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2015年1月25日 - 2015年1月31日

2015年1月31日 (土)

ピケティーは21世紀の資本を論じながら資本論を読んでいない

トマ・ピケティーの「21世紀の資本」がベストセラーになっているようだが、この高価な本を買ってこれを読むべきかどうか迷っている。この本は英語版が出版されたときから評判になっており、知っていたが、その内容は約200年にわたる資本主義経済の流れを詳細に分析して、そこから資本主義経済のもとでは格差が生じるのが必然であると結論づけているようだ。 そのこと自体は非常に高く評価されてよいと思うが、それを打開する方策として、世界中で連携して富裕な階層に高額な税を課す法律を作るべきだという提案をしているらしい。要するに、ピケティーは、資本主義経済が必然的に格差を生むという事実を検証しながら、なぜそうなるのかについて、深く掘り下げていないようだ。だからこんな単純でつまらない提案を結論としてもってきているのだろう。

 彼は資本主義経済の矛盾を曝きながらも、おそらくマルクスの資本論を理解していないし、まじめに読んでもいないのだろう。
 今朝のNHK-TV「週間ニュース深読み」でもピケティーの本が採り上げられていたが、ここに集まっていた人たち(社会的な識者と言われるような人たち)の間では、いわゆる「トリックルダウン」つまり富裕層が儲かればそのおこぼれが下層階級に落ちてきてみんなが潤う、という考え方を基本的に認め、要はちゃんとおこぼれが庶民に行き渡るようにすれば良いんではないか、と捉えられていた。そこでは、「格差」とはある意味で当然社会にはあるものであって、頑張って努力した人は怠けていた人より豊かになって当然だ、しかし、問題はその格差が「機会均等」を妨げる場合に、最初から格差のもとに置かれ、いくら努力しようとしても報われないことが見え見えの状態があることが問題なのだ、と捉えられていた。また経済の成長は雇用を増やし働く人々の収入を増やすのでどんどん進めるべきだが、その成長の成果が納得の行くように配分されるべきなのだと捉えられているようだ。
 これはいまの「社会常識」なのかもしれない。だが、実はこうした「社会常識」に隠されて見えないが、その深部にもっともっと重大な問題がこの「格差社会」の現実に存在する。
 それは資本主義社会が歴史的にどのように形成され、そこで資本がどのような過程で社会経済を支配してきたかを見れば分かる。安く買って高く売るという行為によって蓄財してきた商人的資本家が、地域産業であった家内手工業を、「売るためにつくる」商品生産の場として掌握し、職人的技術を分業化し、効率よくモノを生産できる工場をつくり、そこでつくり出されるモノを商品として広く市場で大量に売ることで蓄財するようになった。その一方で農民から農地をただ同然で取得し、そこに羊毛産業などの牧畜や商品作物を生み出す場をつくりだすと同時に、農地から閉め出された農民達を都市周辺の工場に労働者として吸収し、「近代産業」の土台をつくっていったのである。
 こうして、社会のために生産的な労働を行う人々は、その生産的労働の成果を商品として売ることで蓄財する資本家のもとで彼らの意のままに働かされる階級となっていったのである。しかもそれは契約の上で労働賃金を支払うという形で、雇用する資本家と雇用される労働者があたかも対等な関係であるかのような外観を持った社会をつくっているため、もっとも基本的な階級関係が見えない社会なのである。
 このようにして形成された資本主義社会はその後、さまざまな発展段階を経て、社会的には直接的生産労働以外の、さまざまな資本主義社会特有の分業形態による社会構成を生みながら今日に至っている。そして働く人々が生み出す社会的富は資本家を中心とした支配層に集中し、それが再び利益を増やすための投資に振り向けられる。だからここでは いわゆる「経済成長」は資本の成長を意味する。
  こうした資本主義社会の存立条件における矛盾を見失うと、ただ「富の配分」だけが問題とされ、その背後にある社会変革への契機を見失ってしまうことになる。
 ピケティーや「深読み」に集まった「識者」たちは典型的なその例であると言ってよいだろう。ここではあまり長々とは書けないので、追って、何回にも分けて順次現代資本主義社会の矛盾をマルクスや宇野弘蔵の理論に従って分析しつつ、資本主義以後の社会への展望を考えて行こうと思う。

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2015年1月27日 (火)

集団的自衛権の法制化が始まる

イスラム国による人質テロに対する安倍政権の対応はほぼ予測通りのものだった。そして人質一人が殺害された。先日のNHK-TVでの安倍首相生出演インタビューでは、やはりどうもこの問題を集団自衛権の法制化と結びつけたがっているように見えた。

われわれがほとんど知らぬ間にジブチに自衛隊の拠点を構築拡大し、ペルシャ湾を通る石油タンカーを機雷から護るための機雷除去活動を法的に認め、そしてそのさきに「国民の生命を守り、国益を護るため」自衛隊の中東に於ける米軍を中心とした「有志連合」軍の後方支援を行うことを法制化しようというのだ。
 安倍首相は、むしろ今回の人質テロ事件はひとつのチャンスととらえたのだろう。そしておそらくこれがひとつの突破口となって、自衛隊の海外における軍事行動が合法化され、それを既成事実として憲法9条の改定に向かおうというのだろう。
 そうなるとイスラム国やアルカイダから日本国内がテロの標的になることも充分考えられ、今度はそれに必要な政府による情報の統制や人の動きの管理が厳しくなるだろう。ますます「ものいえばくちびる寒し...」という世相になっていきそうだ。
 今朝の朝日新聞にフランスの極右政党「国民戦線」党首、ルペン女史のインタビュー記事が掲載されていたが、ルペン女史は、移民問題やテロリスト問題に触れ「私たち」というアイデンティティーを明確にし、「私たち」とそれ以外のものの区別をはっきりさせることが必要である、と述べ、いまの日本の政策や法制をそういう意味でフランスが見習うべきと高く評価していた。
 このことは決して喜ぶべきことではない。各国の支配階級によるご都合主義的「アイデンティティー」が結局はそれらの対立を誘導し、やがて戦争に導くことになるのは過去の歴史が明確に証明しているではないか。「歴史を学ぶ」とはそういうことではないのか? まもなく行われる安倍首相による、戦後70年における日本に関する首相談話に注目しよう。

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