« 2015年2月15日 - 2015年2月21日 | トップページ | 2015年3月8日 - 2015年3月14日 »

2015年2月22日 - 2015年2月28日

2015年2月26日 (木)

「資本」について考える(その5:グローバル資本の論理と実像)

Mizzさんからコメントを頂いた。資本論購読会で第1巻第7篇第24章の「本源的蓄積」を読んでおられるとのことである。資本論のこの章では、近代資本主義社会が生まれてきた歴史的経緯、つまりその「誕生の秘密」が曝かれている。これを読む人は必ずやその実証的分析の確かさ(mizzさんがおっしゃるとおりピケティーはここには触れていない)とともに、あまりに残酷非道なその過程の事実に衝撃を余儀なくされるだろう。私もそうだった。

 マルクスはこの章の終わり近くでこう述べている「資本主義的生産様式の「永遠の自然法則」を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会の生産手段と生活手段を資本に転化し、反対の極では、民衆を賃金労働者に、自由な「労働貧民」に、この近代史の作品に、転化することは、かくも労多きことだった。もし貨幣が、オージェの言うように、「頬に自然の血痕をつけてこの世に生まれる」ものならば、資本は頭から爪先まで、毛穴という毛穴から、血と脂とを滴らしつつ生まれるのである。」(向坂訳岩波版「資本論」p.948より)

 そして「発生の論理は存在の論理」なのである。つまりその残酷非道な資本主義社会生成の論理はいま日々繰り返され新たに生み出される資本の論理そのものでもあるのだ。いかに「自由と民主主義」を掲げようとも、表面的な「豊かさと平和」によって、その生い立ちを隠そうとも、やっていることは相も変わらず残酷非道な労働の収奪なのである。
 戦後まもなくは日本やヨーロッパの国々のような戦争で破壊され尽くした地域での生産再開が、資本発展にあらたなリセットをかけ、非常に効率的なペースで資本を増殖することができた。しかしそれは一方で社会主義圏という非資本主義勢力の存在とその自国労働者への影響を資本家たちが配慮した形となり、労働者階級は賃金や社会保障などの面で一定の権利を獲得することができた。 それが「豊かな中間層」といわれる階層を生み出した。
 しかし、社会主義圏がその指導部の理論と実践に於ける誤りから崩壊してしまった後、21世紀の資本は、もはや何の危惧や配慮もする必要がなくなり、あからさまにグローバルに労働の収奪を再開したのである。
 資本はいまや地球全体を労働搾取の場と化し、その大地や自然までをも含めて支配し、「自由な市場競争」の名の下に、次々と「後発国」の民衆や農民を低賃金で過酷な労働に吸収し、同時に資源の浪費や自然の破壊を加速している。
 いま「先進国」の資本間での競争は、世界中で技術革新により「合理化」された生産現場に低賃金で過酷な労働を結合させることで生み出される莫大な過剰資本をいかに回転させ、そこからいかに多くの利潤を獲得し、それを私有化(個人だけではなく法人や企業という形での私有を指す)できるかという、止めることのできない危険なゲームに熱中しているのである。
  このゲームに勝ち抜くために、グローバル資本は価値の源泉である労働の搾取を効率よく実現し、熾烈な競争に勝ち抜くために、まず、消費駆動型経済体制のいわゆる「先進国」の人々の生活資料となる商品をいかに安くつくり大量に売りまくるかを競い合う。そこで労働力の安く手に入る国々を探す。そのターゲットとなった「後発国」の人々は、そうした「先進国」への生活用品を主とする輸出商品をうみだし利益を獲得しようとする資本家たちが導入した生産手段のもとで、生活を維持するために過酷で低賃金な労働に従わなければならなくなる。「後発国」の資本家たちはそれによって莫大な利益を得つつグローバル資本の再生産の一環を担うことになる。
「先進国」では、市場に現れる生活資料商品の多くが「後発国」からの輸入品となり、安い生活資料を買うことができるようになるとともに、それらの生活資料を生産する労働が国内から失われていくことにより、国内の分業(職業)構成が激変していく状態に晒される。長年習熟してきた仕事はなくなり、企業の倒産と失業が続く。そうした中で、人々の生活のあらゆる場面が「ビジネスチャンス」と捉えられるようになり、あらゆる「サービス」がビジネス化され、生活のすべてが「儲け」の対象となり、新種の資本家的企業が台頭する。失業者はそこに吸収され、慣れない労働の場で働かされることになる。そして直接生産に関係のない、つまり価値の生産に関係のない職業が「花形」とか「儲け頭」としてもてはやされるようになる。これを支配層の人々は「雇用の増加」「ゆめの実現」と宣伝する。
 しかし、その一方でこうした新興資本家間での競争が激化し、そこで働く労働者の立場はどんどん悪化する。こうした状況で生活資料の低廉化がもたらすものは、労働者の低賃金化あるいは低賃金固定化の根拠となり、非正規雇用労働者の激増による労働者間の連帯の切り離しと権利の抑圧が公然と進められ、労働者たちはその権利を主張する場を失うことになる。そしてこの機に乗じて儲けた「富裕層」や「中間層」と、こうした新興企業で働く孤立化した労働者たちの賃金の格差はどんどん大きくなっていく。
 いわゆる「先進国」欧米ではこうした国内労働者の賃金における格差が、旧植民地からの移民たちなどに代表される下層労働者と欧米人が主の富裕層・中間層との格差として現れている。しかも彼らはつねに社会から疎外された存在に追いやられている。グローバル資本の支配する世界で、「そうでない別の社会」を目指して「イスラム国」への西欧諸国からの若者の流入が止まらないのはそのためであろう。しかしそこではまるで中世の世界が再現されたかのような厳格な教義と恐怖のもとで残酷な破壊と殺戮が行われる。西欧圏から流入した若者たちは、残酷な処刑執行人とさせられ、その信仰心を試される。悲劇である。そしてこれもグローバル資本が生み出した一つの現実である。
 こうして、いまでも資本は世界中で「頭から爪先まで、毛穴という毛穴から、血と脂とを滴らし」ながら増殖し続け、それによって地球を破滅に追い込みながらそのゲームを止めることができなくなっているのである。
これを単なる「格差」問題で片付けられると考えるのはあまりに安易ではないのか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月24日 (火)

