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2016年9月26日 (月)

あらためて資本論を学ぶ

2年ほど前から「資本論を読む会」というグループに参加している。最初半信半疑でこの会に参加しはじめたのであるが、やがて、じつにキチンと資本論を学ぶということをコツコツと続けているその努力と誠実さに感服し、ほとんど欠かさず出席している。この会のリーダーはすでに何回も資本論を読んでおり、資本論の記述に出てくる関連した論者の文献も実によく読んでいる。これまでこのブログで資本論について大きなことを言ってきたがだんだん自分の不勉強が恥ずかしくなってきた今日この頃である。

 例えば、いまは資本論第2巻「資本の流通過程」を読んでいるが、その中で「資本の回転」の問題が扱われている部分がある。ここでマルクスは固定資本と流動資本の区別について論じているが、そこでスミスやリカードへの批判が多くのページにわたって書かれており、そこでは彼らがいかにこの概念を誤ってとらえているか、そして不変資本と可変資本の区別と混同しているか、またスミスとリカードの誤りの質がどう違うかなどについてが具体的に指摘されている。
  この部分はなかなかマルクスの意図がつかみにくく、解釈も一義的に行われにくいところなので苦労する。しかし実はここはかなり重要な部分であるという感じがしてきている。それはこの部分でマルクスは当時の経済学の主流であったスミスやリカードへの徹底した批判を通じて、資本の回転とはいかなる意味を持っているのかをあきらかにしようとしているのが分かってきたからである。
 宇野弘蔵がこの資本の回転の部分を軽視していたらしいことも知り、そう言われてみれば、宇野「経済原論」にはほとんどそのことが触れられていなかったことを思い出した。宇野経済学から多くを学んだ私にとって、ひとつの「宇野離れ」が始まった。恥ずかしながら、このブログでも宇野批判めいたことを書いたが、それはもう少し資本論をキチンと理解してからでないといけないと実感した
 宇野が資本論を「原論」として純化することによって資本論をより明確に「科学」たらしめんとしたことは知られており、資本論が自然科学とは違った意味での科学であることには間違いないが、それを「純化」するとはどういうことなのかが問題である。言い換えればマルクスがなぜ、ここでかくも執拗にスミスやリカードの批判を通じて回転資本の概念を明確化しようとしているのか、その意図を知るべきだろうと思うのである。
 宇野は例えば「資本論の経済学」の中で、理論と実践の関係について述べており、そこでは理論はあくまで純化されねばならず、実践はそれを歴史的発展段階応じて(段階論として)把握した上で政治的実践に適用することで理論の政治経済的意義をあきらかにするというようなことを書いている。しかし、このようにマルクスの理論は純化されるうものなのか? 宇野は実践との関わりで理論がその歴史的発展段階をあきらかにするということを主張するが、逆に現実の具体的社会への批判や活動が理論(原理論)を成長させるのであって、「いまここにある現実の矛盾」をあきらかにしていくことこそ理論を豊かにしていく推進力なのではないだろうか?
 確かに宇野弘蔵はじつに綿密に資本論の原典に当たり、それを「自分なりに」キチンと理解するという主体的把握の態度を貫いたことには立派であったし、私など足下にもおよばないだろう。しかし、どうもそこには最初から「いまここにある現実の矛盾」へのまなざしが乏しく、むしろ原理論からの適用という視点で現状分析を行っているように見え、理論としての純化が優先していたのではないだろうか? つまり学者的視点しかなかったのではないか? それにくらべてマルクスはつねに「いまここにある現実の矛盾」から出発しておりそれが理論研究の原動力になっていたと思うのである。

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