« 死に行く資本主義経済体制の中で「成長」を叫ぶ現政権の矛盾 | トップページ | 「ブルジョア・民主主義」の矛盾 »

2016年10月24日 (月)

「NHKスペシャル マネーワールド」を観て

 ここ3回に渡って「爆問コンビ」が登場して資本主義の現在と未来について語る NHK-TVの番組があった。その中で現在世界の超富裕層65人の財産合計が下層階級36億人の財産合計と同じだという事実について語られていた。

 これはいまの資本主義社会での人々の格差が急速に拡大しているということを意味するが、この番組では従来資本主義がわれわれに繁栄と豊かさをもたらしてきたにも拘わらず、1980年頃からそれがおかしくなってきた、という論調だった。1970年代後半からアメリカを中心とした資本主義社会の「成長」が行き詰まり始め、日本ではその後1980年代にいわゆるバブルが始まり、80年代の終わりになってそれがはじけたという経過をとったが、ここが資本主義社会のひとつの曲がり角であったことは確かなようだ。 その後、1990年代には一方でいわゆる「社会主義圏」が崩壊し、他方ではアメリカを中心とした「IT革命」が始まり、インターネット時代に突入して行き、資本はそこに活路を見いだした。資本主義社会はここでいっとき「一人勝ち」して再び繁栄を取り戻すかに見えたが、「成長」は思ったほど進まず、かえって「格差」が拡大していった。日本ではバブル崩壊後長い「冬の時代」が続いた。そして21世紀に入って2008年にはアメリカでの「リーマンショック」に始まる世界的な恐慌に近い状態があり、それ以後は一時的に景気が回復するかに見えたが相変わらず「成長」は低迷し、その間に「格差」が急速に増大していったのである。

 これが何に起因するのかはおそらく「御用経済学者」たちが懸命になって考えているのだろうが、そもそも「資本主義」とは何であるのかを正しく理解していない経済学者にはおそらく解決出来ない問題だろうと思われる。
 能力ある者が努力によって富を増やすのは当然で有り、努力をしなかったり能力のない者はそれなりの格差がつけられても当然だ。そして「成長」は競争や格差によって生みだされ、自由な競争こそが経済に活力を生み、その頂点に立つ者の富が増えれば、そこからこぼれ落ちる「おこぼれ」によって下層の人間たちの生活も潤っていく、というのが資本主義的人間観であり社会観であろう。
 しかし事実は逆である。資本主義が世界中を支配していく中でよぎなく貧困に陥れられた人たちが血のにじむような生活を強いられながら働いて生みだした富をその枝々から幹へと伝えるマネーの流れを生みだし、それが最後に一番下の「富の溜まり」に流れ落ちてきて、超富裕層がそれを享受できるようにしているのである。彼らは働く人々が生みだす富の流れをすべて自分たちの「溜まり」に流し込んでいるのであって、そのマネーの流れの仕組みをつくり出すために「努力」し「才能」を発揮しているにすぎないのである。彼らにとって「社会全体のために必要な労働」はそのための単なる手段にすぎない。
 いま「超富裕層」と言われる人々が個人で私有する富は世界の何十億もの人々が血と汗の結果として生みだした富である。それを社会に「還元」する(累進課税などによって)ことで資本主義は正しい方向に戻る、などというのは全くの幻想であって、単なる「富の再配分」の問題などではないのである。
 本来は社会の中で生活者がそれぞれ自分たちの能力にしたがって分担して働くことで生みだした社会的共有物となるべき富を、不当に私有あるいは占有し、それを私的欲望に応じて限りなく増やして行くことのできる社会の仕組みこそが資本主義社会なのであって、そこに問題の核心があるということだ。
 いま資本家企業に雇用される労働者も努力次第で蓄財し、「起業」して新興資本家になれるということが資本主義的「自由」であるとされている。そしてそうなれるか否かが「能力や努力次第」とされている。しかし、そうした「能力」や努力はやがて激しい競争に晒され、大多数は蹴落とされて行く。その結果頂点に立つことができたとしてもそれはただ社会の格差の頂点に立つだけのことであって、自家用機や広大な別荘など所有してもなお有り余るマネーの使い道に困って慈善団体を作ったりするのがせめてもの「つぐない」なのだろう。
その過程でもっとも大きな犠牲を払うのはそうした競争に負けた資本家企業に雇用されて働く労働者たちである。これが何のための「自由」であり「競争」であるかはもはや明らかであろう。いまや起業する新興企業は年々少なくなってきている。マイクロソフト、アップルやグーグルなどアメリカンドリームの「なれの果て」の姿を見て、もう若者達も真実に気付き始めているのだろう。彼ら超富裕層といわれる資本家達は政府をもコントロールする力を持っており、そうした状況の中で格差がどんどん拡がっているのである。
  こうして「私的利益の追求」こそが至上の権利であって、人々の労働の成果である富は「能力ある資本家」のもとに蓄積されていく仕組みができ、社会的共有財として必要な富はこうした私的利益からの「課税」によってしか成り立たず、「被課税者」である富裕層からは自分たちの私的蓄財にとっての障害とみなされる。
 こうした資本主義社会の本質から言って、「経済成長」とは資本家の私的富の成長でしかなく、それが資本家間の過当競争によっていずれは頭打ちとなり本来の社会的共有財として有効に用いられることなく、 「過剰な富」として、無駄な消費や戦争で消尽させるしかなくなるのである。
  社会のためにそれぞれの場で働く人々は、つねに資本家たちの支配のもとで彼らの都合によって「雇用」されたり「解雇」されたりし、彼らの余った富のおこぼれを頂戴して生きて行かねばならない「賃金奴隷」であることを忘れてはならない。しかも働く人々の生活資料さえも資本家たちの富を増やす手段なのであって、それは生活者を豊かにしているかのように見せながら実は生活者の生活そのものを資本主義的体制の中に「抵抗なく」組み込む手段でもあるのだ。
 20世紀末から始まったといわれている「成長の頭打ち」と格差の増大は、これこそが資本主義社会の通常の姿なのであって、それ以前の「高度成長」時代の資本主義社会はピケティーも指摘しているように、むしろ「歴史的に特殊な条件」において成り立つ状態であったといえるのだろう。

|

« 死に行く資本主義経済体制の中で「成長」を叫ぶ現政権の矛盾 | トップページ | 「ブルジョア・民主主義」の矛盾 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/64392327

この記事へのトラックバック一覧です: 「NHKスペシャル マネーワールド」を観て:

« 死に行く資本主義経済体制の中で「成長」を叫ぶ現政権の矛盾 | トップページ | 「ブルジョア・民主主義」の矛盾 »