「資本」について考える(その4:「市民」革命の母国フランスとは?)

 資本の存在の論理とその実像について述べてきたが、ここで「21世紀の資本」の著者である経済学者、ピケティーの住む国であり、「自由と民主主義」を掲げたかってのフランス「市民(Bourgeoisie)」革命の母国であるフランスについて考えてみよう。

 フランスはカトリック教国である。そして17世紀〜18世紀の重商主義から始まる近代資本主義社会の母国でもある。途中、イギリスに産業資本主義時代の王座を譲ったが、20世紀の二つの世界大戦にも戦勝国となり、アルジェリア、西アフリカ、インドシナ半島、インド洋、太平洋、カリブ海などに、重商主義時代を中心とした近世の激烈な植民地争奪戦で獲得した多くの植民地を保持し続けた。第2次世界大戦後はインドシナやアルジェリアでの独立戦争に敗北し、アジアやアフリカの植民地の多くを手放したが、いまだに旧植民地からの移民労働者たちによってフランス社会の底辺は支えられている。
 そして先日のシャルリー・エブド事件である。ムスリムを揶揄したイラスト本を発行していた出版社がイスラム過激派のテロリストに攻撃された。フランス全体がこれに対して「表現の自由を護ろう」「私はシャルリー」というスローガンで団結し、EU首脳やパレスチナ首脳まで参加した大デモンストレーションが行われた。そしてその後も、引き続きムスリムへの揶揄が継続したため、フランス国内のイスラム教徒たちは激しく抵抗した。彼らは「表現の自由」の名のもとに自分たちの宗教的信念の支えを傷つけられたのである。
 フランスでは、カトリックにもとづく祝祭日が休日として定められたているが、フランス国民の多くの部分を占めるイスラム教徒の移民たちはそれに抵抗を感じており、その休日を変更できるような法案を提出しようとした。しかしそれも大きな抵抗を受けている。
 フランス社会はいわゆる「中間層」やブルジョア階級を中心とした「リベラル・グループ」が力を持っているが、かつての植民地から移住してきた大量の移民を中心としたフランスの底辺を支えている下層労働者階級は常日頃から暗黙の差別に置かれている。その状況に将来への夢も希望も失い、イスラムの世界へ回帰しようとする動きが起きており、一方でそれに反発する移民排斥を訴える極右グループの登場が目立っている。
 また、フランスは原発大国であり、ハイテク兵器や核技術の生産・輸出国でもある。ダッソー社が開発し売りに出しているハイテク戦闘機「ラファール」が先日エジプトへの大量輸出契約を得た。そしていまインドにもより大量な輸出契約を試みている。こうした「死の商人」としての高額な武器商品や原発技術の輸出には国のトップが先頭になって「トップセールス」を行っている。その国のトップであるオランド大統領はなんとフランス社会党出身である。しかもいまやまったく変わり果て無力化してしまった社会主義インタナショナルの副議長を務めたこともあるそうだ。
 これが「自由と民主主義」の祖国、ヨーロッパ資本主義の「良心」とも言われるフランスの実態である。ピケティーは、こうしたフランス社会の現実を税制改革による「革命」で乗り切ろうというのであろうか?マルクスなら決してそのようなことは言わなかっただろう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015年2月23日 (月)

