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2016年4月3日 - 2016年4月9日

2016年4月 9日 (土)

モノづくりの革命から始まる社会変革(4)

この表題でのブログは3回で終わりにしておこうと思ったが、まだ大きな問題が残っていた。「モノづくりの革命」における生産手段の問題について述べておこう。

 前述の通り、資本主義社会は、生産手段(労働手段および原料素材)の私的集中化がその生産方式を特徴づけており、そこに雇用され、生産手段と結合される労働力の労働内容は細分化され単純化される傾向にある。同時にそれは資本家の意図と思惑を助ける頭脳労働者(エンジニアやデザイナーを含む)による労働の増大をも促進させ、それらが全体として資本主義経済体制特有のモノづくりの形態を生みだしている。
そこでは市場での価格競争に勝つ必要から、あらたな労働手段(機械など)が次々と開発され、生産力が押し上げられ、単位労働時間で生みだされる生産物の量は増え続ける。そしてそれに見合った大量販売が必要となり、大量販売システムが構築される。この過程でモノづくりの本来の主人公は生産過程から放逐され、販売部門や「サービス」部門などなどまだ人手のたりない労働部門に働き先を求めることになる。 こうして大量生産・大量消費体制の基礎が出来上がるのであるが、これは前述の通り過剰資本(利益を生まない資本)を生みだすことにも繋がり、金融市場のさまざまな動きなどで経済的不況や恐慌が生じることにもなる。それは 1930年代に世界恐慌として現実化した。しかし、その後、過剰資本を軍事費や労働者の生活資料など直接資本の再生産につながらない部門で消費されることにより、過剰資本の圧迫から逃れつつ大量生産・大量消費を拡大させる体制が築き上げられた。そしてその結果、いま地球の自然全体が人類の未来を危うくするような危機に陥っているのは周知の通りである。
 資本家の意図の下で次々と開発される労働手段は、機械から科学プラント、発電機・電動機を起点とした電気設備関係や情報機能を拡大させるコンピュータシステムなどへとどんどん発展を続けてきた。資本家たちはこれを「技術革新(イノベーション)」と呼んでいる。農業の世界でも同様に大規模機械化農業の増大、原野や森林の伐採による新耕地の開発などなどが押し進められる。小規模自営農民は農業大資本につぶされ吸収されていき、そこに雇用される農業労働者となっていった。
 こうして直接的生産者からもぎ取られ資本家の手に握られ、肥大化してきた生産手段は、生活者には無縁の存在となり、生活者は資本家達のつくるモノをただ買うだけで生きて行かねばならなくなった。そしてその生きるために必要なモノを買うカネを稼ぐために資本家に雇われて賃金をもらわねばならなくなったのである。言い換えれば、生産手段は資本家が労働者からその労働を搾取するための手段となってしまったのである。
 しかし、いつの日か資本主義社会が終演を迎え、労働者階級が生産の主役に返り咲いたとき、これらの生産手段はどうなるのだろうか?資本主義社会が生みだした高度な生産力がそのままポスト資本主義社会に引き継がれ、目的は変化してそれが直接社会共有ファンドを増やすために機能するようになる、というのが社会主義社会論者の一般的見方である。マルクスは、やがて生産力の高度化にとって資本主義生産体制そのものが桎梏となってそれ(社会的外皮)を爆破する日が訪れるとも言っている。たしかにそう言えるだろう。
 しかし、かつての「社会主義国」が行っていたような生産手段の「国有化」という形ではないと思われる。近代国家は資本の共通利害を代表する機関でしかなく、それをそのまま引き継ぐことは、形を変えた労働者支配でしかないからだ。
いまの高度な生産力を構成している資本家的生産手段の内容はあくまで市場競争に打ち勝ち利潤を維持拡大するための手段として最適化されているのであって、それが必要でなくなった社会では「生産手段の国有化」とはまったく異なった形態になっていくと思われる。
 大規模化した生産手段はすでに分散化を始めており、小規模でも効率よく複雑なモノをつくれる労働手段(例えば3Dプリンターなど)が次々と現れている。 またよく話題になることは、いま人工知能研究が進化しておりやがて人工知能が人間に取って代わる社会が登場するのではないかという話である。しかし私は資本主義社会が終演した暁には、そのようなことはありえないと思う。なぜならば、社会的生産の主人公が労働者・生活者自身であるならば、自分たちの人間的能力であり自己表現そのものである労働自体をそのための手段であるモノに置き換えよう等とは誰も思わないだろうから。人工知能が人間の労働に置き換えられるとすればその動機は、「人件費がかからない労働者」という見方をする資本家の視点でしかありえない。
 もちろんロボットなどは人間が行うには危険度の高い仕事や単純で耐えがたい仕事などを代行されるためには必要であろう。それはあくまで道具なのだから。
 このようなことを考え合わせると、ポスト資本主義社会では、地域分散型社会が再び再生され、いまの「国家」という単位はあまり意味がなくなるかもしれない。生活者はその生活手段を生み出せる範囲の地域で生産と消費の基本的サイクルを維持できる自立共同体をつくり、その地域自立共同体の連合としていまとは異なる意味でのボトムアップ的な 「クニ」が存在するようになるかもしれない。そしてそのような形で生活者はモノづくりの主人公となり、売るためにつくるのではなく「必要なモノを必要なだけ」つくることで成り立つ「コンパクト社会」が可能になるのではないかと思う。そこにおいてはあらゆる労働者・生活者自身が自ら必要なモノをデザインし、本来の意味での創造性を発揮できるようになる。これは馬鹿げた「ユートピア」であろうか? 私にはいつか必ず人類が向かうモノづくりの方向なのではないかと思われるのだが。
(以下「モノづくりの革命から始まる社会革命(5)」に続く)

