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2016年4月 8日 (金)

モノづくりの革命から始まる社会変革(3)

 人類は、ロビンソン・クルーソーの様にたった一人で孤島で生きて行くこともできるかもしれないが、それは偶然であって必然ではない。普遍的な人類の生き方は、マルクスが「類的存在」と言っているように、共同体社会を形成して生きて行く形であろう。そこでは当然、その社会に必要なモノを共同体構成員全員が分担協力して生みだして行かねばならない。社会的分業である。そしてそこで作られたモノは必要な人々に必要に応じて分配されなければならない。そのようなモノの生産から消費までの過程が間接的にその過程に必要な分業種(医療、教育、複利厚生、法律関係など)も含めて継続的に行われることを前提にして初めて共同体社会が成り立つ。本来の価値とは、こうした社会の中で必要とされるモノを生産するのに平均的にどれだけの時間が必要であるかによって決まる値であって、それはその社会に必要なモノを生みだすために必要な労働力の量をも示している。だからその価値に応じて必要なモノを受け取る人は、自分もそれと同量の労働を社会の中で分担していることが必要であって、その原則が守られて初めて本当の意味での平等な社会といえるのだ。その共同体社会では、構成員それぞれが、自分の適性にあった形での労働を通じてその役割分担を果たすと同時に、そのことが社会の中での自分の存在意義として感じられるようになるための必要条件であろう。 もちろん、あるべき共同体社会は、その構成員が生きていくために必要なギリギリ最低限のモノしか生産するわけではなく、それを遙かに超えた量を生みだす。これが剰余生産物であり、その価値が剰余価値である。この剰余価値部分は、本来は共同体社会に共通に必要だが直接的にモノを生産する労働ではない労働や、障害や高齢など何らかの理由で働けなくなった人々への生活を保障するための社会的共有ファンドとして蓄積される。だから労働生産性が上がって社会的に剰余価値の量が増大すれば、社会構成員の生活は楽になり、老後や病気の際にも安心して生活できる体制が充実するはずなのである。

ところが今の資本主義社会では労働生産性が上がれば、労働者は不要となって首を切られるか劣悪な労働部所に回され、あらたに労働賃金の低い国々へと労働者をもとめて資本は進出する。それによって増大した剰余価値はグローバル資本家や金融資本の財産として吸い上げられてしまう。そしてその大部分は市場での競争に勝ちさらなる利益を上げるために投資される。一方社会的に共通に必要な財は税金として生活者から吸い上げられる。
 このように、いまの資本主義社会は、あるべき共同体社会とはほど遠い社会になっているのである。しかも人類共有であるはずの地球全体の自然はグローバル資本の利益をまもるために破壊され、生活者の生活は過剰資本の処理形態となった消費材の大量消費先として意義づけられ、過剰資本のゴミ箱的存在にされてしまっているのだ。
 このような、ほとうもない矛盾を突き進む資本主義社会の否定として描かれる「あるべき共同体社会」は決して絵に描いたモチではなく、当然の形としてわれわれの社会において実現されなければならない目標であるといえる。
 かつて、こうしたあるべき社会を目指して起こされた革命(例えばロシア革命)でも社会に必要なモノをつくっている労働者や農民がその生産のイニシャティブを握り、その代表者が政治を行うという社会が目指された(ソビエトとは労働者評議会のことである)。しかし、それを「あるべき社会」に向けて牽引すべき党が腐敗、独裁化し、労働者・農民は党の独裁的支配のもとで自由を奪われた。そのため途方もない矛盾の中を突き進む資本主義社会の方が「自由で民主的」というイメージが定着し、旧「社会主義諸圏」は崩壊した。そしていま資本主義社会は「われこそは普遍的社会の在り方なり」とでもいうように居直り、その矛盾を深めながら人類の危機に向かって突き進んでいるのである。
 この過程でいったい何が間違っていたのか、これを明らかにすることがいまの歴史研究にとっての最大の課題であろう。
  私は「モノづくりの在り方」という観点からこの問題に取り組んできた。もちろん「モノづくりの在り方」を変えてもそれだけでは社会革命は達成できないであろうし、社会全体の変革の中で「モノづくりの在り方」も変わって行くことになるのは当然である。しかし、基本は「生活者」というべき人々(大部分は直接間接に生産的労働やそれを支える労働に携わる人々)自身が自分たちに必要なモノを自分たちの手でつくり、直接自分たちに分配するシステムを構築することであろと思う。そしていま資本主義社会の中でそうした形の萌芽があちこちに存在し、成長しつつある。残念なことにその萌芽はいま資本主義的市場経済の法則の真っ只中に置かれることによって歪められ、ヘテロな形になっていかざるを得ない。
 しかし、私の本(「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」海文堂 2014)ではモノづくりの創造性が生活者の手に取り戻されることが目指され、それによっていまもてはやされている「デザイナーの創造性」がいかに危ういものであり、いかに社会全体にとって危機を加速するものであるかを訴えながら、可能であれば、すべての生活者が自分の得意な仕事の中で「モノづくりの創造性」を発揮できる社会を目指すあらたなボトムアップ的デザイン運動をも射程に入れている。
 ぜひ多くの人々に読んでいただき、ご批判をいただけることを期待している。

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