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2016年5月30日 (月)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その2:労働者階級の自由とは?)

 いまブルジョア的自由を体現している支配層は、一国内での市場競争を超えて、世界全体が一つの市場となって競争し合う形となっている。競争の主役は資本であり、その人格化である資本家たちである。彼らが雇用する労働者はいまでは頭脳労働者が大半を占め、身体的労働を行う労働者は「生活水準の低い」国々の労働者や「先進資本主義国」の貧困層がほとんどである。頭脳労働者はいわば資本家の頭脳の代行を行う労働者であり、高学歴者が多い。これら頭脳労働者の多くは、国境を越えてさまざまな国へ出向いてその国の労働者の管理などを経験する。そしてやがてその中からもっとも能力が高いと資本家に認められた者はその企業の経営陣に加わる。その名の通り資本の機能を実行する「エグゼクティブ」として。

一方身体的労働者は単純な作業を主としており、代替がきくため、企業の都合で首のすげ替えや雇い止めなどにされやすい。「使い捨て労働者」である。そのためさまざまな企業に短期間雇用されることを繰り返す非正規雇用が多くなり、つねに、より賃金の低い国々の労働者に仕事を奪われる脅威に晒され、不安定な生活を余儀なくされる。彼らは生活に余裕がないため結婚もできないことが多く、たとえ結婚して子供ができても高額な教育費が払えないので、子は大人になってからも安定した職に就けないことが多い。

 富裕な労働貴族たちはますます富裕になり、「起業」などによって新興資本家(つまり支配階級の一員)になるチャンスも得やすくなる。一方下層労働者はますます貧困化し、他国の低賃金労働者たちと劣悪な条件で競争しなければならなくなる。こうして労働者間の格差は拡大する。

  いま資本主義経済化の進んだ国では、情報、サービス(介護・医療なども含む)などの産業に従事する労働者が増えており、他方で工場でモノを作る労働者は生産拠点が低賃金労働の国々に移ったため減少しているが、土木建設、物流、小売り業などモノの世界で働く労働者は増えている。当然ながら世の中、情報やサービスだけでは成り立たず、生活を支えるモノが必要だからである。また毎日人々の労働や生活を支えるための社会インフラで働く人々、例えばゴミの収集や道路の清掃・補修あるいは危険な電柱上や汚い屋根裏などで電気配線などの維持修理を行う人々の存在なくして社会は成り立たない。社会を一つの有機体と考えれば、身体的労働も頭脳労働もともにその手足や脳に当たる。どちらが低級でどちたが高級な仕事かなどという比較はできないはずだ。そういった比較ができるのはただ労働力が商品として価格を付けられる社会においてのみである。頭脳労働者は身体的労働者に対して、優越意識を持ち、身体的労働者は自分自身を蔑視しがちである。しかし、ともに社会が必要とする労働を行う労働者階級の一員であり、そのことに同じプライドを持つべきであるし、互いにそれを認め合うべきである。
 労働者が階級としての自覚を持ち、団結するというのは、単に雇用主である資本家に賃上げや労働条件の改善を求めるためだけではない。それはほんの端緒に過ぎず、そこから始まる新しい社会の仕組みづくりへの一歩である。それは資本がとっくの昔に国境を超えてグローバルに循環しているのだから当然それに対決するために国境を超えて団結しなければならないはずだ。
資本家階級は国境線を引き「国民国家」という形でその支配的統治の普遍化を図るが、それは同時にまた「私的所有の自由」と「自由な市場競争」という資本のイデオロギーによって生みだされる「国民国家」間での戦争を繰り返すことになる。一方でグローバル化しながら他方で「国民国家」を普遍化しようとする矛盾。そしてつねにその矛盾の犠牲者は「ナショナリズム」というイデオロギーによって戦場に駆り出される労働者階級なのである。
 社会の主役である労働者階級による社会的労働が、それを自らの私的所有を増やすための手段として用いる資本家階級によって支配されてしまっている社会、それが資本主義社会である。
その社会に内在する「自由」の対立は一言でいえば、「社会的生産を私物化する自由」と「社会を支える労働者の連帯的所有に基づく自由」の対立である。
そして「社会的生産を私物化する自由」 を主張する資本家層は、資本家のために賃金奴隷として働く労働者の存在なくしてはあり得ないが、労働者は資本家によって私物化された社会的生産を資本家たちの手から社会全体のために取り戻すことによって、はじめて自由な労働者として解放されるのである。
それは、商品の購入によって、つまりお金によって他者の生みだした富を自分のモノとして私有化する自由では決して なく、人々の協働によって生みだされる社会的富をその協働の一員である自分がその労働の成果を他者と分かち合い、それによって自分と他者の社会における存在意義を互いに理解し合うことのできる自由である。

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