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2015年8月30日 - 2015年9月5日

2015年9月 3日 (木)

2020東京オリンピックのエンブレム問題をめぐって

 2020年東京オリンピックの公式エンブレムで選定委員会が選んだ案が「パクリ」ではないかと問題になり作者はそれを否定したが、そのついでにそれを町中に展示した際のシュミレーション写真の原画がパクリであることが判明し、作者もこれを認め、すでに選出されたエンブレム案を取り下げた。

 これについてはすでにニュースで大きく取り上げられて、いろいろな人が意見を言っていたが、私は、新国立競技場デザイン公募問題も含めて、現在のデザイン業界とデザインを選定する側の両方に問題があると感じた。
 いまのデザイン事務所は、完全な分業制で作業を手分けして行うことで大量の仕事をこなさなければならなくなっているが、それはまずクライアントからの要求に合いそうなデザイン参考例を探すことから始まる。そこには著作権侵害を防ぐ意味もあるが、よれよりもむしろいわゆるデザイン・ソースの手がかりを探すという意味もある。昔からデザイン・ソース事典のようなものが存在したが、いまではインターネットを通じて膨大な量の画像を検索することができ、それにちょっと手を加えて変形し、それらを組み合わせて全体のデザインを構成することが一般的に行われているようである。部品を組み合わせて全体を作るアセンブリー工業と似た手法である。
こうなるとどこまでがパクリであって、どこからが オリジナルといえるのか、きわめて判断が難しい。
 もともとデザイン行為とは人類のモノづくりとともに人間の普遍的な能力として登場し、だれもが持つ能力なのだが、それが資本主義社会で「商品デザイナー」という一つの分業種として切り離されて自立化すると、注文主の意図に添った結果を生み出すことが仕事になり、そのできによってもらう報酬の額が決まるようになった。プロダクト・デザインなどではそのデザイン商品がどれだけ売れたかが評価の基準となっている(実はこのこと自体もデザイン行為の本質からみればおかしいのだが)が、グラフィック・デザインのような仕事は客観的に評価する基準がないので、そのデザイナーがどのくらい過去の実績があったかによってデザイン料を決めることが多い。こうしてデザイン賞の受賞回数とか大きな公募で入選したとかいうことが判断の基準となる。これによって同じ仕事をしても驚くほどデザイン料が違うのである。
 デザインを選定する側も選定メンバーの多くは、それ以前にすでにある基準で権威づけされ一定のコミュニティーに属するデザイナーたちである。デザインの選考基準を決める客観的な判定基準がないために選定者の「権威」に頼らざるを得ないのだ。
 芸術もデザインもそれが「商品」として扱われる社会では、その「商品価格」は工業生産物とは違いきわめて恣意的に決められる。そして無名のデザイナーがいくら多くの時間をかけて良い作品を生み出してもなかなか認められないことが多い。しかし一旦有名になりさえすれば状況は一変する。そして一度賞を取った人ほどまた別の賞をとるチャンスが多くなる。こうしてそのデザイナーは権威付けされデザイン料も上がる。
 芸術表現やデザイン行為がこのような形でしか社会的に認められない社会は本当はきわめて不幸なことだと思う。もしこれらが他の能力と同様にだれでもができる人間の頭脳労働の一つとして正当に見なされるのであれば、その仕事にかけられた時間がその価値を決める客観的基準となるべきであろう。販売実績やデザイナーの権威とは何ら関係ないはずである。

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人工知能に芸術創作をさせることに何の意味があるのか?

 昨日の朝日夕刊によれば、人工知能に小説を書かせる研究が進んでいるそうだ。上手くいけば文学賞に応募するのだそうだ。しかし、いまのところ、全面的に人工知能に小説の創作を任せることは不可能で、やはり人間が介入して「共作」という形の研究が行われているらしい。

