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2015年11月22日 - 2015年11月28日

2015年11月23日 (月)

デザイン学会秋季大会に参加して

11月21日に上野のG大で「デザイン・レガシーの時代〜残すべきもの---変えていくもの〜」というテーマでデザイン学会秋季企画大会があった。企画大会ではあるテーマにそった基調講演やパネルディスカッションが主な内容となる。ことしの基調講演はG大を退官されるO教授による「生命観のトレース」〜宇宙居住のデザイン的展開〜と、博覧会などのイベント・プロモータをやっているF氏の「デザインの持続可能性とレガシー」〜国際博覧会とオリンピックの新たな潮流から〜というものであったが、両方ともその専門的立場からのご自身の業績に関するプレゼンであり、それなりに重みがあったが、失礼ながら私にとってはそれほどピンとくるものはなかった。

 昼休みを挟んで午後からは表記のテーマで3人のパネリストによるパネルディスカッションが行われた。最初はS大学で建築をやっているS准教授で、日本の建築の歴史が戦後のモダニズムへの批判からポストモダン建築へと移り、それもやがて行き詰まり感が顕著になり、磯崎氏の「建築の都市からの撤退」をきっかけに「継承するデザイン」へと変わりつつあり、「建築の内向化」という方向へ大きく変化しつつあるという。建築家は「アイドル化した存在」から「住民に埋もれた存在」へと変わり、都市では大規模な都市計画ではなく、狭い空間にどのように居住できるかが問われ、地方では空き家のリノベーションがテーマとなっている。特に2011.3.11以後では建築物ではないところに焦点が移ってきており、コミュニティーの歴史の可視化などという形で、遺構などを巡って「残すべきモノではなく残すべきコトへ」と視点が変わってきている。これはある意味でトップダウンの復興計画への対抗でもあると言っていた。これは私にとってアレグザンダ—のデザイン論とも通じるという意味からも興味深い話であった。
 次のパネリストはデザイン振興会のお偉方であるA氏であった。この肩書きだけでさぞかしトップダウンの話になるだろうと予測していたが、それはかなり外れ、なかなか面白い話もあった。日本のデザインの60年の歴史では「コトのレガシー」を残していない。「更新主義」であり、モノが消えて行くとともにコトも消えていったと指摘し、グッドデザイン賞も潮目が変わり、産業主体のグッドデザインか消えて、レイヤーが変わってしまったと言った。これも3.11がきっかけとなって、産業界では出来なかったデザインが次々に登場してきたと指摘し、例えば復興プロジェクトへのプロの無償参加、ノウハウの無償提供、試作品を作り、それを売ってくれる人を探す、などその実例をいくつか挙げていた。これを「デザインのオープンプラットフォーム化」と彼は言っており、「共創」がそのキーとなると指摘していた。また日本特有のデザイナーの在り方として専門分野間の調整役」という役割があり、これはあるいみで新しいデザインの知恵の使い方だとも言っていた。
 後の部分は企業の立場を考えてのことと思われるが、前半の彼の主張はかなりの部分私も同感できる。
3人目のパネリストはもとT美大でいまはG大の情報デザイン担当の教授であるS氏の話であった。彼は「レガシー」をねらったデザインはトップダウン的発想であり、「いまを生きるための営み」に価値を認める場をつくりだすことが重要である、と言った。そして生活者が参加してつくりあげるという姿勢が必要であり、これが"Rule of the people"に結びつくはずだ、と主張した。
 
 私はこれらのパネリストの主張や指摘は、私の著書「モノづくりの創造性〜持続可能なコンパクト社会をめざして」(海文堂、2014)で述べた私の主張に近いものを見、ある意味「我が意を得たり」という思いであったが、少し引き下がって考えると、この人たちと私の主張の間に重要な相違点があると感じた。
 それは、トップダウンからボトムアップへという世の中の流れがいまあるという事実を共有しながらも、デザイナーという職能の歴史性(時代的役割)についてはほとんど語られず、デザイナーは普遍的に生活者と産業界を結びつけるという社会的役割を持っているという暗黙の了解があるように思えるからだ。
  それに対して、私は、生活者こそがデザイン主体であるべきなのであって、生活者が基本的能力として持っていた自分自身の生活や生活空間を自らの手でデザインする能力を、近代社会の成立とともに「産業界」に奪われてきたことこそが重要な問題だと思うからである。
  産業界においては生活者を「消費者」としてしか見ず、それこそ「産業振興」のためにデザインという職能を身につけた専門家を必要としたのであって、生活空間のデザインはすべて彼らの手に任されることになってしまったのである。そして生活者は自らの生活空間を創造する人間ではなく産業界から商品としてデザインされたモノを買う、「消費者」でしかなくなってしまったという厳然たる歴史の事実があるのだ。
 だからいくら"Human centered design"とか「生活者に寄り添うデザイン」と言ってもそれは生活者自身が必要とし、生み出したものではない「トップダウン・デザイン」なのだ。そこにいまのデザインの矛盾の本質があり、社会全体でのモノづくりの体制を変えて行かねばならない歴史的必然性があるのだと思う。
 最後に、この大会の昼休み時間に開催された「学生プロポ」ではいろいろな大学のデザイン学生が作品や研究をパネル展示していたが、その中で、女子学生の生活に密着したデザイン作品に良いものがいくつかあったのが印象的であったことを記しておこう。

