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2015年2月15日 - 2015年2月21日

2015年2月18日 (水)

「資本」について考える(その2:資本主義的分業の構造)

つぎに、資本主義社会における労働者の現在について考えてみよう。

 前にも書いたように、現代資本主義社会の労働者は、マルクス当時のそれとまったく外観も異なり、生活ぶりも異なっている。それはマルクスの時代以後、資本の蓄積と共に日々資本を生み出し、増大させ、うまく回転させるための社会的仕組みが進み、さまざまなタイプの分業種が生み出されていったことによる。
 まず直接的な生産過程自体が分業化され、そこに雇用される生産労働者はエンジニアなどの頭脳労働者と現場でモノをつくる製造労働者に分かれ、さらにつくりだされたモノを商品として販売し、流通させるための販売流通部門がつくられ、資本家の「お金」の動きを管理する財務部門が整備され、労働者の雇用や地位賃金などを管理する労務管理部門も拡大し、資本家に資本を融通し、遊休資本を有効利用することを助ける金融企業が拡大されていったことなどにより、それぞれに雇用される分業種としての労働者が生み出されたのである。
これらはある場合は巨大化するひとつの企業組織として、ある場合は分離した別の企業として、それぞれの資本家が管理運営することになった。
 こうした資本家的企業に雇用される労働者も、ブルーカラー、ホワイトカラーなどという種別で捉えられ、さらには資本家の意志決定に直接寄与する部門の労働者は「高給労働者」として扱われ、現場の労働者に対してそれを管理する立場に置かれるようになる。つまり労働者が労働者を管理するのである。
 その一方で、資本家自体も変遷し、個人の「人格化された資本」から、企業の経営資金を提供するグループや金融機関が経営権を握り、いわゆる経営陣、つまり「組織としての人格化された資本」を形成するようになっていった。そしてその中で経営の意志決定を行う執行部門と実務に直接関わらないが資金を提供することで間接的な発言力を持つ部門が分かれ、執行部門の代表者が「社長」と呼ばれることになっていった。
 こうして労働者側も資本家側も分業化が進むと、外見上はだれが資本家でだれが労働者なのか判然としなくなっていく。そこにその表層的外見からだけ捉えた新しい階層表現として「富裕層」「中間層」「貧困層」という言い方が生まれてくるのである。
 民主党が主張する「分厚い中間層」は、戦後日本の資本主義社会が、かつての財閥が解体され、ゼロ・リセットを掛けられたことから出発したことによる、その資本の成長過程の一時期で生じた新興資本家の急成長と、それにともなう労働力不足、そして海外の労働賃金水準よりはるかに低い労働賃金による輸出競争力、そして外貨の固定相場制、アメリカ型の消費駆動型産業構造の導入などが要因となり、労働者階級の生活が一見「豊かになった」と思わせる時期があったことをイメージしているのであろう。
  しかし、この「分厚い中間層」を形成した人々は、戦争から生き残って帰還した兵士やその子供達、地方の農村から生活苦で都会に働きに出た若者達などで構成されており、中には自ら起業し、資本家となった人々や大企業の経営陣に加わった人もいたであろうが、大部分は、それらに雇用されて働く労働者階級であったといえるだろう。そして彼らが「高度成長」の基礎となった価値の生産を行い、そこから受け取った賃金の大半を、「クルマ」「家具」「家電設備機器」「家」「土地」などを含む高額の生活資料商品のために(多くの場合、金融資本に利益をもたらすローンという形で)どんどん支払わされ、結局その貨幣を資本家達に再び環流させられ、資本家たちの新たな投資や利益増大を助けることを行ってきたのである。それがいわゆる「経済成長」の原動力となった。そしてさらにその賃金から取られる税金や年金基金によって労働者としての「商品価値」がなくなっても生きていくための資金を「年金」などとして積み立ててきたのである。
  これは要するに、生活資料そのものが高くつく社会に生きることによって一見高額な賃金も実はほとんど生活資金として消えていくものに過ぎなかったということである。そこに残るのは消費欲を駆り立てられて次々と買い換えさせられたモノたちの残骸と空虚化した精神の穴を埋め合わせるためのエンタテーメントやゲームだったりするのだ。しかもそうした社会的「浪費」の挙げ句に地球環境の汚染やエネルギー不足などという地球規模の問題を生み出しているのだ。これがいわゆる消費駆動型資本主義社会の実像である。
 そして知っての通り、いまやこうした「分厚い中間層」の幻覚はそれ自体「ゆめのまたゆめ」となってしまい、現実は、安倍政権が「この道しかない」と叫んで資本家専制的経済政策を打ち出す中で、多くの労働者階級が自分たちの子供や孫の世代への希望をつなぐことをあきらめねばならない状況に陥っているのである。
(その3へ続く)

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2015年2月16日 (月)

「資本」について考える(その1:労働力商品)

 ピケティーの「21世紀の資本」が話題となり、「格差社会」が話題となっているいま、もう一度、資本とは何かについて考えてみようと思う。前にも書いたようにピケティーはマルクスの資本論をきちんと読んで理解していないと思われる。だから彼の考える「資本」とは所得や財とほぼ同義語であろう。そして「格差」はその所得や財の量における差を示していると思われる。