「資本」について考える(その3: 「格差社会」の進展)

 こうして戦後の一時期日本の資本主義社会が「高度成長」を遂げ「経済大国」となって「分厚い中間層」を生み出してきたことがいわば「あるべき日本社会のモデル」と見なされ、それを「取り戻す」ことがいまの政治家達の目標になっているように見える。しかし、その底流には、落ち目の日本に「誇りと自信」を持たせ、「毅然とした」外交姿勢で「国益」を護る(憲法改定による国防軍の創設に直結する思想)、という思惑があると思う。そして残念ながら多くの労働者たちもこうした思惑に流されつつあるように見える。

 ピケティーの功績は、こうした「あるべき日本社会のモデル」が幻想に過ぎないという事実を突きつけたことであろう。これは200年にわたる近代資本主義社会の展開における一時的エピソードに過ぎず、実は資本主義社会発展の歴史全体としては、資本家階級と労働者階級の間に横たわる溝は深まるばかりなのだ。資本論をおそらくまじめに読んでいないピケティーにはこれが「所得格差」の増大と写ったのであろう。
 しかし、ここで最大の問題は、かつて20世紀前半に資本家階級と労働者階級の溝が極限まで深まっていったときに労働者階級には、社会主義運動というバックアップがあり、その国際的な高まりが、資本家階級を窮地に追い詰めていた。残念ながらそれは当時の社会主義運動の指導部の決定的誤りが大きな要因となって第2次世界大戦という悲惨な結果をもたらしてしまったが、その後戦後のいわゆる「冷戦時代」にも社会主義圏の存在が資本主義社会にとって大きな脅威になったいた。そのような状況の中で初めてケインズ型資本主義社会が生まれ、労働者階級への「格差増大」を防ぐことが政治的課題となっていったといえる。そしてそうした状況がいわゆる社会保障の充実という政策を打ち出させ、それを保証するための「消費駆動型」資本主義経済(これは資本主義経済のひとつの矛盾であるが) を生み出したといえるのである。
 ケインズ型資本主義体制に始まる「消費駆動型」経済はそののち社会主義圏経済の引き続く失敗を背景に新古典主義者などによる「新自由主義経済」を生み出しながら、徐々に本来の資本主義社会の姿に回帰していった。
そして20世紀末の社会主義圏の崩壊の後、それは、「資本主義社会の最終的勝利」と受け止められ、資本主義社会こそが「ワールドスタンダード」であると受け取られるようになっていったのである。それは一方で崩壊した社会主義圏を資本の市場に巻き込み、資本の「グローバル化」を生み出した。その中には鄧小平の「改革開放政策」により資本主義経済を導入した中国も含まれることになった。
 こうして資本は再び全世界を覆い尽くし、そこでは軍事技術開発などを引き金として驚異的な速さで進んだ「技術革新」によって生じる莫大な相対的剰余価値の増大とその蓄積であるグローバルな流動過剰資本が金融資本などを通じて世界中を動き回り、次々と、低賃金労働の国々がターゲットとなっていった。
その中で、日本もかつてのような「モノづくり」を中心とした価値生産国としてではなく、アジアや中南米、アフリカなどでの低賃金労働者が生み出す膨大な剰余価値を激しく奪い合う国際市場競争に投げ込まれ、モノをつくるのではなく、資本の輸出(投資)によるその見返りによって経済を成り立たせる国へと変貌していった。そしてそのなかで、資本を持つ者が急速に蓄財し、持たざる者は急速に貧困化していき、当然のこととして所得の格差が拡大していったのである。
その中で資本家代表政府である現政権は、「格差」を縮めるための資金と称して、社会保障をカットし、労働者の生活費から取り上げる税金を増やし、法人税を減税し、労働者の立場を護るための雇用や労働形態などに関する規制を破り、労働者から剰余価値を思い切り収奪しやすくさせることによって資本家たちを太らせ、企業への「賃上げ要請」などという形でそのおこぼれを貧困層に分け与えさせようとするかのようなポーズを取って誤魔化そうとしているのである。
 いまこの「格差」の階級的根拠を論じる識者はほとんどなく、もっぱら税制による改善を現実的な課題として論じることが風潮になっている。
だが本当にそれで良いのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年2月15日 - 2015年2月21日 | トップページ | 2015年3月8日 - 2015年3月14日 »