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2015年9月20日 - 2015年9月26日

2015年9月24日 (木)

「国家」という企業の競争が行き着く先

 戦後、天皇制国家主義から一変してアメリカ的民主主義へと転換した日本では、新憲法のもと、明治以来続いた「富国強兵策」の一方の支えであった軍を廃止し、「平和国家」を目指し、「軍事」はアメリカの軍事力の「傘」のもとに入ることで過ごしてきた。そのことにより日本は世界中で起こった紛争に巻き込まれることなく、経済発展に集中することができ、その体制のもとで懸命に働いた労働者たちのおかげで経済成長を遂げ、企業は巨額の利益をあげたと言われている。

 しかし1970年代後半頃からは、国内需要より輸出に重点が置かれるようになり、その経済力がアメリカやヨーロッパの市場で摩擦を生み、経済面で警戒されるようになった。しかしプラザ合意やIMFの台頭などで、アメリカとドルの経済的地位は確保され、日本では、だぶついたマネーの回転を利益に結びつける企業経営のアメリカ化が進みはじめ、その後のバブル状態へと移行した。 軍事面では日米安保体制の中で、返還された沖縄での基地問題やベトナム戦争後の自衛隊の「国際貢献」問題などが浮上し、状勢は変化した。
 一方、中国との関係は田中角栄以後、国交を回復し、文化革命以後の鄧小平体制では日本の企業からは多くの技術者が中国の産業復興支援のために派遣され、やがて日中間は経済的な協力関係が築かれるだろうという雰囲気が一般的だった。そこにはあの戦争で犯した罪に対する謝罪的な意味も含まれていたと思う。
 しかし 1990年代のソ連圏崩壊とその後の世界情勢の大変化の中でやってきた「グローバル化」において、日本、アメリカ、中国の位置関係が大きく変わっていった。
日本ではバブル経済が崩壊し、長期にわたる不況時代に入り、アメリカでは「モノづくり産業」が崩壊し、それに代わって成長するIT産業での強みをテコとして、資本の非製造業への集中化が一層進み、 そのグローバル化が進んだ。そして中国は急速に技術力を身につけ、安い労働力を武器に「世界の工場」へと邁進し、そこで生み出される商品をもって国際市場に打って出た。日本企業の製品は価格面で国際競争力を低下させ、中国との市場競争が激化した。
 こうして21世紀初頭の世界では一方で国境を越えてグローバル化する資本と、他方で「国家」主導の経済体制間での摩擦や競争が激化する形が進んでいった。こうした状勢を背景に再び新しい形のナショナリズムが台頭してきたのである。まるでワールドカップで自国のチームを応援する人々のような心情が生まれ、「頑張れニッポン!」「中国は世界一!」などというかけ声が各国内で盛んになっていった。しかし、国家間の利害衝突がエスカレートすると国家間の「応援合戦」はやがて憎しみと排他的応酬に変わり、軍事力の誇示に発展していった。その背景にはそれぞれの国での大企業の経営者たちが日頃競争し合いながらもあるところでは協力し合って国家権力を利用しようと結束し、国家は企業の収益を上げることで苦しい財政を維持しようとする思惑が一致するという事実がある。そのため国家代表者は世界中で「トップセールス」を行い、自国の企業の利益代表となり、同時にそれをバックアップするための軍事的圧力を必要とする。
 中国の場合は、自国内のさまざまな矛盾(格差拡大、民族問題、官僚の汚職などなど)が噴出しており、人々の目を共産党独裁政権への批判からそらすために経済成長と「仮想敵」へのナショナリズム宣揚が必須であるという事情がある。
 そして日本でもそれに呼応してやはりナショナリズム宣揚と経済成長が叫ばれ、憲法改定と軍事力増強が叫ばれるのである。いわく「戦争抑止力のための集団自衛権容認」。
 アメリカは経済面では、もはや中国との協力なくしてはやって行けず、イラク戦争、アフガン戦争、等々での人々の厭戦気分と厳しい国家財政から軍縮の道を選ばざるを得なくなり、その分日本にも肩代わりしてもらいたいのが本音である。
 そして何よりも、こうした状勢の中で、自分たちの未来を失わせしめられているのが、それらの国々の若者たちである。なぜ一度しかない自分の人生を企業の馬鹿げた競争のために捧げなければならないのか? なぜいつも解雇の影におびえ、不安定な形でしか働くことができないのか? なぜ一つしかない命を「国家」のために捧げなければならないのか? なぜ自分が世界中の人々と供に人生を分かち合うことができないのか? なぜ協力し合わねばならない他国の人々を相手に殺し合いの戦争に加担しなければならないのか? なぜ凶器や武器をもって「合法的に」大量殺人行えるための組織を持つことが「戦争抑止力」になるなどというごまかしとウソが通用するのか?
 そしてまたわれわれ高齢者もしかり! なぜ生涯をかけて懸命に世の中のために働いてきて、いまこうして人生を終えようとしている者が「社会の負担」として扱われるようになってきたのか? わたしたちの人生とはいったい何だったのか? 企業に利益を生み出し、国際競争に勝つための道具に過ぎなかったのか? 不要になればその「捨て場」に困るというのか?
 この思いは、きっと中国やアメリカの社会を底辺で支えている、そして支えてきた人たちにも共通の思いであろうと信じる。

