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2015年10月25日 - 2015年10月31日

2015年10月27日 (火)

過疎の農村で自立する農業者の実像

昨日、房総半島中程の過疎農村地帯に住み、単独で有機農業を営む友人I さんの家に稲刈りの手伝いに行ってきた。

 I さんは、もと IT技術者でコンピュータ関係の仕事をしていたが、中年になって結婚してから思うところあって脱サラし、房総の山の中にある小さな村落に住み、子育てをしながら農業を始めた。最初は山間の狭い谷地に合鴨を使った有機農業をやっていたが、最近付近の農家がなくなって耕作放棄地が増えたことから急増した野生動物に田を荒らされ、そこでの耕作ができなくなった。そこでクルマで山道を15分ほど下った広い平野にある田んぼの一角を借り、そこにあらたに田んぼや畑をつくった。
 そこは大して広くない田んぼであったが、そこに古代米を植え、それを収穫している。昨日はその古代米の稲刈りの手伝いにいってきたのである。
晴天に恵まれ、稲は手押しの稲刈り機でものの2時間くらいで全部刈ってしまったが、その間、自動的に束ねられて機械から出てくる稲束を拾ってトラックまで運ぶ作業をわれわれが行った。そのあと今度はまたクルマで山の自宅までそれを運び脱穀した。そのあと、脱穀した古代米を乾燥させるためにまたそれをクルマで平野の一角にあるビニルハウスの中に平らに拡げて乾した。さらにその後は、さっき脱穀したときに出た稲わらを再び田んぼの畦に並べる作業を総勢6人掛かりで手伝った。これらの作業はいくら機械力にたよっても作業者は相当な労働過重となるので、やはりある程度の人手があった方が良いことが分かる。農業を営むということは昔も今もなかなか大変なことである。
 途中おにぎり1個ずつの「小昼」をとったが、午後2時位にはすべての作業を終えて、I さんの家に戻り、2度目の昼食を摂りながら歓談した。その中でTPP問題が話題となり、これから小規模経営の農家はやっていけなくなりそうだという話になった。そこで私は、おそらく日本の農業にはいずれ外資系の農業資本が入り込み、小農地は併合され大規模農業経営となり、米農家の人たちは、そこに農業労働者として雇われて働くようになるのではないかと問うと、I さんはそうはならないという。それはこれから市場に出回る輸入米は国内米の5分の一位の価格で売られるだろうから、とても太刀打ちできないという。要するに米を製品としていてはいくら大規模経営でも競争できず、結局、より高価な付加価値をつけた商品(バカ高いブランド米など)を目指すか、あるいは加工食品として売るしかないだろうという。現にI さんももう米を農協や市場に出すことはせず、それをモチに加工して売ることで何とか収支が成り立っているのだそうだ。私はなるほどと納得した。
 結局、TPPが実施になればわれわれ富裕層でないフツ—の人たちは、市場で外国産の米を買って食べることになるだろう。弥生時代から 2000年以上続いた日本の米作りはここに終わることになるのだ。そして日本人の食生活は大部分が輸入品となるだろう。
 しかし、世界を見回すと、グローバルに過剰消費経済が拡大し、いま世界全体で食料が供給減になりつつある。やがて食料品は高騰し、われわれの生活が圧迫されるだろう。しかし、 TPPで、世界中の貧しい人々に新薬を安く供給することを拒否したアメリカの製薬業界と同じくグローバル農業資本もこの食糧難を、 「ビジネスチャンス」とみてボロ儲けを目論むだろう。また食料品の輸出入が国際関係の外交戦略手段にもなるだろう。
 そのような状況になってもI さんの様な自立農家は生き残れるのだろうか?私は内心心配だったが、しかしいまそのことを話題にすることは避けた。
 「経済成長」を至上命令とする安倍政権のもと、いまかつては世界にその技術を誇ったモノづくりもインフラ、軍需関連産業以外は日本から出て行き、もっとも基本的な産業である農業も外国産に頼ろうとしている。その一方で、観光やスポーツ・エンタテイメント産業などの(要するにどうでもよいような)第3次産業や外資と結びついた金融業などが莫大な利益を挙げ、多くの人々はそういう企業に「非正規雇用」としして雇用され生活することになるのかもしれない。
 あの赤塚不二夫がもしいま生きていたとしても「これでいいのだ!」とはとても言えないだろう。

