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2015年11月1日 - 2015年11月7日

2015年11月 5日 (木)

資本主義社会崩壊後の社会建設に関する重要な論議(その6)

(前回からの続き)

 このような社会的再生産の原則はあらゆる社会にいえることであって、これを資本主義社会においては、次の様な形で行っている。
 まず資本家がすでに所有する貨幣資本によって生産手段を買う。彼らはそれに労働力を買い取り、両者を生産過程に取り込んで生産を行うが 、出来上がった生産物には生産手段の生産的消費により移転した価値部分"c"と生産過程で新たに労働によって付け加えられた価値部分"v+m"が含まれている。ここで"m"部分は労働者が自分の生活資料として必要な価値部分"v"を超えて生み出す価値、つまり剰余価値部分である。資本家はこのmを含む生産物を当然のことの様に彼の所有物として商品市場に売りに出し、それを貨幣に換える。そしてそこから労働力の再生産に必要な生活手段分として"v"部分を労働者に貨幣で前貸しし、生産手段の消費分として"c"部分を補填するが、"m"部分は彼の利潤として獲得する。そして再び生産過程を繰り返す。
 資本主義社会では、貨幣資本を媒介にしてすべての生産物が商品として売買されるが、その中には労働力も含まれる。労働者は自分が生きていくためには自分の労働力を売りに出し、 労働市場(いわゆる就活や就職斡旋)でどこかの資本企業に労働力を商品として買われ(つまり雇用され)、資本家企業の生産過程で労働力の使用価値を発揮させられる(つまり労働を提供する)。資本家は労働の報酬のごとくに見せかけながら労働者に賃金として貨幣形態で生活資料の前貸しをする。労働者はそれによって他の労働者が生産した生活資料を「買い戻して」消費することによって彼の生活の中で労働力の再生産を行う。賃金はしたがって「所得」では決してなく、生きるために必要な生活素材の貨幣形態なのである。それは資本家にとっては労働力商品として買った価値以上の価値を生み出す商品の資本形態であり、それゆえ「可変資本」なのである。
この過程では最初に投じた資本はそのまま回収されそれに加えてmが追加されるが、それは再び生産手段の補填分と労働力の買いに回され、残りは資本家自身の純粋所得となり、どう使おうと彼の勝手なのである。
 社会全体としては各資本家間でm(実際には各資本家企業の資本構成などにより異なるmの平均)の分配がm/c+vという形で行われる。つまり不変資本部分の生産を行う資本家群と生活資料の生産を行う資本家群に対して全体の利潤を分配する形になる。
 したがってこの再生産過程では労働者にとっては自ら生産した生活手段を買い戻して生活を維持するためのv部分以外に「所得分配」などどこにも含まれないし含まれる可能性もない。したがってピケティーの様に資本主義社会の矛盾を「社会的富の配分の問題」としてとらえることは決定的に誤っている。
 こうした資本家的生産過程があらゆる生産手段生産企業や生活手段生産企業を含むさまざまな企業でさまざまなサイクルによって行われることで社会的総資本の再生産が成り立っている。ここではI(c+v+m)生産手段部門の企業群が生産する商品と生活手段生産企業群II(c+v+m)が生産する商品の間には、I(v+m)=IIcという関係が保たれ、この両者を=で結ぶのは貨幣資本による交換である。そしてこの再生産過程は資本の総循環過程でもある。
 まずは、こうした状態に置かれている現代の労働者階級が、実は資本のための労働という形でしか自己実現できないという自分たちの置かれた位置を自覚し、その意味で、この「自由と民主主義」が支配すると言われている現代資本主義社会が、厳然とした階級社会であることに気づくことが必要である。
  そして資本主義社会のこうした矛盾が克服された社会として、自分と社会の関係が透明で、明瞭な形のもとに置かれ、そこでは前述したような本来の再生産過程のうちに生産物の合理的な分配が行われるようになるべきだと考えてよいのではないか。

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2015年11月 2日 (月)

資本主義社会崩壊後の社会建設に関する重要な論議(その5)

(前回よりの続き)