 私は小説に限らずさまざまな芸術の分野で人工知能に創作を行わせようとする試みを知っている。こうした研究はすでにコンピュータが実用化された直後から行われている。
 しかし、さまざまな制約のもとである目的的機能を実現させるデザインの様な世界ではそれは非常に意味のあることであるが、こと芸術に関しては私は疑問に思う。
そもそも何のために人工知能に創作させるのか? 例えばモダンアートなどでもコンピュータを使った作品は山ほどあるが、それはあくまで人間である作者の意図を道具としてのコンピュータを用いて表現しようというのであって、コンピュータ自体が創作するわけではない。人工知能による芸術創造が究極的に目指すものは、作者不要の機械による創作だろう。だがこれに一体何の意味があるのかと問いたい。
 芸術創作とは、プロの芸術家が「売れる作品」を次から次へと創作するような形がいまでは一般的になっているが、これは資本主義社会特有の歴史的に特殊な芸術形態だと思う。
 実は私も以前、人工知能学会の会員であったことがある。その研究誌に論文を載せてもらったこともある。だからなおさらそう思うのだが、いまの人工知能研究は、どこかがおかしくなっている。「人工知能研究」の目的は人間と同じような働きをするコンピュータをつくることではなく、人間の頭脳がもつ特有の生理的制約や限界を超えた機能、つまり人間にはできないことをやれる道具としてのコンピュータをつくることが本来の目的なのではないだろうか?人型のロボットを作ることに大変な努力が払われているが、これも良く考えればあまり意味がないのではないかと思う。人間が行うには危険な仕事や過重な労働を人間に代わってやってもらうためのロボットが必要であれば、それは何も人型である必要はない。
 芸術表現という世界は、一人の人間がその固有な人生のあゆみの中で経験した様々なことがその人の記憶の中に蓄積され、その人固有の内的(精神的・人格的)世界を(動的に)つくっていく過程で、どうしてもある思いや感情を表出したいという欲求のもとに初めて達成しうるものであって、本来、それが売れっ子のプロの芸術家であるか市井の庶民であるかに関わりない世界である。
それはその人自身の内的世界の中からやむにやまれなず絞り出されてくるものであって、だからこそ、共感や深い感動を人の心に起こさせるものである。それが結果的に多くの人の共感を得て「売れた」というのと、最初から「売れる作品をつくる」というのでは全く意味が違う。
 「売れる芸術作品」が創造性の高い芸術であると勘違いしてしまうのは、芸術作品がいったん有名になるととんでもない価格で売れる「おいしい商品」になる社会だからであろう。そういう社会では、コンピュータがいままで「売れた作品」の要素を抽出し、それをうまく組み合わせて新しい作品をどんどん作ってくれることで儲けようとする「芸術産業」にとっては、作者に高い著作権料を払わずにすむ有効な手段として意味があるかもしれないが。
人工知能研究はもう一度その普遍的な意味を考え直した方が良いのではないだろうか?

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2015年9月 1日 (火)

「市民」という覆いをかけられた労働者階級

前回の8.30デモに関するブログを書いた後、少しいまの若い人たちに厳しすぎる内容だったかな?と反省した。しかし敢えて前回のブログは削除しないことにした。ある意味で私の気持ちを率直に書いたものなのだから。

