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2016年6月11日 (土)

萩 雑感

 先日、下関であったある集まりの帰途に、萩の町を初めて訪れた。明治維新の原動力となった幕末の志士や明治の元勲を数多く生んだ松下村塾のある町である。この小さなな町が生んだ多くの明治政権の担い手は、しかしその後政治の中心となった東京に躍り出て日本の近代化に奔走したので、萩の町はそのままうち捨てられたも同然だったらしい。城は解体され、萩郊外の反射炉や造船所もうち捨てられ、やがて九州八幡に近代的溶鉱炉ができ、呉に大きな造船所ができた。かつて毛利家の重鎮たちが住んでいた旧城下町の住宅地は、広大な屋敷跡が荒れ果て、土塀は崩れ落ち、見る影もなくなった。 そして近代化の象徴であった山陰本線もいまや過疎のローカル鉄道になってしまった。

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しかし、おもしろかったのは、維新の志士たちの住んでいた旧宅は意外なほど質素で、いわばいまのサラリーマン住宅のような感じであるのに対して、当時毛利家の経済を左右していた豪商の菊屋の家は、その土蔵など豪壮で大きな屋敷である。
 つまり明治維新の政治的原動力は下級武士だったが、その経済的原動力は商人たち であったことがよく分かった。
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 当時の日本ではすでに武家政権は経済的実権を喪失し、古い階級関係だけにしがみついていたが、それに危機感を持った下級武士たちが商人たちの経済力を借りて武家政権を倒し、新政府をつくっていったのだと思う。そしてその新政権は商人的世界での「自由」つまりブルジョア的自由を全面的に採り入れ、身分を問わず能力のある者を抜擢して、新しい資本主義経済に基づく産業社会を構築していったのであろう。
 しかしそれは西欧のそれとは異なり、迫り来る西欧列強の圧力の中で、近代的国家としての統治形態の完成を急がねばならなかったため著しくトップダウン的であり天皇という「家父長」のもとで押し進められなければならなかったのだろう。
そしてその結果が日清日露戦争であり、日中戦争であり、太平洋戦争であった。その中でいかに多くの人々が「お国のため」という支配階級によるイデオロギーのもとで死んでいったことだろう。幸い戦禍を逃れた萩の町の、いま寂れた旧市街はその苦い思いを無言のまま語っているようにも見える。そしてそれはまた、いま資本主義社会が崩れゆく姿の象徴でもあるようにも見えた。

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