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2015年9月27日 - 2015年10月3日

2015年10月 2日 (金)

朝日「オピニオン」欄、佐伯啓思氏の「そもそも「平和」とは何か」を巡って

10月2日朝日朝刊オピニオン欄「異論のススメ」で、佐伯啓思氏が「そもそも平和とは何か」という意見を述べている。 論旨は非常に単純で、人殺しと同じで戦争は世の中からなくなることはないので、「平和」とは戦争を放棄することで得られるものではなく、自らを護るための「力」は必要である」ということを言いたいのである。氏の「平和」観は「パックス・ロマーナ」や「パックス・アメリカーナ」に見られるような、強国にの支配下で維持された秩序のことを指すらしい。 そして現行憲法の9条は、かつて日本が危険な戦争をしてきたという必要以上に過剰な自己否定にもとづく「終戦直後のあまりに現実離れした厭戦感情の産物」であり、「世界標準」からずれている、としている。安倍首相もこれとほとんど同じ考え方だと思われる。要するに佐伯氏や安倍首相に代表されるような「保守」とはいまの「常識」を護るという立場であり、その意味で分かりやすく単純な論理なのである。

 しかし、いまこの「常識」がよって立つ土壌自体が問われているのである。いま世界中で「強国」の支配下にある人々は、それがそこに暮らす人々にとって真の意味での平和ではない「平和」と称される状態に置かれていることに気づきはじめていると言えるだろう。かつてのパックス・アメリカーナが朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして冷戦後の湾岸戦争やアフガン、イラク戦争などによって「平和」が保たれてきたとする支配層の考え方が、「常識」であったが、いまこれが下から崩れはじめている。
  結局それらの戦争で戦場に駆り出された兵士たちが見たものは、罪もない他国の人々を虐殺することが戦争の現実であり、そうすることで保たれる「平和」がいかにインチキなものであるかを実感し始めているである。「国家」と「国家」が互いに「自分の国を護るため」として始めるのが戦争である。そしてその「国家」を支配する者たちがその利権を護るために自国の人々を「愛国心」に駆り立て互いに戦わせているのが戦争である。これは単なる人殺しなどとはまったく次元の異なる「合法的殺人」なのである。「パックス・アメリカーナ」が誰を護り、誰を殺してきたのか、現実をよく見るべきである。
 いまオバマ大統領は政敵から「アメリカの支配力が弱くなった」となじられながらもアメリカ国民を中東の戦場に送ることを躊躇しているのもこうした事情があるからであろう。
 こうした実情は他にも数えきれないほど多くある。いまやかっての「常識」のインチキ性が暴露されはじめ、これでは本当の平和がやってこないという危機感が世界中の人々に浸透し始めていると思う。 
それは時として過激なナショナリズムを生み、過激な宗教や宗派間の争いに人々を走らせることにもなっているが、それと同時に、互いに無意味な憎しみ合いをエスカレートさせていくことが何を生み出すかも考えざるを得なくしている。
 そうしたコンテキストにおいて、いまの日本で自衛隊をアメリカを護るために海外での戦闘に参加させ、これを「国際貢献」だなどと言いくるめ、やがてはこうした既成事実を積み上げていって憲法を改定し、国軍を持つようにする、という考え方が逆にいかにいまの世界観の中でずれているかを知るべきではないのか? 
 中国やロシアの独裁的政権が無防備の日本を侵略し、国を滅ぼすなどということが現実に起こりうるかどうか考えてみるべきだろう。むしろ中国やロシアで独裁的政権の圧政のもとで無意味な市場競争や利権争いから生じる戦争に駆り出されるかもしれない人々とこそ手を結ぶべきときなのではないだろうか? 「平和を護るための軍事力」とは誰のための「力」なのか、そしてその「力」の行使によって現実に戦場で殺し殺されるのは誰なのか、それが誰のための「平和」なのか、このことを考えずして「力による平和」などと言うべきではない。
 それにしても、朝日はこのお方がお好きなようですね。

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2015年9月27日 (日)