 前回のブログでおそらく一番引っかかるのは「市民意識を超えた階級意識」という考え方だろうと思う。いまさら資本家階級と労働者階級なんていう古くさい型にはまった考え方は捨てた方がいいと、ときどき人に言われることがある。
 しかし、「市民」というとらえ方はもっと古くさい。そもそも最初はギリシャ時代の都市国家「ポリス」の住人で奴隷階級はそこには含まれていなかった。しかし近代的な意味での「市民(Bourgeoisie)」は18世紀末のフランス革命で脚光を浴びたとらえ方であって、 絶対王政での王侯貴族の権力と戦って勝った「市民」であり、知識層に先導された革命であったが、そこには商人資本家や職人や労働者や農民も含まれていた。その後、その「市民革命」が西欧やアメリカでの、「市民(Citizen) による平等で自由な社会」という達成目的を掲げる思想を築き上げていった。
 知識人も資本家も商人も労働者も区別なく「市民」と言われる時代は、しかし、産業革命が進行し、産業資本主義時代に入ると変化していった。商人資本家たちは様々な形で古い封建制度を崩壊させたが、その典型はイギリスでの例である。彼らは封建的支配構造の崩壊で商品経済化が進む中で貧困化した農民から土地を買い叩き、それを牧草地にして、羊を大量に飼い、その毛を毛織物に加工する工場を建て、毛織物産業を興した。土地という生産手段を奪われた農民たちはその工場へ雇われ、賃金労働者として生活しなければならなくなった。商人資本家たちはこうしてさまざまな分野で産業資本家へと変貌し、やがて社会の経済全体がさまざまな形の産業資本家の支配のもとに置かれるようになった。
農村から工場のある都会へと大量の労働人口が流入し、近代社会特有の都市と農村の対照的形態ができていった。都市に暮らす労働者たちは、資本家が経営する工場で働きながら、他の資本家企業で生産された生活資料商品を購入して生活しなければならなくなった。資本家側は資本を投入して生産手段を購入し、労働力市場から雇用した労働者に生産労働を行わせる産業資本家と、そこから生み出される商品を販売して稼ぐ商業資本家に別れて行き、やがてさまざまな資本主義社会特有の社会的分業を生み出し、それらすべてにおいて「雇用者である資本家経営者」と「被雇用者である賃金労働者」という形の関係を築き上げた。
 ここに産業資本家と生産労働者との関係を中核とした全社会的な規模での資本家の階級と労働者の階級が生み出されたのである。資本家階級はその内部でやはり大資本による支配企業と小規模資本による被支配企業というヒエラルキーを生み、労働者階級もその内部に資本家の意図を代行する頭脳労働者と、最下層でその意図のもとで直接生産労働に携わる単純肉体労働者という支配・被支配関係を生み出していった。
 この二つの階級は、当然のことながら本質的に対立する関係であり、生産手段を掌握し、生産的労働から生み出される全商品を当然のように所有し、それを売って利益を挙げるため、商品流通市場で「自由に」競争をしながら経済を支配する資本家階級と、労働により生み出された価値のうち、自分たちの生活資料を買うための価値部分しか賃金として与えられず、それによって生活を営む中で、再び資本家に売るための労働力を再生産することによって生きていく労働者階級という基本的対立的関係で結ばれており、同時にそれは企業が利益を挙げられず倒産すれば労働者が路頭に迷う、という「矛盾的一体関係」にもとづく支配関係でもある。こうして自由な「市民」とは自由に市場で競争して儲けることができる資本家を指すことが明らかになってきた。
 20世紀前半には、第一次世界大戦中のロシア革命に端を発し、世界中の労働者階級が国境を越えて手を結び、資本家階級と対決しようという国際的な運動が拡がった。しかし、残念ながら様々な理由でこの運動は挫折し、第二次世界大戦の後に主導権を握ったアメリカが主導する資本主義体制の新段階がやってきた。それは高賃金の労働者がその賃金を自動車や家電製品といった奢侈品(贅沢品)的生活資料の購入に当て、見かけ上「豊かな生活」を謳歌しながらアメリカ的デモクラシーのもと個人の平等を認められた市民社会を形成するというイメージを広めた。やがてそれは道を誤った指導者による社会主義圏の衰退とともにワールド・スタンダード化された目標となったのである。
 そこでの「市民」はフランス革命当時の「市民」と同じように見えるが本質的に違う。それは現実社会が労働者階級と資本家階級に分かれており、実際は資本家階級は労働者階級に寄生しているにも拘わらず、これを覆い隠すという役割を与えられた概念なのである。そしてこれが近代的国家の構成員としてむりやり一体化させられると「国民(Nations)」ということになる。だれがこれを覆い隠そうとしているのかは言わずとも明らかであろう。この支配的階級のイデオロギーのもとで、私たちはあたかも階級など存在しない普遍的な意味での「自由で平等な市民社会」に住んでいるかのようなイメージを植え付けられている。
 現代の資本主義社会はこうしたイデオロギーのもとで、様々な社会的分業が複雑に入り組み、資本家の多くは企業経営陣として本来の資本家である投資家や株主のために利益をもたらす機能資本家(エグゼクティブ)という立場に置かれ、儲け高に応じた報酬を受け取り、頭脳労働者の一部も、いわゆるビジネスマンとして資本家の頭脳の一機能を担う労働を行うなど、だれが資本家でだれが労働者なのか分かりにくくなっている。強いて言えば、資本の処置に関する執行兼を持つか持たないかの違いくらいであろう。
  しかし、様々な社会的矛盾がこの潜在した階級的対立を軸に存在し噴出していることは事実である。例えば労働者が「高い賃金」だといってもそれはあくまで生活資料の購入や自分の子供を次世代の労働者として養育するための費用に充てられるのである。労働賃金の大半は奢侈品化した商品やレジャーなど非生産的な形での生活資料の消費にどんどん支出させられ、こうした労働者の賃金から支出されたあらゆる生活資料商品の購入に支払われたカネは過剰化した資本の不生産的処理による資本家の収入として還元される。
長年勤め上げた労働者は最後に貯蓄や退職金をはたいて自分の家を買うことが多いが、住居は生活必需商品であるにも拘わらず日本ではこれが生涯かけてやっと自分のものにすることができるほど高価なのである。そこに支払われたカネはすべて不動産業者や建設業者の収入となる。また労働者は自分の子供を就職率の高い大学に入れるために高額な教育費が必要となるが、これも子供を次世代の労働者として育て上げる費用なのであり、その育成は資本家が支払うのではなく労働者が与えられた労働賃金でやりくりしなければならないのである。そしてそこで支払われたカネはすべて教育産業や国庫の収入となる。
 こうして「豊かな社会」に見える生活は本当は決して豊かではなく、高額に見える賃金は無駄な消費と高額な生活資料商品、次世代の労働者の養育費に充てられ、働けなくなった高齢者や介護が必要な人たちに要する社会的必要経費はほとんど労働者階級からの税金で賄われる。だから労働者の生活が厳しくなれば税収が減り、社会保障も崩壊するのだ。そして私有財産を蓄えている資本家たちは悠々と生き残る。
 一方でグローバル資本家が蓄積した利益は巨額の私有財産を形成させたのち余りのほとんどは市場で競争相手に勝つために投資され、社会共通に必要な資金にはなるべく回さないようにする。資本家代表政府は資本家企業が競争力をつけて利益を増やせば雇用も増え、労働賃金が上がるからと言って法人税を減税する。
 こうして一方では世界的規模での社会的「格差」が拡大し、不安定な非正規雇用の比率が増大し、経済破綻する国や貧困から来る民族対立・宗教対立などによる難民や貧困層の悲惨な生活が激増し、西欧資本主義社会に攻撃を仕掛けるイスラム過激派が登場する、などなど現実の社会的矛盾はその例の枚挙にいとまがない。
 その現実の中でいまさら「自由で平等な市民の立場」を主張してみたところで何が変わるのだろう? もっと自分たちの「置かれた場所」の現実を見つめ、その惨めな場所で「咲く」ことを良しとするのではなく、そこに孕む現実的矛盾の根拠を深く洞察することによりそれを否定し克服できる未来社会の建設に向けて出発すべきではないだろうか?
 