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2016年4月 8日 (金)

モノづくりの革命から始まる社会変革(3)

 人類は、ロビンソン・クルーソーの様にたった一人で孤島で生きて行くこともできるかもしれないが、それは偶然であって必然ではない。普遍的な人類の生き方は、マルクスが「類的存在」と言っているように、共同体社会を形成して生きて行く形であろう。そこでは当然、その社会に必要なモノを共同体構成員全員が分担協力して生みだして行かねばならない。社会的分業である。そしてそこで作られたモノは必要な人々に必要に応じて分配されなければならない。そのようなモノの生産から消費までの過程が間接的にその過程に必要な分業種(医療、教育、複利厚生、法律関係など)も含めて継続的に行われることを前提にして初めて共同体社会が成り立つ。本来の価値とは、こうした社会の中で必要とされるモノを生産するのに平均的にどれだけの時間が必要であるかによって決まる値であって、それはその社会に必要なモノを生みだすために必要な労働力の量をも示している。だからその価値に応じて必要なモノを受け取る人は、自分もそれと同量の労働を社会の中で分担していることが必要であって、その原則が守られて初めて本当の意味での平等な社会といえるのだ。その共同体社会では、構成員それぞれが、自分の適性にあった形での労働を通じてその役割分担を果たすと同時に、そのことが社会の中での自分の存在意義として感じられるようになるための必要条件であろう。 もちろん、あるべき共同体社会は、その構成員が生きていくために必要なギリギリ最低限のモノしか生産するわけではなく、それを遙かに超えた量を生みだす。これが剰余生産物であり、その価値が剰余価値である。この剰余価値部分は、本来は共同体社会に共通に必要だが直接的にモノを生産する労働ではない労働や、障害や高齢など何らかの理由で働けなくなった人々への生活を保障するための社会的共有ファンドとして蓄積される。だから労働生産性が上がって社会的に剰余価値の量が増大すれば、社会構成員の生活は楽になり、老後や病気の際にも安心して生活できる体制が充実するはずなのである。