「さまよい人」さんからのコメントにお応えして

「さまよい人」さんから、コメントをいただいた。コメント欄を見て下さい。8月30日に国会前に行っておられた由、そのことだけでも私より一歩前に進もうとしてされているように思えます。

私は「8.30安保法制反対デモをめぐって」というブログを書いたあと、これを削除しようかとも思いました。何もせずに勝手な批判めいたことを書く自分に忸怩たる思いがあったからです。しかし結局削除しませんでした。やはりこれは私の正直な気持ちであったからです。
赤ん坊を抱えた女性がデモに参加していたことは、ある意味ですばらしいことでもあります。あの70年安保闘争のときは、機動隊の楯に威圧され催涙ガスを吹きかけられて、逃げ惑ったことを覚えています。しかしあのときも、結局、私を含めてあの闘争を闘った学生達(私は当時大学の助手でしたが)は、その後、フツーの市民生活の中に埋没していったのです。一体あれは何だったのだろうか? 私はそれから10年ほど経ってからそう思いました。
 しかし、いま再び社会が歴史を逆方向に辿ろうとしているとき、私はやはりこのままではいけないという思いに駆られています。その気持ちの苛立ちの中で、8.30デモはある意味で頼もしくもあったのですが、同時に、それは「これではまた同じ結果になる」という思いも強かったのです。特に、8.30デモを「フランス革命に相当する市民革命だ」などと言っておだて上げる「リベラル派知識人」が多かったことにはまったく残念でした。
例えば、数年前に「アラブの春」と言われた運動が中近東で起きたとき、日本の知識人は「インターネット時代の祝祭デモ」だといってもてはやしたのです。そしてその結果がどうなったかは、いまのシリアやエジプトを見れば明らかでしょう。「リベラル派知識人」なんてそんなものなのです。支配階級を補完するようなまったく無責任な人たちです。
  今回の8.30デモとそれ以後のSEALsなどの運動についても安倍政権は単なる「ガス抜き」程度にしか捉えていないでしょう。完全に「負け」です。
 本当に戦争のない世の中を創ろうとすれば、一歩一歩、運動を前進させるために、それを支える人々の意識そのものを革新して行かなければならないと思います。運動そのものが自己変革でもなければだめなのです。運動を支える人々の意識がいつまでも「市民意識」のままでは絶対に世の中は良くなりません。そしていくら行動が過激に見えても、その本質が単なる「市民意識の裏返し」でしかないのでは、結果は同じ事なのです。これはかつて安保闘争を闘った者が深く反省しなければならない点だと思います。
 「国家」を実質的に支配している者は誰なのか?そしてその者たちに支配され利用されながら、「国民」とか「市民」とか呼ばれて自分たちも支配者たちと同等な「市民」あるいは「国民」と思い込み、彼らのイデオロギーに埋没している限り 真実は見えてこないのです。
  事実、70年前の戦争では、「一億総火の玉」と叫ばれ、「国民」「少国民」が天皇と一体となって「敵国」と闘ったのです。当時はみなそれを当然と思い、その一体感こそが「日本精神」であり「愛国心」であると信じていたのです。そして戦場では「敵国民」の女性や子供を銃剣で突き刺し、それを当然と思っていたのです。しかし、その日本兵に刺し殺された「敵国民」は一人一人そこで日々の生活を営んでいた人たちであり、その日本兵に銃剣で刺し殺されるような理由は何一つありませんでしたし、日本兵に関しても同じです。こうして「国家」同士の利害の衝突が、互いにもともと何の恨みも憎む理由もない人々を互いに憎しみ合うように仕向け殺し合わねばならなくさせるのが戦争です。そしてそれを「お国のため」「国家と国民を護るため」という理由付けをするのです。そういう支配構造の中で、「自由な」一個人としてそれと対等に闘うなどというのは全くの幻想に過ぎないと思います。
 そのようなことに気づくことが必要だし、そうでない限り、いくら「戦争はいやだ!」と叫んでみても、世の中から戦争をなくすことなど絶対にできないでしょう。

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