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2015年11月29日 - 2015年12月5日

2015年12月 5日 (土)

社会の中に自分の居場所を見つけられない若者たち

 パリでのISのテロ事件から、いま「ホームグロウン・テロリスト」が注目されている。彼らの多くは移民であり、親の世代にイスラム圏からフランスやベルギーに移住してきた人々が多い。ところが「自由と平等の国」フランスでもその影響下にあるベルギーでもイスラム系の移民は日常的に差別を受け続けている。そしてそこで暮らす人々は常に社会に自分の居場所がないという実感を日々持ち続けながら「移民街」に肩を寄せ合って生活している。これがISの呼びかけで簡単にテロ行為に走る若者「ホームグロウン・テロリスト」を生み出す根本的要因である。

 このような「自由と平等の国」におけるたてまえと本音の矛盾はいまに始まったことではないが、実は日本でも形は違うがこれに近い現象が起きている。移民が少ない日本では、いわゆる人種差別は、かつてアイヌ民族や朝鮮半島の人々に対する差別があった以外にはヨーロッパやアメリカほど多くはない。またいわゆる「部落民」と呼ばれる人々への差別もあった。しかし、現代においてはそれよりも遙かに大きな規模での差別が堂々とまかり通っているのである。それは一流大学を出て一流企業に収まったエリート層の若者たちと、そうでない若者たちの間にある「差別」である。これは従来から経済的に裕福な一族とそうでない人々の差別でもあったが、いまではもっと複雑であり、むしろ若者たちの「能力差」の様な形で表れている。そしてその「能力差」は何に基づいているかといえば、企業活動に役に立つ人間であるかどうか、あるいはもっと直接的にいえば「収入源になりうる人間かどうか」で決まるようだ。
 これは人間の能力が「労働力商品」として、つまり「価値を生み出しうる人間」として資本家的企業に買われることで、その人間の社会的存在意義が認められるという資本主義社会特有の現象である。「就活」という名で呼ばれている労働力商品市場においては面接や入社試験でこの能力が問われる。そしてここで高く評価されるように若者たちは一流の大学をめざすのである。
 いったんこのレールに乗れた者は企業内で、その経営を担う人材として重用されしっかり自分の居場所を与えられる。しかし、最初からこうしたレールに乗ることのできない若者たちは、そこからドロップアウトせざるを得なくなる。彼らは、労働の場ではなく、別の場に自分の居場所を求めることになり、労働は単に生活を維持するための場となる。そしてそういう立場の人間にとっては都合の良い時間に労働が出来る場を求め、そこに居られなくなければ別の職場に移ればよいという考え方が当たり前となる。そのためアルバイトや非正規雇用という形をむしろ受け入れることになる。しかし、実際に労働の場に就くと、そこに待っているのは過酷な労働や長時間労働であり、自分のための時間は全く持てなくなり、ただ生活のために身を粉にして働くだけの生活が待っている。そして彼らの多くはただ日々生きるだけが精一杯で、結婚もできず家族を持つこともできずにやがて孤独な貧困化した生活保護老人となっていく。一方企業の経営陣の一員となった者たちは、そうした労働力をできるだけ安く雇用し、使い捨て労働者として要らなくなれば簡単に解雇出るアルバイトや非正規雇用を増やしていく側に立つ。それが彼らの社会的存在意義なのであって「居場所」なのである。そして政府は「雇用が増加した」と自らの経済政策の成功をうたいあげる。
 こうした差別は本人の自助努力にかかっているとするのが今の政府や支配者層の考え方である。しかし、現実にはこうした一見「能力差」や「努力の成果の差」に見えるこの差別は、実は同じ企業内でその利益を生み出しそれを経営する側に立つ人々と、そこに労働力として雇用され、その労働によって生み出す価値のほとんどを企業に無償で搾取されてしまう人々との間にある「階級的対立関係」があるからこそ「差別」となるのである。
 かつて資本主義以前の時代においては、例えば「士農工商」などといった明確な階級関係があり、この階級の壁を超えることはほとんど出来なかった。しかしそこではそれぞれの人々の居場所があり、その能力を発揮して生活することができた。しがない職人稼業や農民であれ、そこには「これがオレの生業だ」という自負があった。この世界では明確な階級や根本的な差別があることが前提であり、 これをなくすことなど誰も思いつかなかったのであり、その中での自分の存在意義を求めるしかなかったためである。
資本主義社会では、こうした階級の壁を打ち破って自由に自分の能力を生かせる世の中になったと宣伝された。そして確かにかつての農民や商人出身から政府の官僚組織や軍の幹部にまで出世する人々が続々と現れた。
 しかし、資本主義社会では、もっと本質的な階級が見えない存在として前提されているのである。それは社会のあらゆる価値の源泉となっている労働を自らの主体的意志によって行い、その当然の見返りとしてそこから生み出された価値を受け取れるべきはずの人々が、自らの主体的意志ではない労働を行い、その見返りは単に再びその労働力を生活の中で維持するにたる価値部分しか受け取ることのできない仕組みが社会全体を支配している。これを行わせる立場に行く者たちの階級とこれを行わざるを得なくさせられている者たちの階級に分かれる分岐点がこの社会でいう「能力差」なのである。この仕組みを支配する側からの「能力」があるかないかで、あたかもその人間の社会的存在意義があるかないかの違いのように思わされてしまうのだ。
これを「置かれた場所で咲きなさい」などというのは、支配する側の立場でしかあり得ない。誰が貧困層として置かれた場所で「咲く」ことなどできようか!
 日本でも「ホームグロウン・テロリスト」が生まれないうちに、歴史の向かう方向を正しく見極める目を養い、もう一度、労働者階級としての正当な運動を生み出すべきなのではなかろうか?