ところが今の資本主義社会では労働生産性が上がれば、労働者は不要となって首を切られるか劣悪な労働部所に回され、あらたに労働賃金の低い国々へと労働者をもとめて資本は進出する。それによって増大した剰余価値はグローバル資本家や金融資本の財産として吸い上げられてしまう。そしてその大部分は市場での競争に勝ちさらなる利益を上げるために投資される。一方社会的に共通に必要な財は税金として生活者から吸い上げられる。
 このように、いまの資本主義社会は、あるべき共同体社会とはほど遠い社会になっているのである。しかも人類共有であるはずの地球全体の自然はグローバル資本の利益をまもるために破壊され、生活者の生活は過剰資本の処理形態となった消費材の大量消費先として意義づけられ、過剰資本のゴミ箱的存在にされてしまっているのだ。
 このような、ほとうもない矛盾を突き進む資本主義社会の否定として描かれる「あるべき共同体社会」は決して絵に描いたモチではなく、当然の形としてわれわれの社会において実現されなければならない目標であるといえる。
 かつて、こうしたあるべき社会を目指して起こされた革命(例えばロシア革命)でも社会に必要なモノをつくっている労働者や農民がその生産のイニシャティブを握り、その代表者が政治を行うという社会が目指された(ソビエトとは労働者評議会のことである)。しかし、それを「あるべき社会」に向けて牽引すべき党が腐敗、独裁化し、労働者・農民は党の独裁的支配のもとで自由を奪われた。そのため途方もない矛盾の中を突き進む資本主義社会の方が「自由で民主的」というイメージが定着し、旧「社会主義諸圏」は崩壊した。そしていま資本主義社会は「われこそは普遍的社会の在り方なり」とでもいうように居直り、その矛盾を深めながら人類の危機に向かって突き進んでいるのである。
 この過程でいったい何が間違っていたのか、これを明らかにすることがいまの歴史研究にとっての最大の課題であろう。
  私は「モノづくりの在り方」という観点からこの問題に取り組んできた。もちろん「モノづくりの在り方」を変えてもそれだけでは社会革命は達成できないであろうし、社会全体の変革の中で「モノづくりの在り方」も変わって行くことになるのは当然である。しかし、基本は「生活者」というべき人々(大部分は直接間接に生産的労働やそれを支える労働に携わる人々)自身が自分たちに必要なモノを自分たちの手でつくり、直接自分たちに分配するシステムを構築することであろと思う。そしていま資本主義社会の中でそうした形の萌芽があちこちに存在し、成長しつつある。残念なことにその萌芽はいま資本主義的市場経済の法則の真っ只中に置かれることによって歪められ、ヘテロな形になっていかざるを得ない。
 しかし、私の本(「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」海文堂 2014)ではモノづくりの創造性が生活者の手に取り戻されることが目指され、それによっていまもてはやされている「デザイナーの創造性」がいかに危ういものであり、いかに社会全体にとって危機を加速するものであるかを訴えながら、可能であれば、すべての生活者が自分の得意な仕事の中で「モノづくりの創造性」を発揮できる社会を目指すあらたなボトムアップ的デザイン運動をも射程に入れている。
 ぜひ多くの人々に読んでいただき、ご批判をいただけることを期待している。

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2016年4月 4日 (月)

モノづくりの革命から始まる社会変革(2)

 もう一つ重要なことは、市場が「マス化」していることだ。昔の小規模生産を基礎とした商品経済ではある商品の市場が一気に社会全体や諸外国まで拡がることは少なかったといえる。しかしいまの資本主義社会では、大量生産、大量消費が前提であり、競争会社がひしめき合いながら隙があれば相手のシェアを奪おうと構えており、ライバル会社のある商品が売れれば、たちまちそれに似た商品が他の会社からも売り出され、過剰に生産されるようになるため価格も下がり「売れ筋商品」となる。そして買う側も「売れ筋商品」を買えば間違いがないと思い込まされる。

しかし当然少し経つと、どの店に行ってもその売れ筋商品ばかり目に付き、どこの家に行ってもそれが置いてあるあるという具合に、「飽和状態」となり、売れなくなる。企業は別のヒット商品が必要になりその開発に莫大な投資をする。だからデザイナーはいつでも「創造力」を求められ、ヒット商品となりそうなモノのデザイン開発に追いまくられている。

