのだと思います。そこからしか戦争放棄の思想は生まれないでしょう。国家の命で侵略戦争に引き出されて死んでいった兵士達をその命令を発した戦犯たちと同じ神社に「英霊」として祀ってしまうなどというごまかしは絶対に許されませんね。

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2015年8月 6日 (木)

安保法制が「戦争法案」ですって?という桜井氏の意見広告を巡って

 今日の朝刊に「公益財団法人 国家基本問題研究所」の名前で桜井よし子氏が意見広告を出している。例の「毅然とした」ポーズでカッコイイ写真つきである。氏はこう主張する。

「戦争しないための法案を「戦争法案」と言い換え、「次は徴兵制だ!」とありえないことを煽る一部マスコミ・野党・学者の主張は無責任ではないでしょうか。彼らは世論を安保法制反対へ誘導しようとするデマゴーグです。」
 以下、南・東シナ海での「力による現状変更」を強行する中国の脅威を「キューバ危機の再来ともなりかねません」と訴え、「一部野党や市民団体を名乗る安保法制反対勢力は、国民のリスク軽減を語らず、憲法違反とのレッテルさえ貼っています。国会における党利党略は日本の国力を削ぎ、悪辣な国を喜ばせるだけです。」と主張している。
 要するに氏は、”悪の強国”である中国の進出に「安保法制」で備えることなしには「国家の安全」は保障できないと言いたいのである。屋台の傾きかかった安倍政権への「バックアップ」であろう。 だが何とマア、安倍さんと同様、単純な頭脳構造のお方である。
 はっきり言おう、私たちは中国の人民を決して敵とは思わはないし、彼らも本音では私たちをきっとそう思っているに違いない。あの前大戦での苦い経験から、私たちはこれまで中国の人々にその償いをしようと様々な努力もしてきた。私自身も大学在職時代に中国からの留学生や研究者を大勢受け入れ、育てて送り出してきた。いまさらその日本を「敵」と思わせたいのは、彼らを強圧的に支配し、国内で噴出する矛盾から人民の目をそらそうとしている習近平主導の中国共産党政権である。
 ところがそれにそのまま乗せられて、アメリカとの軍事的同盟を強化して対抗しようというのが安倍政権である。マンマと習近平政権の狙いに嵌まっているではないか。
 アメリカはといえば、傾き始めた国庫の屋台を支えるため国家予算の大半を要する軍事費を削減したいし、イラクやアフガンなどの戦場に引っ張り出されたアメリカの若者達の犠牲が大きくなって国内での厭戦気分が高まっているので、極東の軍事的緊張への負担の半分を日本に肩代わりさせたいのが本音だろう。
 しかし、他方ではアメリカや日本の資本家たちは、中国を巨大な成長市場として大きな利益を得てきたので、中国との経済的関係を崩したくない。中国の新興資本家たちも同様である。このことは中国経済が怪しくなってきたことに対する日本やアメリカでの株価の大幅下落に現れている。すでに資本はグローバル化し、とっくの昔に「国家」などというものを事実上無きに等しい存在にしているのである。
 支配的政権の立場からの「国益」とグローバル化した資本による経済体制とのジレンマの中で、声を上げつつあるのが日本と中国の人民である(私は「国民」という言葉と区別するために敢えて「人民」という言葉を使う)。中国の人民は強圧的な政権の支配下でろくに声も上げられない厳しい状態であるが、日本では若者を中心にして現政権の危険な動きに反対しようとする声が日に日に大きくなっていく。中国でも日本でもグローバル化した資本と、国家という壁を前提とした「国益」との間で右顧左眄する政権のもとで、もっともその人権や生活を無視され未来を閉ざされ続けてきたのが社会のために働く人々=人民である。
 そう、中国と武力で対抗することほど間違った選択はない。中国の人民は中国の強権的支配者たちが醸成するナショナリズムと軍事的緊張の欺瞞をあばき、それに対する抗議の運動を起こすべきであり、私たち日本の人民はそれに連帯して、中国政府による恣意的な軍事的緊張醸成と、それへの直対応である「安保法制」という形での安倍政権による軍事的対抗措置に反対すべきなのだと思う。
 これはデマゴーグでも何でもなく、リアルな現状認識にもとづく私たち(特に若い世代)の未来を賭けた闘いでもあるのだ。それが読めないで「安保法制が国民のリスクを減らす」などというのはとんでもない時代錯誤である。

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70年目の広島が語り継ぐべきものは?