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2015年10月25日 (日)

資本主義社会崩壊後の社会建設に関する重要な論議(その3)

(前回からの続き)

 社会主義社会においても、生活手段として必要なモノの獲得はもちろん、生産手段として用いられるモノの獲得も、工場などを運営する労働者がそれを労働時間との「等価交換」によって獲得しなければならない。こうした交換はもちろん現物支給や物々交換などではなく、いわば「擬制的貨幣」とでもいうべき「労働証紙(労働時間証明書)」を媒介として支払われ交換されるはずである。その場合、モノには価格ではなく価値そのものが表示され、それはその生産に費やされた過去の労働の時間量がそのまま示される。

すべての人々は何らかの形で社会的に必要な労働をそれぞれ分担して行っているわけであるから、社会的に必要な生産物の種類に応じた生産単位(資本主義社会における企業に相当する)での労働に従事しており、 生活資料は、その生産単位での労働時間に応じて受け取る「労働証紙」によって「買い」、消費することになる。

一方生産手段の方は、個々の「生産単位」そのものが社会的共有であるため、社会的・計画的に配置された人数のもとに生産単位を運営する労働者たちがその生産単位からどれだけの生産物を生み出すかによって決まる、労働時間の総計に相応しい「労働時間証明書」を社会機関から支給され、それをもって生産手段をそのそれぞれの製造元から「買う」ことになるだろう。あるいは直接社会機関が生産手段の製造元から「買った」生産手段をそれらの生産単位(企業)に分配することになるかもしれない。

 結局、社会全体として見れば、社会的な総生産物を大きく生産手段(I 部門)と生活手段(II部門)とに分けたとき、マルクスの再生産表式で示されるような形で社会的総生産が維持されることになる。つまり単純再生産であれば、I 部門の使用価値としては生産手段である生産物における「新たに追加された労働による価値部分(v+m)とII 部門の使用価値としては生活手段である生産物における「過去の労働が対象化された価値部分」(c)がI(v+m)=IIc として「等価交換」されることにより互いに需要するものを供給し合うことになる。もちろんI部門に必要な生産手段 Ic はそのままそこで用いられ、II部門の労働者に必要な生活資料 II(v+m) はそのままそこの労働者に分配される。透明になった剰余価値部分mは拡大再生産する社会においては、再生産に必要な部分を超えて得られる部分はそのまま社会共通ファンドとして蓄積され、社会全体で共通に必要な「支出」(例えば社会インフラの整備や何らかの障害で働きたくとも働けない人々などのための生活資料や病気や事故に対する社会的保障なども含まれる)として用いられる。

ここには何ら、商品や貨幣としての物神性は現れないし、「売って儲けるためにつくる」という動機も現れ得ないはずだ。つくられた生産物は使用価値であると同時に価値であり、それに相応しくそれらを生み出した労働者に配分される。だからここでは莫大で無意味な過剰消費と過剰生産などなく、「必要なモノを必要なだけつくって消費する」本来の意味での経済的社会体制となるだろう。

このように考えるのは間違いであろうか?

ここで、これまでの論議には出てこなかったが、「自治と自由」という重要な問題がある。それは、社会的な計画を立案する人々と、労働現場で働く人々との区別における同一性をどう確保するかという問題、そして労働者自身がやりたいと思う仕事に就ける自由と社会的に必要な労働とのマッチングをどうとるかという問題である。前者は、かつてのいわゆる「社会主義国家」が独裁的な党官僚支配となり、労働者の主体的自治が完全に失われていたことに関わる問題であり、後者はそこでいわゆるノルマ労働が強制され労働者の自由が奪われていたという事実に関わる問題である。

これらの問題は、上述した本来の社会主義社会での経済的基礎の上に、どのような社会を生み出そうとしているかに関わる問題である。

これについては別の機会に書くことにしよう。

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