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2015年8月31日 (月)

8.30安保法制反対デモをめぐって

 昨日(8月30日)国会前で大規模な反安保法制のデモが行われた。海外でもこのニュースは大きく報じられた。このデモはかつての60年安保闘争とは全く様変わりし、「市民参加」の整然としてデモだったようだ。

 私はこのデモが8月30日に行われることを知っていたが、結局参加しなかった。55年前の国会デモのときも参加しなかった。1960年当時はまだ大学入学直後で右も左も分からなかった時で、ニュースなどを聞いて、なんとなく怖かったのだ。
しかし、今回は違う。「怖さ」はまったくなかったし、当日まで「行ってみようかな?」と迷っていた。リベラル派の新聞などでは、市民一人一人の意志で参加するデモであり、かつてのような組織や政党の指導の下で行われるデモでなかったことは、まさに民主主義が根付いた証拠だ、という論調が多かった。たしかにある意味そうかもしれない。
 しかし、かっての60年安保を体験したインテリ・知識層の中には、今回のデモに参加しないのは「市民」としての資格がないとまで言う人がいるようだ。これにはいささか抵抗を感じる。
 ここで私がなぜ参加しなかったのかその理由を述べると何となく弁解がましくなるので気が引けるが、敢えていえば、この時代、「市民」と言われ、「市民」であることを自認している人たちの社会観や歴史観がいかにも浅すぎるように見えるし、多聞にそのときの状況的雰囲気(例えば、偉い大学の先生や法律家までもが反対してるから、やはり反対すべきなのだろうといった)に乗っているようにも思えるからだ。たしかに「私の子供が戦争に参加しなければならなくなるのはイヤだ」という主婦の感覚は間違っていない。
しかしそのレベルに留まっているかぎり、安倍政権の論理には勝てないだろう。彼らは「戦争を起こさないようにするために安保法制が必要だ」というし、「他国から攻められた時に「座して死を待つ」ようなことでは市民の安全を守ることはできない」と主張する。これら安倍政権の主張はごくフツーの「市民感覚」に基づいたものなのだ。
 いま自ら「市民」を自認する人々は、社会の中で起きている事実に目を向け、「市民」とは何か?をもう一度問い直し、 そこにはらむ欺瞞性に気づき、「市民意識」を超える意識(それは階級意識である)を持つべきであろう。特に影響力のあるインテリ・知識層はその責任は重大である。こうした軸ができない限り、安倍政権の危険な主張を根本からひっくり返すことはできないだろう。
いわゆる「市民社会」というイデオロギーの持つ欺瞞性を明確なしかも深い歴史観にもとづく思想から見抜き、主張することから、ほんとうの社会変革が始まるのではないか。明確な社会観や歴史観があるならたとえ自分一人でもその主張をアピールすべきだろうし、偉そうな顔した先生達が賛成しても、それに堂々と反論を唱えられなければダメだろう。デモに参加する人のすべてではなくとも、少なくともそれを先導する人たちはそうであるべきだと思う。
 さもないと、いつかはそのデモで盛り上がった雰囲気は「市民感覚」の中に潰えて行ってしまうだろう。この気持ちは、あの60年安保、そしてその後私も積極的に参加した70年安保闘争の盛り上がりが、その後結局社会を変革できなかったことへの私なりの反省である。

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