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2016年10月26日 (水)

「ブルジョア・民主主義」の矛盾

 「ブルジョア」という言葉は左翼用語として嫌われているが、ここでは敢えてこの言葉を現在の民主主義の在り方への批判として使うことにしよう。

 いま、民主主義は危機的な状況にある。それは北朝鮮などのような独裁体制に対して「正義の味方」として掲げられる「民主主義体制」が、本音では独裁的政治を求めているという矛盾として現れている。
 例えば、アメリカの大統領選である。オバマ政権やそれに対抗する共和党のこれまでの振る舞いを「既存勢力」とみなし、それにノーを突きつける選挙民たちは、いわゆるポピュリズムの流れを形成し、トランプの様に過激な発言を繰り返し既存勢力に対抗するポーズをとる候補に熱烈な支持を表明する。そしてフィリピンのドゥテルテ大統領を熱狂的に支持する大衆もそれに近い。そして少し形は違うがロシアのプーチン大統領を支持する人々にも似たような状況があるように思う。そして「決められない政治」を繰り返した「リベラル派」に対抗して登場した安倍政権を 「リーダーシップのある政治家」として支持する日本の大衆も同様だろう。
 こうした「リーダーシップのある政治家」を支持する大衆はいわば「民主主義体制」の中で「衆愚化」された人々といえるだろう。衆愚化された大衆は自分たちが政治的に無力化された状態に置かれていることをそうとは自覚せず、自分たちは生活の中から感じる不満をぶつけることが政治的参加だと思い込まされている。政治家はそれらを組み上げてうまく政治に反映してくれる能力のある人として捉えられている。そして政治家がいろいろな人たちの意見を聞いて考え方を変えるとそれを決断力に欠けた「ブレる政治家」と揶揄し「ブレない政治」を望む。そしてリーダーシップを要求する。
だから政治家たちは互いにこの衆愚化された大衆に「分かりやすい言葉」で相手を攻撃したり派手なパフォーマンスで人気取をし政権を獲得・維持しようとする。そして大衆はますます衆愚化されていく。その悪循環がいまや世界中の政治状況に現れている。このままではきわめて危険である。
 ではなぜいまの「民主主義」がこうした矛盾を抱えているのかを考えてみよう。いまの「民主主義」が資本主義的商品経済体制の生みだした政治形態であることは前にこのブログでも書いた。貴族・王族(日本では幕藩体制による武家支配)といった旧既存勢力が商品経済体制の足かせになり、それと対抗する「自由市場」の獲得を主張する中から生まれたと考えて良いだろう。そこでは商品売買の自由、商品売買者の平等な権利、自由な競争の保障といったことが社会体制として組み込まれていった。これを理論化して初めて経済学という分野を築いたのがアダム・スミスでありリカードであった。しかしその中で生活者は自らの生活を生み出すための土地や生産手段を商品売買で資本を蓄積した資本家たちに持って行かれてしまい、自分の労働力を商品として彼らに売り渡たしそれによって自らが作った生活手段を買い戻さねば生きて行けなくなっていったのである (賃金奴隷化)。
 支配階級となった資本家たちは、自らは「自由と民主主義」の実践者と自認するが、それは他方で賃金奴隷化(外見的には「勤労者」であり奴隷には見えない)された労働者階級の存在と存続によって支えられている。だから労働者階級が明らかに賃金奴隷であることが覆い隠されるような政治支配体制を必要とする。それがいまの「ブルジョア民主主義」政治体制である。これは本質的に本来の民主主義体制ではないのであって単に外見的にそれを装っているに過ぎないのである。
 具体的に政治論争がどのように展開されているかを見ればそれがよく分かる。日本では「経済成長こそが国民を豊かにする」とされ、政権はそのためにあらゆる政治的権力を用いている。しかし実は資本家階級にとっての「経済成長」であって、生活者である労働者階級はそのための手段として必要化されているに過ぎないのである。しかし野党も政権側と同じ穴のムジナであるため問題の本質に関わる論争はまったく起きず、社会保障の財源を獲得するために消費税を増やすといえば野党もそれに従い、生活者の生活状態が良くならないと分かると今度は、政権維持のために与党が消費税値上げの時期を延長すると言いだし、野党はそれにイチャモンをつけるが、そもそも「消費税」なるものの欺瞞性に関しては何も本質的な論争にならない。
  こうして国会では野党は何も本質的な論争を仕掛けることができず、枝葉末節なできごとで審議拒否などすることしかできない状態である。これでは労働者階級が資本家階級の支配に制限を加えようとする法案など通せるわけがない。
 アメリカ大統領選でも両候補の論争はまったく馬鹿げたことの中傷合戦でしかなく、肝心の政策論争はなにもない。彼らは明らかに大衆を利用しているのである。
 本来論争とは、自分の主張に対して反論をする相手の主張をそれとして受け止め、その上で自分の主張に誤りがあればそれを考え直し、今度は相手の主張の誤りを問う、という形で互いに批判を繰り返しながら徐々に真実に近づくことが目的であるはずだ。こうした本来の論争が保障されないような政治は本当の民主主義とはいえないし、そもそも真実を覆い隠すことの上に成り立っている虚偽の「民主政治」はそれ自体変革の対象とされるべきなのだと思う。

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