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2015年12月13日 - 2015年12月19日

2015年12月18日 (金)

戦争を生きた芸術家たちの実像に思う

 先日NHK TVの歴史番組「英雄たちの決断」で画家の藤田嗣治について論者達がその実像をえぐり出していた。また今朝のNHK BSでは指揮者の近衛秀麿氏に関するドキュメンタリー風の番組を放映していた。両者とも第2次世界大戦の渦中で当時国際的に活躍していた日本の芸術家たちがどんな立場に置かれどう行動していたかを描いたものだった。特に後者の近衛秀麿に関する番組は取材も実にしっかりしており、近来になく見ごたえのある番組であった。

 藤田は戦前日本の美術教育にあきたらずフランスに渡って、当時のモダンアート最前衛のパリで多くの芸術家たちとの交流の中で「裸婦」などで彼独特の画風を打ち立て、脚光を浴びた画家であったことは誰でも知っているだろう。しかし、この番組では彼が戦争直前に帰国し、その後日本が戦争に突入する中で、国策に沿った戦争絵画に手を染め。「アッツ島の玉砕」で当時大評判になったことを中心に番組では論者たちが見解を述べ合った。「アッツ島の玉砕」は決して単純な戦意高揚絵画ではなく、さまざまな要素が入り交じった作品であり、見方によっては戦争への批判ともとれる面もあったが、軍部はこれを容認した。そして藤田は敗戦後、人々から戦争協力芸術家の汚名を着せられ、日本を逃れフランスに永住した。藤田自身さまざまな顔を持つ人物で、なにか思想的にしっかりしたものを持っていたというよりも、絵画表現そのものの「「手応え」に敏感な人であったということの様だった。
 一方、近衛秀麿の方は、天皇家に近い貴族名門の出身で、兄は日独伊三国同盟を結び太平洋戦争の口火を切った政府で内閣総理大臣だった近衛文麿である。少年の頃から音楽家をめざし、やがてドイツに留学し、西欧のクラシック音楽をまたたくまに吸収して西欧でも当時名を知られるような指揮者になった人である。彼は第2次大戦勃発後もドイツに留まり、豊富な人脈をバックにヒトラー政権下で精力的に音楽活動を続けたが、ナチス政権が押し進めるユダヤ人排斥運動の中で、同僚の演奏家などで活躍しているユダヤ系の人々が迫害されるのを放っておけず、彼らの救援や国外逃亡を助ける側についた。同盟国である日本人という立場と日本外交官との繋がりをも駆使してかなり危ない橋を渡りながらユダヤ人援助を続けた。そして終戦とともにアメリカ軍によって収容され尋問を受けた。しかしそこでナチス政権下でのユダヤ人救援活動が認められ、戦犯とならずに解放され日本に帰国できた。
 こう書いただけでは彼らの内面がなにも浮かび上がってこないだろうが、藤田も近衛もその内面の葛藤はかなりなものであったと思われる。そして共通するのは両者とも戦後になっても彼らの内面を多く語ることがなかったということである。私には彼らの国際的な活躍のまぶしさよりも、このことの方に関心がある。
藤田の方は、高村光太郎のケースにもある種通じる心情で、何も語りたくないという気持ちがそのまま表れているようだが、近衛の方は米国占領下の日本でむしろ自慢してもよいと思われるような行動を敢えて口にしなかった。その心中を察するに、戦争遂行責任者を問われ自死した兄文麿との関係もあり、同盟国ナチス政権下で音楽活動を続けた自分の立場について軽々しく口にはできなかったであろうし、同時にまた、一方で戦意高揚に利用され、他方で戦争がもたらす悲惨な殺戮と破壊の中で呆然自失した人々に生きる力を与えるのも音楽であるという経験の中で、芸術家の立場の難しさを実感していたに違いないと思われる。
 そしていまを考える。ネット社会と言われる情報過多時代にあって、マスコミなどに取り上げられ名前を知られるようになることこそが芸術家として成功する決め手と考える人が多くないか?芸術家をひとつの商品としてしか考えないいまの社会への批判精神もなく有名になれば、きっといつかその世の中に見捨てられ、芸術家としての立場も人間としての価値も否定されることになるかもしれないのだ。藤田と近衛の芸術家としての人生の苦闘への追体験的反省がない限り、真に時代を表現できる芸術家にはなり得ないのではないだろうか?