 今日は70年目の広島の日であった。朝のTVで平和記念式典の実況を観た。

松井市長は冒頭のスピーチで、日本国憲法の目指す武力に依存しない安全保障と、国籍や民族の違いを超えた核廃絶への人々の連帯を主張していたのが印象的であった。それに比べて安倍首相のスピーチはなんとも定型的でつまらないものであった。当然といえば当然の話であるが。
 ところで、最近ニュース解説などで取り上げられる話題として、原爆体験などの戦争体験の語り継ぎでの問題が挙げられる。例えば、もう戦争体験のない親たちが産んだ「孫世代」への語り継ぎが必要になって来ているが、そのときに、原爆や戦争の悲惨で残酷な場面をあまりにリアルに語られることで、子供達の心に傷が残ってしまうのではないか?という懸念を持つ親たちが増えているということ、そしてさらに、その親たち自身が「語り部」の戦争体験が「定型化」してしまって「またか」という気持ちでそれをなんとなく拒絶してしまう風潮があるということである。
 このことはさまざまな問題を含んでいるが、まずリアルな戦争体験を語ることが子供の心に傷を残してしまうという懸念について考えてみよう。
 私は敗戦の年にまだ5歳の子供であったため、敗戦直後の東京の焼け野が原や食糧難の記憶は鮮明だが、あまりリアルな戦争体験があるとはいえない。しかしまだ小学生だった頃、学校から映画鑑賞会でたしか「原爆の子」という題名で乙羽信子主演の映画を観に行った記憶がある。そのときの原爆投下シーンの印象が強烈でいつまでも夢に出てきたことがあった。さらに母方の親類で広島で被爆した人の話を叔母から聞き、髪の毛が全部焼け焦げ、下腹部が破れて腸が飛び出している人、全身の皮膚が焼けただれてまるでボロが袖から下がっているように両腕にぶら下がり「水をくれ!」とつぶやきながら彷徨している人々の話などを聞いたことがある。また聞きの話とはいえそのインパクトは大きかった。それ以来「広島の原爆」と聞いただけで、「怖い!」という気持ちが条件反射の様に起きるようになった。この記憶は私の核兵器への脅威に対する「理屈抜き」の拒否感として定着したと思う。
 話は少し違うが、1920年代のドイツに、第一次大戦の悲惨な場面をリアルな絵画で伝えたオットー・ディックスという画家がいた。さらに第二次大戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争の戦場での残酷な戦死者などのリアルな写真を伝えたロバート。キャパという写真家がいた。これらの作品は、当時の LIFE誌で私も見たが、みな目を背けたくなるような凄惨・悲惨なものである。しかし、これがまさに戦争の現実なのだ。これを見て、子供心に残った「傷」こそが理屈抜きの反戦という心を育てていくのではないだろうか?
 そしてもう一つ「語り部」の話が「定型的」として拒絶してしまうという戦争をしらない親たち。戦後の「平和」な時代に生まれ、それしか知らない人たちに共通の気持ちかも知れない。確かに「語り部」の人たちも高齢化し、話がワンパターンになっているかもしれないが、その話を聞く人には、自分たちがなぜこの「平和」な時代に生きていられるのかという根本的な問いがなければ、意味が無い。それはあの惨たらしい現実の中で「国家のため」としてまるでモノか動物のように捨てられ殺された何十万、いや何百万という人々の犠牲とそれへの痛切な反省の上に立っているのだということを決して忘れてはならないだろう。そしてその反省がもっとも端的に表れているのが現行憲法なのである。
 たとえどれほど残酷なものであろうとも、それがまさにリアルな現実として過去にあった事実なのだということからは絶対に、子供といえども、いや次世代を担う子供だからこそ目をそらしてはならないのではないだろうか?

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