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2015年11月22日 (日)

テロリストの実存を考える

 ある西欧のジャーナリストがISに潜入し、危険を冒して現地での取材を行った際、北欧のある国からISのジハードに参加した若者へのインタビューで、彼が「ここにきて初めて自分の人生を生きていると感じることができた」と語ったそうだ。彼らは一つの使命感をもってテロを行い、それによって命を失うことをむしろ喜びとしている様に見える。これは一体何を意味するのであろうか?これはかつて太平洋戦争で大日本帝国護持のために死んでいった特攻隊員がもっていた実存感覚に近いものであろうか?

 いまのヨーロッパでは多くのアラブ系・イスラム教徒の移民たちが彼らの住む西欧の社会において、日々の生活の中で明らかに彼らの信じる宗教や言語への差別や軋轢を受けつつある状況で、そこに自分の人生を生きる場所がないと感じるのは当然であろう。そこにISからの巧みな勧誘があれば、それに乗せられる可能性は非常に高い。
  しかし、そうであっても、そこから殉教者としての無差別テロを行い、そこで自分も死ねるようになるまでの距離はかなり大きいのではないかと思われる。そこには人間が共同体との関係において自分の生きる意味を感じさせる「使命感」というものが大きな役割を持っいるように思われる。特攻隊の場合もやや異なる意味ではあるがそうであったと思われる。
 「使命感」は社会における自分の存在意義とそれが持つ共同体との絆を生み出す人類に共通な自己確認意識(自分が何者であるかを納得できる意識)を基礎にしており、明らかにそれを感じることができる場合に自然に生じるのが使命感であるといえるが、その使命感を政治的、宗教的支配者はその虚偽性をもつ支配を正当化するために巧みに用いるのである。
 実は、ISの思想とはまったく反対の様にみえる「自由・平等」な市民社会における自分の「使命感}も真の共同体意識ではないと考えられる。それは社会の生産から消費まですべての経済的基盤を利益獲得の道具として支配している資本の意志としての「自由・平等」であり、市場での自由競争に勝つための「自由」であり、そこで彼らの利益の源を生み出している賃労働者としての存在を、あたかもそれが資本家たちと供に社会的使命を担う普遍的市民としての位置であるかのように置き換え、そこに「企業戦士」としての使命感を持たせようとするのである。そしてそこからドロップアウトした下層労働はブラック企業の獲物となり、失業者はあたかも救済の対象でしかない「社会の手足まとい」扱いを受け、生きる意味を見失っていくのである。
  だから当然そこにある虚偽性が、「市民社会」に生きる労働者階級に自分の生きる意味を感じられないような状況をもたらす。そしてそれを補うような支配的イデオロギーの一環としての宗教的倫理観を植え付けようとするのである。カトリック聖職者のいう「置かれた場所で咲きなさい」はその典型である。その意味ではジハードとカトリシズムには対極的意味での共通点があり、疎外された自己の正当化を同じ平面で対極的形で行おうとしているように思える。一方は極端に過激な排他的自己正当化により、他方はあきらめと従順の自己正当化により。ただカトリシズムの方は、「自由・平等」を謳ったフランス革命で一時圧迫されたとはいえ、西欧ブルジョア(市民)社会のもつ虚偽性を覆い隠す役割を持たされていままで生きのびているのである。
 マルクスの「万国の労働者、団結せよ!」というスローガンの背後には、こうしたブルジョア的虚偽の自由平等の水準を遙かに超えて、本当に社会においてそれを支えるために働く人々が「国家」の壁を超えて初めて得られる、自分たち自身による本来の絆の中に、真の人類社会としての使命感を持つことが目指されているのだと思う。
 テロリストたちが本当は自分たちと同じ立場にある「市民」を無差別なターゲットとして一方的に殺戮するという悲劇はもう繰り返さないでほしい。労働者階級の本当のターゲットはもっともっと巨大な相手であり、世界中の富の90%以上を握って「民主主義」という顔つきで国家をも乗っ取り、国際政治を操っている「怪物」である。これにはテロなどでは到底かなわない。いまは国境内に閉じ込められて孤立し互いにナショナリズムに染め上げられて対立している圧倒的多数派の労働者階級が国境を越えて互いに手を結んで、互いに殺し合うことなしになしこれに対抗するしかないのだと思う。

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