 資本主義社会以後の社会での分配の問題を考えるため、ここでもう一度再生産表式に戻って考えてみよう。
 すべての労働生産物はそのさまざまな使用価値を持っていると同時に、そこに対象化されている抽象的な社会的労働の成果として(c+v+m)という価値構成を持っていると考えられる。ここで"c"は資本主義社会で言う不変資本部分(機械などのような労働手段と鉄鋼などのような原料を含む生産手段から移転した価値部分)に当たり、"v"は可変資本部分(生きた労働がそれ自身の生活のために必要な分として生み出した価値部分)、"m"は生きた労働が"v"に相当する価値を超えて生み出した剰余価値にあたる価値部分)を示す。
 いま社会が一定期間(例えば1年)に生み出す総生産物を考えると、その生産物の使用価値の種類から分けて大きく、生産手段部門(I部門)に属する生産物と、労働者の生活資料部門(II部門)に属する生産物がある。(いわゆる奢侈品や遊びのための道具などはどう扱うのかについては別途考えることにする)
これらは価値構成としてはそれぞれ、I(c+v+m)、II(c+v+m) と表記できる。
ここで、毎年同じように社会が再生産を繰り返していくためには次のような条件が必要である。
I(v+m)=IIc
つまり使用価値としては生産手段である生産物を生産する I部門での、価値としては可変資本部分と剰余価値部分(つまり新たに労働によって生み出される価値に相当する価値部分)が、使用価値としては労働者の生活資料となる生産物を生産する II部門での、価値としては不変資本部分の価値に相当する価値と「等価交換」される必要がある。I部門とII部門がお互いに生産物の使用価値をそれらを必要とする部門に提供し合う必要があるからである。
 残りのIcとII(v+m)はそれぞれI部門内で生産手段として、II部門内で生活資料に当たる価値部分に充てられる。
 そして労働者が、資本家への隷属と労働の成果の搾取から解放された社会主義社会では、生活資料としての生産物は、原則としてそれぞれの労働者が社会的に必要な分担労働のために費やした労働時間が生み出す価値に相当する分量を分配されることになるだろう。
 ここで I部門と II部門は実際にはそれぞれ、さまざまな種類の生産物を生み出すさまざまな生産単位(企業)に分かれており、生み出される生産物もそのさまざまな使用価値に応じたさまざまな種類が生み出される。
生活資料に関しては労働者が直接生活に必要な物をその目的に応じて、すでに個人的消費のために分配された価値の中から、入手したい生産物の価値と等量の価値部分を「支払って」入手し、それを生活において消費するが、そこでは何らかの形での労働時間証明(資本主義時代の貨幣と実質的には異なるが形式的には似たもの)が交換の媒介手段として用いられることになるだろう。
生産手段に関しては、次の様に考えられる。生産手段は資本主義時代のように資本家の私有物としてではなく、全体としては社会的共有の形になるが、具体的には、I、II部門とも、さまざまな生産物を生産する生産単位があり、各生産単位を管理運営する労働者がその生産単位が必要とする生産手段を必要に応じて入手しなければならないだろう。その場合、それぞれの生産単位がその年に生み出した生産物量に応じて、それによって消費された生産手段の補填分の価値があらかじめ必要となるが、これは社会的総生産物の価値構成としては"c"の部分に当たると考えてよいだろう。すでに I(v+m)=IIcとしてI部門からII部門に提供された部分と、Icとして生産部門に投入されるc部分はどのように各生産単位に分配されるのかが問題になるだろう。
I、II両部門ともそれぞれさまざまな生産単位が存在し、それらの生産単位が必要とするだけの生産手段が分配されなければならないが、この場合は直接に使用価値としての生産手段が分配されるわけであるから、各生産単位がその年に生み出した生産物の量に応じて消費した生産手段の価値量に相当する分の生産手段がそのまま供給されることになる。しかし実際には社会機関からの直接的現物支給という形ではなく、あらかじめ社会的総生産物のIc+IIcの価値量に当たる分だけ社会機関が留保した価値分から各生産単位の必要とする生産手段の価値に等しい「証明書」が発行され、これとの交換で各生産単位の運営者が必要な生産手段を必要な生産単位から入手することになるのではないだろうか。
 いずれにしても、生産手段も生活手段も直接に現物として分配されるわけではなく何らかの価値表象(労働証書に該当する)を媒介として交換されることになるだろう。つまり、社会主義社会においても価値はこうした分配のための基準として用いられることになるだろうと考えられる。
(続く)

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資本主義社会崩壊後の社会建設に関する重要な論議(その4)

 これまで表記のブログで3回にわたって、あるセミナでの資本主義崩壊後に建設されるべき社会での価値と分配の問題を論じてきたが、その後、このセミナの主催者であり唯一の講師であったH氏のこの問題に関する考えが整理されて掲載された資料を得たので、これについて検討と加えてみたい。

 H氏は「社会主義における分配法則は、資本論冒頭における商品論(価値の理論)と、第2巻における再生産表式、つまり資本の総流通と再生産の理論によって説明されうるのであって、「過去の労働」やその移転の理論によって媒介される必要はありません」と主張している。 ここでH氏のいう「価値移転論」とは、もともと労働生産物には、それを生産するために新たに支出された「現在の労働」により形成される価値とそれを作るために用いられた生産手段に対象化されている過去の労働による価値部分も移転されて含まれており両者を加えたものが生産物の価値となっている、という考え方のことであるが、しかし、H氏はそれを、消費手段(生活手段)としての生産物には「生きた労働」が対象化されており、生産手段には「死んだ(過去の)労働」が対象化されていると考えているのが価値移転論の問題点だとしている。H氏のいう「価値移転論」とはマルクスが再生産表式の中で述べている価値の移転の論理とはここが違うようだ。

