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2015年2月1日 - 2015年2月7日

2015年2月 5日 (木)

ピケティーに問う、「格差」とは何か?

ピケティーが資本主義社会と格差の問題を取り上げ話題になっているが、実は彼は資本とは何かということも理解していないし、格差とは何かということにも深い考えを持っていないようだ。

資本については別の機会に述べるが、ピケティーをはじめとしていま言われている「格差」とは何なのかを少し考えてみよう。
 格差とはある同じ測定基準がある場合に、その差をいうのであって、量的な基準がなければ「差」は問題とならないはずだ。では言われている「格差」とは何を基準としているかといえば、獲得するお金の量で測ることに出来る「所得」あるいは「収入」であろう。そのランクの高い人と低い人の差を「格差」というのだろう。
  しかし、ここでは「人間とは何か」という問いは一切ない。だから富裕層からお金が溢れ出て下々の者たちが潤えば「格差」が縮まり、それでいいのではないか、という「トリックルダウン」の考え方が出てくるのだ。これでは奴隷社会であっても奴隷がそこそこ生きて行ければそれでいいではないか、というのとほとんど同じである。
 問題は、支配者と奴隷という「関係」である。そのような関係のもとで「人間とは何か」という問いが忘れ去られてしまっては、社会は絶対によくならない。前にも書いたが、資本主義社会というのは、それが歴史的にどのように形成されてきたかを見れば明らかなように、社会を維持するためにその社会で必要なものを生み出してきた人たちが、その生産手段を奪われ、それが一部の人々によって私有されてしまうことによって生まれてきたのである。そしてその動機は「お金を儲けるため」である。その結果、世の中で生み出されるものはすべて「商品」となり、商品所有者である資本家がそれを売ることによって成り立つ社会ができてしまったといえるだろう。
  資本主義社会は外面的には奴隷社会ではないが、その社会を維持するために働く人々とその人々の働きを市場を通じてお金儲けのために支配している人々がおり、後者が前者を実質的に支配しているのである。そこでは世の中のために働く人々の労働力(能力)までもが労働市場において商品として扱われるのである。俗にいうところの「就職戦線」や「就活」である。
 世の中のために働く人々が、自分の能力をその働きの種類によって発揮することが、いわば社会の中での自分の存在意義となり、「自分とは何か」という自覚を持てるようになるのであって、その個々の人々の「自分とは何か」という自覚の上に「人間とは何か」が理解されるのだと思う。だから個々人の能力には質的な違いこそあれ量的な差や基準はないはずだ。
 しかし、資本主義社会では労働力は資本家の儲けにどれほど寄与できるかで判断される賃金の額という尺度で測られ、高賃金の人はあたかも世の中で重要な存在意義を持っているかのごとく見られてしまう。
 これがいまの資本主義社会での「格差」の根源にある人間観である。稼ぐお金の額で人々が差別化され、そこからは人々が一人一人もっているその人固有の能力を社会に必要な能力として認め合う視点は失われてしまう。人間の能力は単なる商品としてみなされる。これが資本主義社会なのである。
 ピケティーさん、あなたはそのことをどう思うのか?聞いてみたいところだ。

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2015年2月 1日 (日)

とうとう最悪の結果となってしまった

「イスラム国」に拉致されていた日本人人質二人が、安倍首相の中東訪問での対「イスラム国」戦争への間接的支援の意志表明を理由に、とうとう二人とも殺害されてしまった。残念ながら私の予想が的中してしまった形である。

「イスラム国」のこの残忍で冷酷な行いは決して許されるものではない。しかし、この残虐な行為に対してただ、感情を昂ぶらせ「目には目を」で「やつらをぶっ殺せ!」と叫んでみても始まらない。石原さんや田母神さんならきっとそういうだろうし、安倍さんも心の中ではそう思っているかも知れないが、物事はそんなに単純ではない。
 ここでこうした殺人行為の根っこにある問題を考えておく必要があるだろう。後藤さんをはじめ何人もの人質を残忍な方法で殺害している英国人と思われるロンドンなまりの英語を喋る「イスラム国民」は、イギリスで育ち、イギリスでの西欧的価値観・人間観そしておそらくキリスト教的倫理観を学んできたのだろう。しかし、何らかの理由でイギリスでの人生を捨て「イスラム国」に走った。その理由は分からないが、おそらくそこに自分の生きる場所が見いだせなかったからなのだろう。そしてイスラム教というまったく違った価値観と倫理観の世界に帰属することによって、そこに別の人生の可能性を見いだそうとしたのだろうと思う。
 彼は、それまでの自分を否定し、あらたな「教え」に従うことで自分を生まれ変わらせようとしたのだろう。だから、たとえ、抵抗があろうとも「イスラムの教え」に従って人質を「処刑」することで自分自身をも変えていこうとしたのではないか?これは「オウム真理教」などにおいても同様だったと思われる。結果的に彼らは彼らを含めて存在するいまの社会を少しも良くすることができなかったばかりか、「生きる」こと自体を否定することにもなってしまった。
 世の中には「一度人を殺してみたかった」と日頃から考えている人もいるようだが、大体においてそう簡単に人を殺せるものではない。それを「当然のこと」として行える様になるのは、戦場での殺し合いの場か、狂信的信仰という精神的自縛の中にある場合であろう。しかしそれが「慣れっこ」になってしまうと日常的感覚で殺人を行えるようになるらしい。ナチの収容所で日常的にユダヤ人捕虜を大量に殺害していた収容所所員やその上層部でそれを当然のこととして命令していた連中はそうだったのだろう。
 しかし、どの場合も自分の帰属する組織への帰属意識の確認と表明という状況があるように思う。「イスラム国」に忠誠を誓った者とそうでない者、オウムの信者とそうでない者、ナチス政権とドイツ国民に帰属する者とそうでない者、そしてこれはいわゆる「アイデンティティー」という形で組織あるいは国家と諸個人の関係やそこでの自分の存在意義を自己確認させるものと同じ基盤にあるのだ。
 アイデンティティーが悪であると言っているわけではない。ただしかし、そこに含まれている危険な要素を意識しないと、こうした殺人行為を当然のこととして行える人間になりかねないということは承知しておかねばなるまい。

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