 ところがこうしたメジャーな商品の流れとは別に、「付加価値商品」と呼ばれるモノが現れる。それは本来の価値ではない「価値」が付加された商品である。資本主義社会では商品の「価値」とは売り手と買い手の間で合意が成立した価格のことを指すのであるが、実はこれは本来の価値ではなく見かけの「価値」なのである。本来の価値とは社会的に必要なモノをつくり出すために必要最小限どれほどの平均的労働時間を要するかで決まる。
ところがいわゆる「付加価値商品」とは、例えば本当はもっと多くつくり出せる商品を「限定商品」として少量しかつくらず、特別のブランドやカラリングで売り出し、それに対する購買欲を煽り立てることで実際の価値よりはるかに高い商品価格で売る商品のことである。少ない商品だから買い手が多数であればとんでもない価格となる。しかしこの価格は本当に社会的に必要なものでそれをつくるのに莫大な時間を要する場合とは根本的に異なる。
 また「スキマ商品」というのも現れる。メジャー商品や付加価値商品の市場のスキ間を縫って、マイナーではあるがそこそこ売れる商品を開発するのである。しばしば「生活者の視点に立ったアイデア」などというふれ込みで市場に出され、「便利」をうりものにすることが多い。しかしこれも「売るため」に開発される商品であることに違いはない。メジャーな商品と対抗するためにこういう「付加価値商品」や「スキマ商品」があちこちで出回る。これも過剰消費経済のひとつの典型的形態と見ることができるだろう。
 こうして次から次へと生みだされる「新商品」を買い手は巧みな宣伝や広告で次から次へと買わされることになる。生活者は「カッコイイ、あると便利、おもしろい」などという理由でそれらの商品への購買欲をかき立てられ、自分の生活はそういう商品を買うことで「自己表現」できると思い込まされている。そして買ったあとはすぐにほとぼりも冷め、それを廃棄して次の新製品を求める。実はここには何ら生活者の主体的自己表現など存在しないのだが。
 こうした売り手の思惑とそれに踊らされている買い手の行動と生活によって、生活からの廃棄物は増大し、それら莫大な「無駄」を生みだすための生産設備やエネルギーの消費は莫大なものとなり、自然環境はどんどん破壊され貴重な資源が脅かされていく。 しかしいまの資本主義経済はそのような莫大な無駄な消費を拡大していくことでしか延命できなくなっているのである。だから自然環境破壊やエネルギー問題はかけ声ばかりで一向に解決の方向に向かわない。資本主義社会ではもはや本来の意味での「経済」ではなくその正反対の「消尽」あるいは「自滅」の方向に向かっているからだ。
 この現代社会特有のモノづくりの在り方はいまやグローバル資本のもとで世界中に拡大し続けている。このまま行けば人類の未来はないとさえいえる。
 この社会ではヒトは人間としてではなく資本を生みだす手段としてしか見なされていない。しかし資本主義社会もヒト手(労働力)がなければ成り立たない。ヒトはだから資本増殖の手段でありながらその生活は資本の生み出した商品をそのために働いて支払われた賃金によって買い戻し、消費あるいは廃棄する「ゴミ捨て場」としての意義をもたされ、(買わされた)モノに溢れた生活が「豊かなで自由な生活」と思わせられることになっているのだ。
まずそのことに気づくことが重要である。

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2016年4月 3日 (日)

モノづくりの革命から始まる社会変革(1)

 海文堂から2014年末に発刊した「モノづくりの創造性--持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」という本が、あまり売れていないので、ここで主著者である私からここに込められた思想についてコメントしようと思う。

