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2016年5月31日 (火)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その3:自由の質的変革)

 ところで、最近の安倍政権でもささやかれていることであるが、個人の自由にもある程度制限があって然るべきではないか、という議論である。安倍政権にはこれを「公共的利益を守るため」と称して「おおやけ」という形で国家の立場を個人の上位に持って行こうとする策略が見え見えなのだが、個人の自由を重視するいわゆるリベラル派も個人の自由には自制がなければだめであるという。最近、あまりにも利己的な主張が増えて、他者の立場を配慮することなく自分の主張を押し通そうとする事例が増えているからこういう議論が出てくるのだろう。

 しかし、これはブルジョア的自由の典型的矛盾の一つと考えて良いであろう。もともとブルジョア的自由は、私的所有の自由が基本であって、それを維持するために「自由な競争」による富の奪取を正当化するのである。自分がリッチになれば他者が貧しくなっても仕方がない。それは自助努力が足りなかったからだ、ということになる。競争に勝った者は負けた者より優位に立つのは当然だ、というわけだ。こうしていまの資本主義社会は競争相手を容赦なく倒しながら発展してきた。
 それに対して、プチ・ブルジョア層の代表的立場であるリベラル派は、私的所有の権利を認めながらも相手の立場をもっと考えるべきだという立場であるといえるだろう。要するに「理性ある資本主義」を主張する。資本主義社会がまだ余裕があった時代にはそれがある程度通用した。しかし、いま資本家たちがそんな呑気なことを言っていたら、競争相手にたちまち打ち倒され、自分の破滅を招くような危機的な状態に資本主義社会全体が突入してきたのだ。だからリベラルの代表である日本の民進党やアメリカのオバマ政権はその理想とは裏腹に、経済の実質を握るグローバル資本の競争の前にほとんど何もできずに終わり選挙民の期待を裏切った。
 一方、「大衆」と呼ばれる人々は、そのほとんどが現実には労働者階級に属しながら、ブルジョア的イデオロギーに染め上げられてしまったため、そうした自覚がなく(そうなってしまったのは労働組合にも責任があるのだが)、資本家的経営者からサラリーをもらって個人生活を築くことがもっとも大切なことになっているため、この自由を護るために自己主張をする。これは労働者の権利という意味ではもっともなことである。しかし、それがブルジョア的自由という観念に支配されているため、その延長に他者の立場を考えない利己的な主張が現れる。「自由な個人」としては自分が雇用者に売り込んだ労働力商品である以上、他の労働者は労働力商品としては競争相手である。呑気なことを言っていたら職を奪われかねないから競争相手を蹴落とさねばならなくなる。だから他の労働者に自分の個人としての自由を奪われないように自己防衛することになる。いまヨーロッパが渦中にある移民問題がその典型である。これがブルジョア的自由という思想の「コインの裏側」であり、ポピュリズムの動力源でもある。
この思想の延長上に個人と「おおやけ」の関係があり、個人間の「自由の衝突」を調整する機関として国家や法律が機能することになる。ブルジョア的自由という思想においては個人の自由と国家への奉仕は裏と表の関係ともいえる。だからリベラル派はこうした支配階級の根本的矛盾を乗り越えることは決してできないのである。
 だが、階級的意識を持った労働者が目指す自由はこれとは質的に異なる自由である。それはまず第一に社会は単なる「利己的個人の集合体」ではないということを知っていることである。本来の社会は一個の有機体であり、すべての働く人々がそれぞれの固有な能力によってその有機体の一部を担っており、その中で社会的に必要なモノやシステムが生みだされ、分配され、機能し、消費されている。だから他者との社会的紐帯を前提としなければ自己の自由はありえないことを知っている。たとえ他者との競争があってもそれは互いに相手を高めるための競争であって、決して相手を打ち倒すための競争ではない。そのような関係の中で自分を高めていくと同時に社会を高めていく自由が労働者階級的自由である。
 日本をはじめアジアでは家族的紐帯が古くから社会の倫理的側面を支えてきたが、それは古代や中世においては宗教的倫理と相まって支配階級の統治の手段として利用されてきた。その残滓が日本でもつい70年前まで通用していた。だから資本主義社会が西欧で生まれ、アジアに持ちこまれて「近代化」が進められる過程で、西欧的「個人主義」や「自由主義」への反発が当然現れ、それは天皇を頂点とする父権的家族を紐帯として国家をイメージさせる思想になっていったと考えられる。
 ここでいう労働者階級が主導権を持つべき社会は、それとは完全に異なる。個々の労働をつなぎ合わせることで個人の能力を社会全体の能力としていくボトムアップ的紐帯による社会と考えるべきであろう。そこにはブルジョア的自由やアジア的家族主義と全く質的に異なる自由があり、それを支える倫理があるはずである。
それが具体的にはどのような形の社会となって現れるのかは、これから先の歴史の中で労働者達が直面する現実的諸矛盾との闘いの中で勝ちとっていく自由の形によって決まるだろう。

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