 そのためH氏は「価値移転論」の第1の矛盾は、資本の総流通と再生産の表式が示すように、使用価値の面ではともかく、価値の生産の面での計算の二重性という困難をもたらすことです。つまり年々の全体の労働者の労働に、生産手段部分に「移転されてきた」過去の労働が加わるために、生産手段部分の価値が2倍の価値として表されてしまいます。つまり「生きた労働」は消費手段(生活手段)とその価値を生産する労働ですが、同時に生産手段は使用価値も生産するが、その「価値」の方は生産しないという奇妙な労働として現象することになります」と述べている。

 しかし、マルクスの再生産表式の中で述べられている「過去の労働の移転」とは、生産手段も生活手段も使用価値であり同時に価値であるが、生産物の生産は過去の労働の成果である生産手段を用いて行われるのであって、生み出された生産物にはその生産物を生み出すのに要した「現在の労働」(v+m)と生産手段を生産するために支出された「過去の労働」のうち「現在の労働」で生産的に消費される分(c) が 移転し含まれている、というものであると私は解釈している。

 重要なことは、その場合、マルクスが資本論第1巻第3篇第5章で、「労働過程において用いられない機械は無用である。そのうえに、それは自然的物質代謝の破壊力に侵される。鉄は錆び、木は朽ちる。織られず編まれもしない糸は、駄目になった綿花である。生きた労働は、これらの物を捕らえ、蘇らせ、単に可能的であったにすぎない使用価値から、現実的にして効果的な使用価値に転化せねばならない。これらの物は、労働の火によって舐められ、労働の肉体として取り込まれ、労働過程におけるそれらの概念および職分にふさわしい機能を吹き込まれて、消耗されるのではあるが、しかし充分な目的をもって消耗されるのであり、生活手段として個人的消費に入りうるか、または生産手段として新たな労働過程に入りうる新たな使用価値の、新たな生産物の形成要素として消耗されるのである。 かくして、現在ある生産物が、労働過程の結果であるだけでなく、その存立条件であるとすれば、他面では、労働過程への生産物の投入が、したがって、生きた労働とのその接触が、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し、または実現するための唯一の手段なのである」(向坂訳岩波版より引用)、と言っているように、過去の労働の成果である生産手段は、生きた労働の「火に舐められる」ことによって初めてその使用価値を発揮するのであって、したがって生産物を生産する労働に要した時間に対応する価値分だけを生産物の価値に移転するのである。

だから生産手段に含まれる価値はそこにそれまでに行われた過去の労働がいくら重層的に蓄積されていたとしても、そのすべてが価値として新たな生産物の価値に単純に「加算」されているのではなく、そこに過去の労働のすべてが圧縮されていようとも、それが使用価値を発揮している間、生産的に消費された分だけの価値しか生産物に移転しない。つまり生産手段は労働過程で使用価値を発揮することにおいて過去の労働による価値をそれだけ消滅させ、その分を新たな生産物に移転させる。それが再生産表式における価値構成の"c"部分である。私はそのように考える。だからH氏が言うような「生産手段の価値の二重計算」などということは起こりえないと考えるべきではないのか?

 H氏がいう「価値移転論」とは多分こうしたマルクスの考え方を曲解した誰かの考え方を指しているのだろう。だがH氏はそのため、マルクスの再生産表式が社会主義社会では通用しないと主張するのである。H氏はマルクスの再生産表式は資本主義的生産様式でしか通用しないと考えているようだ。それは価値というものに対するとらえ方にあるのかもしれない。H氏は社会主義社会では価値は存在せず、価値規定のみがある、と考えているようだ。この問題はここではこれ以上立ち入らないことにするが、H氏の提唱する社会主義社会での分配を示す表式(図表?)とは消費手段のさまざまな種類を労働者にどのように分配するのかについて書かれており、基本はマルクスの再生産表式を下敷きにしているように見え、そこではc+v+mという価値構成の考え方を用いている。ここでのH氏の"c"は何を意味するものなのであろうか?

そしてH氏の主張では、生産手段は「社会的共有」だからという理由で分配の対象にはされていない。しかし、各種の生産部門に労働力と生産手段は配置されなければならないので、これがどのように行われるのかも考えるべきではないだろうか?

(続く)

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