 いま私たちが生きている21世紀前半の時代は、世界中が資本主義経済体制のもとに置かれ、あたかもそれが人類社会の至るべくして到達した姿として人々の目に映っているようだ。そこでは「自由な市民」が自分たちの選んだ政治家が行う政治によって統治される社会があり、自由意志によって起業した企業家が自らの所有する財産(資本)で買い入れた生産手段によってモノをつくり、それを商品として自由に売って、そこから得られる利潤で自分たちの事業を継続発展させていく。そこには自由な競争が前提されていて、それによって市場での「原理」(いわゆる需要供給のバランス)で商品の価格が適正に決まり、それを買う側の利も維持される。
 しかし、この図式の中でその企業家のもとで働き実際にモノをつくるために働く人々は主人公ではない。その働き手は資本主義社会の原型である産業革命当時の社会と比べればおどろくほど多様な分業に分割され、頭脳労働を主とする商品管理や人事管理のための事務労働および商品そのものの設計や生産工程管理などを行う技術者、それに従って身体的労働を行い直接モノをつくる工場労働者や建設現場労働者、生産された商品を市場に運ぶ運輸労働者などなどである。
 こうしたさまざまな分業形態の労働者は、決してモノづくりの主人公ではなく、むしろ彼らはこうして働く労働の「対価」(実は対価ではないのだが)としてもらう賃金によってそれらの商品を街の商店で求め、買うことによって生活する「消費者」としてしか位置づけられていない。これに対して生産の意図そのものを握っている「生産者」とは上述した生産手段を所有する企業家のことである。
 ここにおおきな錯誤が生じる。いまの社会でのモノづくりは、実際にモノをつくっている(つくらされている)人々が生産手段を持たず、他方、生産手段を所有するのは、それによってモノをつくるために必要な労働者を雇用することのできる企業家であり、直接にモノづくり労働を行っている人々はその企業家の生産手段により、企業家の意図のもとにおいてしかモノづくりができない。
 その企業家はモノを商品として市場で売り、そこから利潤を得ることを前提につくる。だからこそ自身が所有する資本を生産資本としてそこに投入するのだ。そしてその生産資本の中に生産手段ばかりでなく労働力も含まれる。だからその企業家に雇用されて働く労働者(たとえそれが設計技術者やデザイナーという形であろうとも)のモノづくりの意図はその企業家の意図の実現のための労働力としてしか意義を持たされていない。デザイナーは企業家の意志決定に必要な選択肢をあたえるために自分のアイデアを提供することしかできない。
 企業家は、「消費者が買ってくれるような商品を努力してつくっています」という。そしていかにも「消費者」が主人公であるかのように振る舞う。だが実際には「消費者」は企業家によって「売るためにつくられたモノ」を買うことによってしか自らの意図を実現させることはできない。すでに決定的にモノづくりの主体姓を奪われているのだが、それに気づかされていないのだ。だから「生産者」である企業家にさまざまな不満や要求をぶつけることしかできないのである。生活者は自由に自分たちに必要なモノを自分たちの手でつくれない。実際に企業に雇用されてモノをつくっているのは自分たちや同じ立場の労働者たちであるにもかかわらず。本来、それらのモノは、それがなぜ必要なのかを知っている人々によってつくられるべきではないのか?われわれが社会の中で生活するために必要なモノをわれわれ生活者自身の労働によって生みだし、それを使うということが基本なのであって、それが商品である必要など本来まったくないし、まして初めから売るためにつくられたモノへの宣伝広告によって購買欲をかきたてられ本来必要もないのに買わされたりする必要などまったくないはずだ。しかしいまの経済はこうしたいわば過剰な消費(本来なくてもいいものを「必要」と思わされて買うことで生じる消費)を拡大させることによってしか維持できなくなっているのである。
 いま世の中の経済はこうした企業家( 産業資本家)によるモノづくりを土台にしてそれをとりまくさまざまな業種によって成り立っているが、そのすべては、モノづくりから生まれる価値によって回っているのである。現実にはいまでは「モノづくり」に必要な労働がいかに安くて済むかによって、労働力を獲得する場所が国境を越えてグローバルになっている、したがってそこから得られる莫大な資本も国境を越えてグローバルな存在となっているため、一国のレベルでは資本主義経済の仕組みは成立し得なくなっている。
これについては別途説明が必要であるが、要するにモノづくりの資本主義的形態のもつ矛盾がさまざまな形でのこの仕組みに特有な業種や資本主義的経済のあらたな仕組みを生みだし、金融資本や商業資本などが複雑に絡み合った社会となっており、社会のために働く人々のほとんどはこうした資本主義社会特有の分業体制の中での労働によって得られる賃金によってその生活を支えている。
  こうした社会を「あるべき社会」として描くことがこの社会を支配している者たちのイデオロギーであり、これが労働者たちに「自由で平等な市民社会」という幻想を植え付けているのである。そしてそうしたイデオロギーと仕組み全体を支えるために「国家」があり、そこで政治的な統治が行われる。したがって、この支配的イデオロギーの虚偽性を知ることから、政治的な社会変革が始まらざるを得ないのだが、他方で同時に、それを基本的に支えるモノづくりの在り方における矛盾を変革していくことが必須の要件なのである。
 一口にいえば、モノづくりにおける変革なしに政治的変革はありえないのである。
(つぎに続く)

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