« 2015年2月1日 - 2015年2月7日 | トップページ | 2015年2月15日 - 2015年2月21日 »

2015年2月8日 - 2015年2月14日

2015年2月10日 (火)

「アラブの春」の行き着いた先

数年前に中東や北アフリカで始まった、いわゆる「アラブの春」は、当時日本の「識者」たちが「祝祭型革命」とか「インターネットによる革命」と賛辞を表明していたが、いま悲惨な状況に陥っている。独裁者を追い落としたリビアではアルカイダ系などの潜入によって混乱し、エジプトやイエメンでは反革命クーデターなどにより「革命」を牽引した若者たちは困難な状況に追い込まれているし、シリアは反政府運動の分裂や欧米とロシアの駆け引きのすきをぬってISISの侵攻が進み、もっとも凄惨で悲劇的な状況になっている。

 こうした「市民感覚」で始まった民主化や反政府運動は、いわゆる「リベラル派」からみれば拍手喝采の対象なのであるが、私は当時にもこのブログで書いたことがあるが、こうした「リベラル市民感覚」では決して「革命」など成功しないと確信している。そしてやはり予想した通りになってしまった。
ここで革命論を展開する気は毛頭ないが、ひとつ絶対に重要な問題があるのでここに記しておこうと思う。
 それは革命を目指すからにはその対象とする現社会の矛盾をきちんと論理的に把握し、その革命の歴史的使命を自覚することがまず必要である。そしてその現社会のもつ矛盾を、革命を目指す人々自身が一人一人の内部においてまず克服しようとする心構えと、それを一つの組織的な運動としてつくりあげていくことをしなければならないだろう。だからそうした組織の内部ではつねに新しいそしてより普遍的な意味での自由で民主的な関係が確立され、その連帯のもとで革命が計画的に進められなくてはならないだろう。そしてなによりも重要なことは、その新しい自由と民主主義はあたらしい倫理観によって護られていなければならないと思う。その新しい倫理観は矛盾に充ちた現社会の「社会常識」としての倫理観とは一線を画しているものであり、だからといって歴史を逆戻りするような悪しき倫理観や単なる「アウトロー」であってはならない。
かつて学生運動華やかなりし頃、いわゆる「新左翼系」の組織では組織間の闘争や「内ゲバ」という状況が発生し、そこでは「処刑」やテロ的な行為が行われた。これはある意味でいわゆる市民感覚を自己否定するという意味をもっていたのであろう。そしていまそれとはまったく異なる思想にもとづき「革命」を目指す集団であるISISやアルカイダなどでも残忍な殺戮や「処刑」が行われている。これは、たしかにある意味で現社会の社会常識と異なる人間観(宗教観)に基づく行為であるのだろうが、それはまさに歴史の逆行であり、決して新しい歴史的な普遍性を持ちうる倫理観ではない。もちろん本来のイスラム教とは相容れないものであろう。彼らが目指す「革命」は決して未来において歴史的普遍性を獲得することのできないものであると思う。
 「リベラル市民感覚」についていえば、自らのもつ市民感覚が実は現社会の支配的イデオロギーに内在する実存なのであり、その意識のままでは決してわれわれが住む社会のもつ本質的な矛盾を理解できないだろうし、その「市民感覚」がもつ歴史的は限界を自覚することもできないだろう。そしていまの社会の矛盾の否定(それは自己否定でもある)の上に現れる新しい自己意識それもしっかりと歴史的必然性の洞察に踏まえた新たな実存(マルクス的にいえば階級的自覚) をいまこの場所に生みだして行くには、それを保証し拡げて行ける場としての組織がなければならないだろう。そしてその組織そのものが新しい社会の胚芽なのだと思う。「革命」は武力闘争やテロリズムで生み出せるものでは決してなく、「祝祭的デモ」などだけからも生み出せるものはではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年2月1日 - 2015年2月7日 | トップページ | 2015年2月15日 - 2015年2月21日 »