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2015年9月6日 - 2015年9月12日

2015年9月11日 (金)

「安倍」安保法制への反対理由を巡って

 自民党総裁選無投票で再選された安倍首相は、いよいよ安保法制改定案の成立を目指して突進する構えだ。この法案に対する反対運動も持続しており、がんばっているようだが、その反対理由の主なものが「説明不十分」にあるらしいのは気になる。

充分説明して国民を納得させればそれでいいのだろうか?それは違うと思う。それともう一つ、「憲法違反だから」という反対理由が多いが、これは確かに一つの大きな反対理由であろう。いまの憲法では集団自衛権を認めていないが、それで何とかやっていけるからだ。それなのに危険な集団自衛権を憲法解釈をねじ曲げてまで強引に法制化する意味はなく、それによってかえって外交的事態を悪くするだろう。
  外国との軍事同盟は、相手に戦争の口実を与え、互いに「自衛」の名目で行う戦争を泥沼の戦争に引きずり込むことになるからだ。しかも自衛の名の下で始める戦争であって、たとえ「相手」が先に仕掛けた戦争であっても、憎しみが憎しみを生み、結局は「国家」対「国家」の総力戦に発展する。そしてそれまで相手国の人々と親しくしていた人たちまでもが、「国民」の名の下に憎しみを限りなく増幅させ、互いに殺し合いに加わることになる。
要は「戦争」という状態を生み出してはいけないのだ。それは安倍政権の官僚が言うように「座して死を待つ」のでは決してなく、逆に相手に戦争の口実を与えないことになる。
 それでは安倍首相が憲法改定を押し進め、これが実現すれば現在の安保法制案が認められるのか? それは断じて違う。どう憲法を改定するかが問題であるが、集団自衛権を合憲化するような「改定」は同じ理由で決して許してならない。
 何度もこのブログで書いてきたが、われわれは中国の人たちや北朝鮮の人たちと直接憎しみ合う理由などまったくない。長い文化交流の歴史の中でわれわれは彼らから多くのことを学んできた。それを「危険な国の国民」とか「邪悪な国家の国民」と思わせ、互いに馬鹿げたナショナリズムを煽って憎しみあう関係を生み出す張本人はそれらの国々の権力者たちとわれわれの国の支配者たちなのである。むしろ中国や北朝鮮の人々と手を結び、こうした支配者たちの誤ったイデオロギーを告発すべきなのだ。このことが「戦争」を起こさせないためのもっとも基本的な認識であり、われわれはこのことを肝に銘じておくべきだろう。

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2015年9月 7日 (月)

「格差」ってなに?

 今朝の朝日新聞朝刊の「フォーラム」欄でも取り上げられていたが、いま「格差社会」といわれる中で、特に若い人たちがその現実をどうとらえているのかが、問題となっていた。学生の中に、「平等である社会が本当に理想の状態なのか」と疑問を投げかけ「格差のない社会を実現することは困難で、すべてが平等である社会を望んではいない」と述べている学生もいた。また実際のジニ係数などで示される格差と、「格差意識」は一致しないということも指摘されていた。そして要は、「(機会均等な)開かれた社会があれば」よいのではないか、という考え方が何となく結論的に扱われていた。

 ここで問題なのは「格差」と「個人差」が明確に区別されていないことだ。「格」は社会的地位を表すことばであり、個人差とは直接は関係ない。個人差はその人が生まれながらに持つ個性である。
 人は自分で何かになろうとして生まれてくるのではない。親が子をどのような人間に育てたいかはいわば、その時の社会の在り方とその中で親たちがどう生きているかに関わっている。やがてあるとき親の意向に逆らって自分の生き方に目覚めた子は、自分が世の中でどのような役割を担う人間になるべきかをどこかで決断する。しかしその場合もそのときの社会の在り方がその決断の決め手になるだろう。例えば戦争中であれば立派な兵士になりたいと思うかもしれないが、高度成長経済の中では、一流の会社の社長になりたいと思うかもしれない。そして現在のような「サービス産業時代」には一流のパテシエやシェフになりたいと思うかもしれない。その時代の社会の在り方あるいは成り立ちが、なりたい職業の選択肢を決める。
 ここでいう「社会の在り方や成り立ち」の基本となる構造が「格」(正確には支配構造)を形づくっている。いまの社会では昔のような「士農工商」といった「格」はないが、その代わりいわゆる「社会的地位」としてその職業の格付けがあり、政治家や官僚、企業の経営者、大学教授、有名タレントなどが「格」の高い職業とされている。しかし若者が何になりたいかを決めるとき、こうした「格」を自由に選択できるわけではない。自分が何になり得るかを考えるとき、「個性」の的確な判断が重要だといわれるが、結局自分や自分の親がどの「格」に属してるかが大きな決め手とならざるを得ないことが多い。
いまの社会ではそのような「格」をたえず生み出し支えているのは結局お金の流れであり、「お金」が事実上すべてを支配している社会のため、「所得」が「格」とほとんど同じ意味で用いられる。
 どう自分の個性を生かして社会の中で一つの役割を担うべきかを考え、一つの目標をもって勉学し、資格を得てどこかに就職することを目指すことがだれでも可能な社会は「機会均等社会」と言われる。たしかに機会均等であることは重要である。
  しかし、この「機会」そのものがすでこうした「格」によって条件付けられ、「お金さえあれば何でもできる」という「自由」のもとで、それを首尾良く実現した人が大きな「機会」を得、そうでない人は「機会」がほとんど得られないのである。これが「格差社会」である。
  いまはだれでもその気になれば自由にお金儲けができる社会ではないか、という人もいるが、それはまったくウソである。一方でお金をどんどん儲ける人がいれば、必ず他方で貧乏になる人が増える。いまの「自由」な社会とはそういう意味で「自由な人たち」にお金が集まる分だけ、生きる目標や機会を自由に実現できなくなる人々が増えていくという仕組みになっている。もし本当にだれでもその気になればお金持ちになれるのなら、世の中のほとんどの人がお金持ちになっているだろう。現実はそうでないことは自明である。そしてたとえお金持ちになれたとしても、それによって多くの貧乏になる人が出るということに対し「能力や努力に応じた報酬は当然であり、それをせずに不平等というのは自助努力が足りないからだ」と冷ややかな目でそれを見下ろすような「上格」の人間がまた一人生まれるだけである。
 確かに「能力さえあれば格差とは関係ない」ということもできるだろう。しかし、「能力」とはあくまでその「格」の基準で測られるものであり、個性が能力と結びつくためにはその社会の仕組みや成り立ちが前提となる。そして「格」を軸として形づくられる社会の仕組みが、「個性」にもとづいて「なりたい自分」を決めるときの選択肢の枠組みとなるため、「個人差」と「格差」が同じような意味として目に映ってしまうのだろう。
 こうした社会の在り方や基本構造を変え、「格」そのものをなくし、その人の個性をフルに発揮することがそのまま社会の役割を担うことになり、ある人は医者になり、ある人は下水道メンテのベテランになり、ある人は工場で生活に必要なものをつくる仕事に能力を発揮し、ある人は畑を耕し、様々な「個人差」がそれによって「同格」に世の中全体を支えて行けるような社会を創っていかなければならないのではないだろうか? そしてそういう社会では、「格差」ではない「個人差」がそのまま社会のあらゆる可能性を生み出せる源になるだろう。「平等」とはそういうことではないのだろうか?

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