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2015年12月 3日 (木)

COP21の表と裏

 パリでは、同時多発テロ事件の直後からCOP21が始まり百数十カ国から要人たちが集まった。トップクラスの会議はたった1日で「大集合写真」を撮って終わったが、そのあとの実務者会議はもめにもめて、延々と続いている。

 最初のトップたちの意見表明では、それぞれ何年までに二酸化炭素排出量をこれこれまで減らす、という目標を掲げて、世界はこぞって地球温暖化への歯止めに協力するべきであると声高にぶち上げた。しかし最もCO2排出量が多い、アメリカと中国は、「開発途上国」によるこれを義務化させようとする法案には賛成しなかった。「開発途上国」の主張は、こうした温暖化をもたらしたのは「先進諸国」であって、いまさらわれわれが経済建設のために必要なエネルギーである石炭や石油の使用を制限されるのは不公平だ、というものである。それに対してアメリカ、EU、中国、日本 など「先進諸国」はかっこうだけは理想を掲げながら、自分たちの「国益」に不利益を招かないよう、義務化を認めないのである。またそれらとは別に、小さな島国の立場からは、1m海水面が上昇すればわが国はなくなってしまう、というきわめて深刻な訴えもあった。
 しかしある日本の学者の分析によれば、この近年CO2増加により地球温暖化が急速に進んでいるという指摘そのものに異を唱える証拠があるらしい。それはここ10年以上、詳しいデータを見ると必ずしも地球は温暖化しているとは言えないということと、太陽活動や地磁気活動の影響の方がCO2の影響より遙かに大きいということも言えるかららしい。彼は、この事実が取り上げられずもっぱらCO2増加による温暖化の危機が声高に叫ばれている現実に疑問を投げかけている。
 ではなぜそうなのか?かって「不都合な真実」とゴア氏が訴えた時には、いまと反対に CO2増加と気候変動は、あまり関連性がないという主張が先進国指導者の間では主流だった。しかしいま、流れはまったく反対になったようにみえ、あたかも世界全体がCO2増加に伴う地球温暖化による気候変動を危機としてとらえているかのような流れが生み出されている。一つには福島の原発事故をきっかけに世界中で高まった反原発運動と再生可能エネルギー指向が高まったことや、世界経済を「牽引」するようになった中国での猛烈な大気汚染が深刻な状態となったこと、世界中で起きている気候変動などによって世の中の流れが大きく変わったことによると思われるが、これによって一方ではCO2発生源である石炭や石油を産出する国々は稼ぎが激減するし、他方では原発をこれから主要なエネルギー源にしようとしている国や、原発技術の輸出で稼ごうとしている国もそれを「ビジネスチャンス」ととらえながらもおおっぴらには言えない立場に立たされることになった。こうしたさまざまな思惑にも関わらず、「世論」に訴えて政権を維持するためにはこの流れを無視することはできずむしろこれに迎合しているのであろう。一方その「世論」の方もマスコミやネット情報などに煽られて思考停止状態に近いのだ。
 その混乱の裏には、もはやこれ以上「経済成長」と称して無駄なモノづくりや無駄なエネルギー消費を増やすことで成り立つ経済体制そのものが限界にきているという事実への無視がある。「経済成長」が誰のための「経済」であり、誰のための「成長」なのか、その真実を直視しようとしない現支配者たちの立ち位置があるからだ。「経済成長」は企業の利益を増大させ、新たな雇用を生み、国家はその税収で潤い、国家的事業を行いやすくなる、という「成長モデル」はもうとっくの昔に崩壊している。「成長」により潤うのは労働者の労働を陰に陽に搾取し、そこから得られる巨額の富を、市場でのつぶし合いを通じてたがいに分配し合うことでその支配権を維持し世界経済を支配している連中なのであって、それは働く人々の手には決して戻って来ない。
 働く人々はこれまで「経済成長」下で「消費者」として祭り上げられ「モノにあふれた豊かな生活」に埋没させられて、気がつけば老後の生活は先細り、そして次世代の生活も不安定でままならないという現実に青ざめる。さらにその上、「経済成長」の落とし子である原発の事故や大気汚染、気候変動による災害にみまわれ、これまで築き上げた生活も根本から崩されてしまう可能性もある。そしてさらに支配階級による「経済の失敗」から来る恐慌や不況で職を失う危険も常にある。
 こうした事実を踏まえて、いまのCOP21での混乱を眺めてみると、そのスローガンがいかに「虚偽の正義」であるかが見えてくる。
 地球と人類を救うためには、何よりもまず、資本による馬鹿げた市場競争と「経済成長」に歯止めを掛けることが必要なのではないか?

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