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2016年3月 7日 (月)

「安倍イズム」の危険な本質を突く

 いまマスコミは何か異常なほどスポーツを大きく取り上げる。2020東京オリンピックがあるという事情がこれに拍車を掛けている。というか、こうしたスポーツ・キャンペーンはオリンピック招致も含めて安倍政権にとっての重要な国策のひとつなのだ。

それはスポーツほど「愛国心」を育てるのに良い手段がないからである。中国や韓国への「歴史認識」をめぐっての危機の扇動もそのひとつであるが、これはつねに経済的、軍事的危機を呼び起こすハイリスクを伴う。しかしスポーツはそれがなく、皆が抵抗なくこれに引き込まれるからだ。
 安倍がなぜ「愛国心」を育てようとするのか?それは一方での「行きすぎた個人主義」への安倍的反省があり、これは「愛国心」とともに「家族主義」の強調にも現れている。
 
ここで歴史上忘れてはならない事実を思いだそう。マルクスがかってイギリスを中心とした資本主義社会の発展とその矛盾について分析し、悲惨な状況にあった労働者階級は、個人の利益と公共的な富の私有化を基礎とした資本家階級の支配から解放されるために国境を越えて団結し、社会を働く者の手に取り戻すために闘うべきであることを共産党宣言に盛り込んだ。やがてこれにしたがって労働者の国際的組織である労働者インターナショナルが設立された。しかしこの国際組織はマルクスの死後さまざまな意見対立などにより分裂や再組織を繰り返し変質していった。
やがて20世紀に入って資本主義社会は新たな段階に入り、ヨーロッパの資本主義諸国は互いに植民地の領有権や国際市場の支配権を巡って政治的・軍事的緊張を高め、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争に突入した。第1次世界大戦である。このとき当時の第2インターナショナルは当初戦争反対を主張していたが、戦争が実際に始まるやいなや、「国を護るために立ち上がろう」という国家の呼びかけに応じ反戦の主張を翻して軍隊にはせ参じたのである。
その結果、互いに同じ階級として連帯すべき諸国の労働者たちは個人的には何の恨みもないのに「国家」という旗印を背負わされることで殺し合うことを余儀なくされ、互いに数千万の死者を出し、ヨーロッパ文明が壊滅的打撃を受けるに至ってこの戦争は終わったのである。
その後、これを反省してドイツなどではさまざまな「民主化」が採り入れられ、レーニン率いるロシアでの革命の影響も新たに設立された第3インターを通してヨーロッパに浸透していったが、レーニン死後、スターリンによって主導権を奪われ、思想的にも政治的にも大きく変質していった。第3インターナショナルは事実上換骨奪胎され、一方でスターリンが掲げる「一国社会主義」(マルクスは近代的国家を資本主義イデオロギーの政治統治形態として捉えていたのでこういう考えはまったくなかった )が共産党の看板となった(いまも日本共産党はこの延長上にある)。 そのため労働者階級の国際的闘いは各国に分断され、それぞれの国内で「社会主義政権」を目指す運動となっていった。
そのため、ナチズムを初めとする国家主義者(ファシスト)による「国益を護るため」という名目の戦いの始まりによって世界は再び「国家間の戦争」へと突入せざるを得なくなった。スターリン主義者もファシストもともに強権的政治によって労働者階級を「国民」としてまとめ上げ階級的闘いを押しつぶしたのである。その中で開催された1936年のベルリン・オリンピックでは、スポーツという名目での愛国心宣揚が支配した。
こうした中で、日本も軍事政権化し、ナチズムと協調した国家主義的立場をとり、その中では旧来の日本の家族制度を中心とする日本的家族主義を天皇を父とした家族的国家観と結びつけた思想を小学生からの教育に盛り込み、これにそった道徳観を育てたのである。そこでは西欧的個人主義や自由主義は徹底的に排された。そして1940年に開催されるはずであった東京オリンピックは中止となった。
 そして第2次世界大戦への突入である。その結果は誰もが知るように、国家主義を主軸とする「枢軸側諸国」が敗北し、再び数千万の死者と人々の生活が奪われ悲惨な状況となった。
 戦後は日本でもドイツでもファシズムへの反省(反動?)からアメリカ民主主義がドッと押し寄せ、アメリカ民主主義が唯一の正しい思想であるという雰囲気が瞬く間に世の中に浸透していった。こうしてファシスト国家が姿を消した後は、スターリン主義的「社会主義」とアメリカ資本主義の対立が激化していった。
 そのなかで、資本主義陣営の労働者階級は、あたかも資本家に雇用されその賃金で資本の一形態である商品を購買して消費することがその本来在るべき姿であるかのような位置づけがされ、「消費者」と呼ばれるようになった。他方の「社会主義」国の労働者は労働者の自主的組織は圧殺され「党」が上意下達的に支配・指導する「方針」によって自らの生き方を決定された。そしてこの対立はそうなるべくしてなったかのように20世紀末にはアメリカ民主主義側の勝利に終わった。
 しかし一極支配となったかのように見えたアメリカ民主主義もそれによってかえってその矛盾が顕著になっていった。それは例えば、安倍のいうような「行き過ぎた個人主義」である。過剰消費によってしか生きのびられない経済体制と、その中で「消費者が生産者を支配している」という誤った幻想(実は自身が生産的労働での主体性を奪われているからこそ消費者としてしか生産の場を捉えられなくなっているのだが)をもたらす状況から生まれる「行きすぎた個人主義」や、アトム化された個人という形でしか「自由」が表現できなくなっている労働者階級が失った階級的連帯感を、「家族主義」や「愛国心」によってすりかえようとしているのが安倍の思想である。
 この「安倍イズム」がこのまま行けば、やがて「憲法改正」という形で法令化され、「国家」と「国益を護る軍隊」が再び働く人々の人生を支配することになるのである。
 歴史は繰り返さない、ただ似たような形を繰り返すことでそのおろかさをより明確にしていくのだ。

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