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2015年12月13日 (日)

危機と混乱の時代への予兆---私たちに明日はない?

 不要なモノやコトを「必要化」させることでむりやり消費を拡大させ、「経済成長」と銘打って、世界中の資源を浪費し労働力を搾取し、それによって生まれた莫大な富は一握りの資本家達やそれを代表する国家指導者や官僚に握られ「国際競争力強化」のために注がれる。悪しき競争は激化するばかりだ。その一方でそれが原因で地球の自然環境は急速に荒廃し、人口が急増し、社会の年齢構成がバランスを欠き、世界全体が巨大な危機に向かって行く。世界中が大きな「負のスパイラル」に巻き込まれつつあるようだ。

 EUではシリア内戦による難民問題をやテロ事件を契機にポピュリズムが台頭し、右翼政党が進出する。アメリカでも潜在する人種、宗教差別が顕在化し、銃の乱射事件や無差別テロが頻発している。世界中でネットやマスコミ上で過激な言説を吐く人物に人気が集まる。そしてこれをチャンスとばかりに政治家や資本家たちがその世情を利用してうごめき回る。
 その中で、安倍政権はインドに原発や新幹線輸出の足がかりをつくり、「インフラ輸出」という国策を打ち出すことで、日本の大資本を後押しする。フクシマへの反省などどこにもない。次は兵器軍事技術輸出への手を打つだろう。安倍は歴史への反省というものがいかに重要であるかを少しも理解しない指導者なのである。またその安倍と同盟を組んだ、かつての「中道左派」公明党もひどいものである。自民党との政権の座を維持するために、高齢者の増加による社会保障に要する予算は貧困層の犠牲を承知の上で消費税のアップで賄うと公言しつつ、次の選挙での得票があやしくなってくると、正義ぶった選挙対策で食料品への軽減税率を主張、そのため社会保障予算は目処が立たなくなった。その一方で自公連立政権は莫大な国家負債を抱え、赤字国債の発行はますます次世代への負担を大きくしている。
 なんということだろうか! このままでは世界全体が経済の大混乱と無意味な民族や宗教間での憎しみ合いの激化による戦争への道を歩んでいるとしか思えない。
 人々はこの不安な時代にそれをまぎらわすために宗教に走ったり、目先の娯楽や遊びに没頭することしかできないのであろうか?それは宗教ビジネスや娯楽観光ビジネスという資本の形成を促すだけであって「負のスパイラル」を増すだけなのだが。
 世界中でその人生を資本の成長のために捧げ尽くされ、使い捨てされている膨大な数の労働者たちが次には戦争で互いに殺し合わねばならなくなるかもしれないのだ。そんなことにならないうちに、すべての労働者が事の真実をつかみ、手を結び合い、本当の敵が誰なのかを知り、それを圧倒する力を持つべきときなのではないだろうか?
 たとえいまは切り離され、アトム化した個人や市民でしかなく「ゼロ」に等しい存在であっても、それが歴史的使命としての階級的自覚をもって団結すれば、歴史を動かせる主体になれるのだ。世界の人口の90%以上の人々が同じ立場の人たちであることを知れば、「国家」や宗教の壁など少しも恐れることはないはずだ。階級的自覚を「国民」という形で覆い隠そうとする支配的イデオロギーに対し、その「左からの」補完思想でしかない「リベラリズム」や「市民主義」には到底望みのツナを期することはできない。民主党や維新の党などがそれだ。「国民政党」に成り下がった日本共産党も同水準としかいえない。
それらの政党がたとえ「国民連合政党」を結成しても同じである。中身は何も変わらないからだ。
 さて、もう人生の残りが多くない私がこのようなことを叫んでいてもしょうがないのであって、次世代を背負う若者達がこうした問題を真剣に考えて欲しいと願うばかりである。

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