 もちろん、かくいう私も資本論をきちんと理解しているとは言いがたいかもしれない。しかし、私の理解する限り、マルクスが指摘し、解明しようとした「資本」はピケティーのそれよりはるかに巨大な力と論理で人類を支配している実在である。その力は人間の実存そのものをも規定し支配するものであり、その論理は人類社会の在り方そのものをも支配する「法則」をもって日々実現されているのである。

 資本主義社会はマルクス当時のような階級社会でなくなり、その後、より民主的で自由な形に姿を変えたなどと思うのはあまりに浅薄であり、その資本主義的「自由と民主主義」において一部の資本家たちが我欲に走ったため格差社会が生じていると考えるのは見当違いであろう。

 マルクスは資本論の冒頭で「商品」の分析をしている。このことはかつて「端緒的商品」の問題として資本論研究者の間で論争になったことがある。それはここで述べられているような商品所有者の世界が歴史上現実にあったものか、そうでなくこれは論理の展開上設定されたものであるのかという論争だったといってもよいだろう。この背後には過程的弁証法と場所的弁証法の関係という論理上の問題があるのだが、これはマルクスが「経済学批判」の冒頭の部分で述べている分析の方法に拘わる問題である。マルクスは経済学の分析における下向的分析と上向的総合という二側面について述べており、これはいわゆる存在の弁証法に拘わる問題である。これについてここでは詳しく述べることはしないが、資本論全体を貫いているマルクスの分析における方法論的骨格を理解しようとすることは必要である。
 マルクスにおいて、資本論の冒頭で分析される商品は「労働力商品」化された労働者が自身の実存を自覚するために必要な端緒的契機なのだと思う。だからそこで展開される価値論は、実は歴史上、商品やその価値を表示する貨幣がどのようにして生まれたのかという問題ではなく、価値を生む源泉である労働力が商品として資本家により価値を算定され、それがその人間の社会的存在意義を示すものとなっている資本主義社会での原基形態(Elemental Form)としての商品が分析の対象とされているのだ。
だから資本論では歴史上どのようにして商品が成立し、資本が登場したのかという問題を背後に孕みながらも、その過程の結果である眼前の現実とそこにおける自分自身を支配している資本の論理を商品の分析から説き起こそうとしているのだ。存在の論理は生成の論理を包含するからである。
 資本論での商品分析の過程でリンネルと上着の交換などを例として展開される価値形態論は理解するのが簡単ではない。相手の所有するものが欲しく、自分の所有するものと交換してそれを得ようとする際に、相手の商品(例えば上着1着)が自分の所有するリンネル何ヤールに相等するかを考えることになるが、その場合、相手の所有する上着1着の価値は自分の所有するリンネルの一定量(例えば 20ヤール)と等価形態にあり、自分の所有するリンネルの価値はその上着1着に対する相対的価値形態となる、というくだりである。この等価形態と相対的価値形態の関係からあらゆる交換の場に適用できる等価物としての貨幣が生み出され、商品の交換が貨幣を媒介とした使用価値と交換価値の関係として成立して行くことになるとともに、貨幣が万能の力を持つものとして物神化されるのである。それがあらゆる過去の労働の抽象的な成果を表象しているにも拘わらず。
この商品の論理の原型が、実は、資本家から見た労働力商品としての価値と労働者の側から見た彼の労働が生み出す価値の関係を理解するための土台となるのである。労働によって生み出された価値をもつ商品同士が価値の等価物としての貨幣を媒介として交換され、「価値を産み出す商品」としての労働力が、労働賃金という価値の貨幣形態を媒介として、労働者自身それを維持するために彼らの生み出したはずのモノである生活資料商品と「等価交換」される。しかし実際には、労働者はそこで等価交換された価値よりも多くの価値を生み出す。資本家はその「等価交換された価値よりも多くの価値を生み出す」という事実を労働者の使用価値と見なすのである。そこで見事に「商品の等価交換」という資本家的イデオロギーによってその存在が覆い隠される剰余価値こそが資本の源泉なのである。労働者は自ら働いて生み出す価値によって自らの存在を資本家に隷属して生きねばならない「賃金奴隷」として再生産する立場に置かれ、資本家は、自らの手中にある生産手段を含む財に労働力を結合させ価値を生み出させることによって自らの財を増大させながらつねに社会的労働全体を支配し、その資本主義的に合理化され分業化された労働内容における目的意識そのものまでをも資本に従わせるのである。これが資本主義社会の「原理」なのである。だから資本主義社会の労働者階級は、社会的必要労働の一環としての労働を行いながら、それを資本としての価値増殖の一環として行うことになる。
 だから資本主義社会においては、当然、つねに資本蓄積の人格化である資本家階級が富裕化し、社会のために汗して働く労働者階級がその賃金奴隷として貧困化するのである。これはピケティーのいうように富裕者への高額課税によって格差が是正されるといったレベルの問題ではないのである。
(その2に続く)

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