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2016年5月13日 (金)

人工知能が人間を支配するという「妄想」について

最近になって将棋や碁の世界で、「名人」と目される人たちが相次いで人工知能に敗れるという事態があり、話題を呼んだ。そこで話題になったのが「深い知識の学習」と呼ばれる人工知能の新たな技術である。人工知能開発初期に有名だった「マイシン」という医療判断支援システムがあった。こうした人工知能は単にそれまでの治療のノウハウを集めて学習される技術であって、当時もてはやされたいわゆる「エキスパート・システム」はほとんどそうしたものであった。しかし、この知識学習システムは、なぜそれが「知識」として受け継がれてきたのかその理由に関しては無知だった。そのため、少し応用範囲が異なったりするとたちまちその支援システムが使えなくなりつねに新しい知識を次から次へと知識ベース化して行かねばならなかった。

そうした欠陥を補うために、ある思考や判断を支援する知識がなぜ、どのような理由でノウハウとして扱われるようになったのかといういわゆる「メタ知識」をも学習させることが研究された。これが深層学習と呼ばれる人工知能の新技術として開発され、その成果が、将棋や碁の名人の持つ深層知識をも学習させてそれに対抗できる人工知能をうみだしたのである。
 ところがこうなると、将来人類は人工知能に支配され、人間が機械に支配される世の中が来るのではないかというSF的な妄想を抱く人たちが現れる。しかしこれが「妄想」とはいえそれが現れるそれなりの理由がある。それは、現代社会が生みだした技術がそもそも人間の人間としての尊厳を失わしめる社会経済システムが生みだしたものだからである。そのことはいわゆる産業革命の歴史を見ればよく分かる。産業革命の歴史は産業資本主義社会という資本主義経済体制の発展段階への生産システムの成立過程なのであるが、それは一言でいえば「生産の合理化」という言葉で示される。
 もともと生産的労働は生産手段と不可分であったものを、商品経済で蓄財した資本家達が、思うように商品を作らせるために自立小生産者から生産手段を奪い取り、それと同時にそれによって生産手段から切り離された労働力をも「雇用された賃金労働者」というかたちで買い取り、両者を商品生産で利潤を挙げようとする私的所有にもとづく目的意識のもとで合体させ、生産活動をさせようとしたのが産業革命のモチベーションなのである。
資本家達は、商品市場では「自由競争」を旨として競争によって販売利益を競うため、市場での価格競争が最大の問題となり、いかに安い市場価格で売ってもそこから利潤を挙げられるかが技術的最重要課題となった。最初は労働賃金の抑制とその中で労働時間の極限までの延長や労働強化、つまり絶対的剰余価値の増大による利潤の増大を、そしてさらにその「生理的限界」を越えるために労働の生産性を上げることによる剰余価値部分の比率の増大、つまり「相対的剰余価値の増大」を目指したのである。
極言すればこの「相対的剰余価値の増大」こそが資本主義社会での技術革新の基本的モチベーションである。いかにそれが「人類の幸福と社会生活の進歩のため」といわれようともである。そのことを踏まえて人工知能の技術をみれば、それが人間労働の頭脳労働的側面の「合理化」であることが分かる。
 産業革命で人間労働の身体的労働の側面が局限にまで単純化され機械に従属する形に「合理化」されてきた結果、いまわれわれが目にするように資本家が所有する巨大な生産システムに「雇用され」過酷な身体的労働に従事させられたあげく、生産システムがさらに合理化されれば、労働者達は生産ラインから放逐されてきた。巨大な生産システムから資本家にとって莫大な富が生みだされてもそれが労働者にとっては自分の生活を維持するにもたりないほどの価値としてしか還元されず、もしそこから追放されれば生きていくことすらできない労働者の世界である。だから「人工知能が人間社会を支配するかもしれない」という恐怖感は生産手段に従属支配させられてきた過去の経験からそれなりの根拠があるのである。
 しかし、それが「妄想」であるというのは、次のような意味においてである。
人工知能はあくまで広い意味での労働手段であり、「道具」である。人間を支配するような「道具」を生みだそうとする意図は、労働そのもの、従って労働を行うことによって社会の中で自分自身の存在意義を表現する労働者の意図からは生まれ得ないからだ。
そうした意図を持つことができるのは、労働の意図や目的をそれが必要とする生産手段や労働手段から切り離し、生産手段や労働手段が資本家的な私的所有のもとに置かれ、その所有者の意図のもとで生産的労働が私的な欲望を充たす手段となってしまうような社会でだけありうる話である。
 したがって、「人工知能は価値を生みだすのか?」という疑問に対しても次のようにいえるだろう。
人工知能システムを生みだした技術に過去において少しでも人間労働が参与しているならば、過去の労働が移転した価値を維持しており、それ自体は「価値物」であるといえる。しかし、生産的労働のあらゆる側面が人間労働ではなく人工知能システムによって行われるようになれば、それは決して価値を新たに生みだすことはない。なぜならばどんなに完璧な人工知能システムであっても、それが「生きた労働」によって社会的目的を達成する手段として用いられることがなければ新しい価値を生みだすことはできないからである。もし資本家が生産過程から一切の人間労働を放逐し人工知能や自動機械システムに置き換えることができたとすれば、彼はそこから過去の労働による価値意外に何ら新しい価値を生みだすことができなくなり、したがってひとかけらの剰余価値も生みだすことができなくなる。結局それによって資本家自身もそれを継続させることに何の意味をも見いだせず、生産の継続が不可能となるのである。

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