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2015年9月23日 (水)

安保法制可決後の社会を考える(続き)

 戦後の安全保障政策最大の転換点と言われた集団自衛権の容認を含む「安保法制」が安倍政権の独走のもとで成立したが、それに対する反対運動も成立直前までは一定の盛り上がりを見せながら、成立後は、やはりあきらめと無力感の中に陥っていきつつあるようだ。残念ながらやはりあの60年安保成立後のときと似た雰囲気になりつつある。

 安倍政権は、「のど元過ぎれば熱さ忘れる」を期待し、ここで強引に可決させればあとは時間が経てば反対運動の興奮も醒め、いつのまにか「新安保体制」が、60年安保成立後の際のように、当たり前のことの様に受け止められるようになるに違いない、と踏んでいるのである。要するに安倍政権はかつての岸政権の経験を踏まえて、「市民運動」とは一時的に感情的に盛り上がるが、それが醒めれば、政権のやっていることを自然に受け入れる、と見ており、「反対が50%を超えたって、放っておけば収まるさ」とたかをくくっているのである。
 残念ながら「市民運動」とは実際そんなものなのかもしれない。そして次の選挙で再び自民党が第一党になるかもしれないのである。
 だが、そんなことで良いのだろうか?世界中がいまどんどんキナ臭い方向に向かっているときに、「戦争はいやだ」程度の反対運動で良いのだろうか? あの1千万以上の死者を出し、ヨーロッパを破壊しつくした第一次世界大戦がはじまったときも、それまで「反戦」を唱えていた人々が、あっというまに「国を護るための戦争」に賛成してしまったのだ。
「戦争はいやだ」と「国を護るための戦争」の間にあるこの深い溝を埋めることなくして私たちに未来はないと思う。

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2015年9月21日 (月)

日本認知科学会第32回大会に参加して

 9月18,19,20日の3日間、千葉大学で表記学会の研究発表大会があった。私も初日のオーガナイズド・セッション企画者の一人Kさんに誘われて「生活者に寄り添う認知科学:超高齢社会に向けて」の中で、企画者である名古屋大学のS先生の「高齢化社会におけるライフへの認知科学のまなざし」に続いて「超高齢社会におけるモノづくりの創造性」という講演を行ってきた。例の私の著書「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現にむけて」で書いた内容を高齢社会の中でどう実践していくかという話である。

  残念ながら会場からの反応はいまひとつであった。しかしそれよりも私は私の前に講演されたS先生の話にひとつの感銘を受けた。それは、「若い人はこれから先の自分について考えることで希望を描くことができるが、高齢者には先がない。自分の死が遠くないことを悟るとき、そこから自分の人生を振り返ってみて、そこに何かを見るという立場になる。」というような話であった。私はそのとき、高齢者としての自分にとって「未来」は自分のものではなく、次の世代のことなのだということをもう一度痛感させられ、自分には「今をいかに生きるか」こそが問題なのだと思った。この切実感はおそらく私のような高齢者でなければ分からないだろう。
 このようなことがあってからか、この翌日の「フェロー講演」での佐々木正人氏の「アンビエント・コグニション」も非常に面白かった。特に、その中で、佐々木先生は、「周囲」とか「媒質」という存在との関わりの中での認知についていろいろな例を挙げて話をされたが、私の心にピンときたのは「解はできごとのただ中に周囲とともにある」という言葉と「固有性をもたらす周囲」という言葉であった。これがなぜ「ピンときた」のかについては機会を改めてどこかで書くつもりである。
 この日あったオーガナイズドセッションで「創造性のキモ」というのがあり、私の研究テーマとも関係していそうなので参加してみたが、大変な人気で会場からの質問も非常に多く活気があった。しかし私にとってはいまひとつピンとこなかった。
夕方からの懇親会ではKさんS先生、京都大学のS先生、三宅芳雄先生などとおしゃべりができ楽しい時間を過ごした。
 最終日、特別講演で歌人の川野里子氏の「からだと短歌」も面白かった。5-7-5-7-7の言葉の中にある「韻」と歌人の身体性との関係や、女性特有の身体的感性などの話があり、私には新鮮な内容だった。
しかし残念ながらその他の個々の研究発表の中には、私にとって「ピン」とくるものはほとんどなかった。どうもいまの認知科学会での研究は、それぞれに最新の方法や精緻な 手法を駆使した非常に水準の高いものであるにもかかわらず、それらの研究が全体としてどういう関連を持ち、なにを目指しているのかがさっぱり見えないのである。こう感じるのも私のような高齢者の特徴なのであろうか?

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