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2016年5月28日 (土)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その1:その矛盾)

 アメリカ大統領選共和党候補者のトランプ氏は、両極的に対立する民主党候補者のサンダース氏とともに、これまでのアメリカの政策に不満を持つ人々の不満のはけ口的シンボルと見なされてきたが、朝日新聞などの「良識的リベラル派」からは危険なポピュリズムの現れともみなされているようだ。民主主義は衆愚政治をも生みだすというわけだ。「ゴーマニスト」の小林よしのり氏も「ヒトラーも民主主義から生まれた」と言っている。小林氏が何を言いたいのかはさておいて、いまの「自由と民主主義」の持つ矛盾は明らかである。

 私はいまの「自由と民主主義」に「ブルジョア的」という但し書きをつける立場である。というのは、そもそもいまあたかも普遍的思想であるかのように扱われている「自由と民主主義」が登場した歴史を見ればそうとしか言えないからだ。フランス革命で政治的主導権を握った「市民(ブルジョアジー)」はそれまで古い王権との確執の中で商取引を通じて社会の経済的実権を徐々に握ってきた豪商や富豪が中心であって、その「商取引の自由」が彼らの主張であったと考えられる。そこにいわゆる町人である職人や小商店主、ある場合には農民までもがブルジョア革命に付き従っていたと考えられる。しかし「市民」すなわちブルジョアジーの主役はあくまで商人たちであると言えるだろう。そしてその後、それまで古い権力によって抑圧されてきた人々のさまざまな能力の解放という意味では大きな役割を果たしたこともあって、思想としての「自由と民主」が支配的になっていったと考えられる。
  しかし、この「自由と民主」を掲げたブルジョア革命の思想的の下で進められてきた産業革命を通じて、その結果労働者階級が生まれてきたのであり、この「自由と民主」は決して彼らの思想ではないことはあきらかである。そこではもはや商人たちは単なる商人ではなく、産業資本家であり、財力にものをいわせて生産手段を私有化し、生産手段をもぎ取られた労働者の労働力を自由に商品として買い取ることで生産物を商品として生産し、それを市場で自由に販売することによって私的利益を自由に上げながら社会的生産・消費を切り回す自らの社会的地位を普遍化する思想として「自由と民主」主義を支配的イデオロギーとして確立させたのである。しかしその思想のもとで、自らの社会的人格表現でもある労働力を資本家に売ることによってしか生活できない、つまり実質的には決定的に自由を奪われた「賃金奴隷」である賃労働者の存在なくしては資本家の存在はありえないという事実をマルクスはあきらかにしたのである。つまり労働力という特殊な商品の使用価値、「価値を生みだす」機能によって、それを買ったときの価値(労働賃金)よりはるかに多くの価値を生みださせ、しかもそれをあたかも「等価交換」であるかのように装って私物化してしまう雇用関係によって資本主義体制における社会的生産が成り立っているということをあきらかにしたのである。
 こうして経済的実権を握った資本家達は当然、彼らの地位を正当化するための政治的意識を持ち、それが「民主主義的政治」と呼ばれる、いまの政治的統治システムを生みだしてきた。「市民」が「自由」な選挙で代表を選び、その代表者達が議会で自由に議論しながら政策や法律を決めて行く、というわけだ。形の上ではもっともらしいが、そのシステムのもとで相変わらず労働者階級は賃金奴隷のままである。労働者たちは、雇用主である資本家が他の資本家的企業との競争に勝つために奮闘努力させられ、それを自ら進んでやれるように洗脳教育され、会社のために人生のすべてを捧げつくされる。そして資本家たちの競争が過熱化し、過剰な資本がだぶついて「不況」がやってくればたちまち労働者たちは資本家から「合理化」の名の下に解雇あるいは雇い止めとなるか労働条件の悪い職場に配転される。そして高齢や障がいで働けなくなった労働者は資本家にとって「社会のやっかい者」以外の何者でもなくなる。そうした人々への複利厚生は資本家が行うのではなく、労働者たちの生活費として支払われる賃金から税金として国家が徴収したカネで行われる。だから「消費税」などという不条理なものが必要になる。
 こうした生産の場での矛盾や悲惨な状況はしかし、一方で労働者は生活資料商品の「消費者」であるとされ、消費の場では主役として自由勝手なことが言えるという仕組みによって補完されている。商品が売れなければ自らの立場が危うくなる資本家にとっては当然の振る舞いであるが、労働者たちは生産の場で奪われた自由を生活資料商品の購買の場で「消費の主役」として祭り上げられて、そこで日頃の鬱憤を晴らすように仕向けられているのだ。
いうなれば「消費拡大」とは資本家にとっては自らの儲けを護ると同時に、「私的所有の自由」を表看板として労働者たちの不満の「ガス抜き」をするための最も良い手段なのである。しかし、このような仕組みになったのも20世紀前半の労働者階級のプロテストによる「成果」であり、それがなければいまもって労働者は動物的レベルの最低生活を余儀なくされていたであろう。しかし、この「消費拡大」も資本家階級側での過剰資本による資本への圧迫を避けるための手段として、再生産に直接結びつかない消費を増やして行かねば資本主義経済が成り立たなくなるという危機的状況への対応でもあった。ケインズ的に言えば「有効需要の喚起」なくしては資本主義経済が成り立たなくなったのである。そのため、この消費はブレーキが効かず、戦争による大量破壊・殺戮や浪費による資源枯渇という形での人類や地球環境そのものへの危機へ向かわざるを得なかった。これこそ資本主義経済体制の根本的矛盾の現れである。
  これに対して資本主義社会の支配層は被支配層である労働者がその矛盾に気づき、階級としての自覚を持つこととそれによる団結をもっとも恐れており、それを防ぐ有効な手段として均一化された「市民意識」を一般化させ、労働者の資本家も一人一人の市民として欲しいモノを買うことができる自由を享受できるのが自由民主の社会だとキャンペーンするのである。これによって労働者たちは一個人として資本家と対等な立場にあるかのような錯覚に落としこまされ、チャンスさえあれば自分も資本家になれると思わせ、階級としての労働者同士の連帯感をも失わせ、互いに労働力商品としての競争相手としてアトム化した個人にされてしまうのである。
 支配的階級である資本家層の代表である政府は、「経済成長のもとで、雇用が進み、賃金が上がり、需要が拡大すれば、それがまた経済成長の原動力となり、経済の好循環が現れる」などとうそぶいているが、その中でどんどん拡大する「格差」、かつて資本家たちに「高度成長」をもたらしてきた労働者達はいまや高齢化し、その大半は貧困化し、将来に希望を持てない若者の増大、結婚生活が成り立たないような貧困な若者の増大、そこから来る「少子化」と人口減少、そして絶望感から来る犯罪やテロ行為の増大などなど、そして展望を失った人々の中から登場したのが前述の「ポピュリズム」なのである。こうした事態はいま国境を越えた世界的規模で進んでいる、その中で行われた「G7サミット」で資本家代表政府の要人たちは「危機感」を共有しているようであるが、それがどのような危機なのかその本質は彼らに分かろうはずもない。そして底の浅い「リベラリズム」や「ナショナリズム」はいわば「疎外された意識の両極的イデオロギー」であって、放っておけば再び戦争の渦に世界を巻き込みかねない危うい思想なのである。
 それではこうした「ブルジョア的自由と民主主義」の矛盾を超えてわれわれは何を目指すべきなのかそれが問題である。(以下次回以降に続く)

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