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2016年4月10日 - 2016年4月16日

2016年4月15日 (金)

モノづくりの革命から始まる社会変革(5)

 この「モノづくりの革命から始まる社会変革」シリーズでもう一つ忘れてはいけないことがあるので、書きとどめておくことにした。

 それはこのシリーズの(1)〜(4)に書いたようなモノづくりの本来の姿を求める考え方は私の40年にわたるデザイン研究の中で、現在の「デザイン」への批判を通じて今後のデザイン研究の在り方を私なりに考え抜いてきたものであり、決して思いつきのレベルではないということである。それは以下の様に要約できる。
(1)「デザイン行為」の歴史的特殊形態である職能(分業種)としての「デザイン」に現れる現実の矛盾とその根拠およびそれへの批判。
(2)批判を通じてあきらかにされるデザイン行為の本質は、いわゆる「広い意味でのデザイン」という横並びに共通点を抽出する浅薄な抽象による規定ではなく、現在の「デザイン」における矛盾の歴史的根拠にまで遡ってそれを否定的に抽象することからのみ明らかにされる人間の普遍的労働過程の中核的部分を占める行為であることを示すこと。
(3)それはまた現在の設計論やデザイン論への批判でもあり、その欠陥をあきらかにすることからあるべき人間労働の姿とその論理を描き出すことが必要であること。
(4)本来あるべき人間労働の論理が現実の労働において実現されるための方向を示すこと(これはまだ結論がでていない)。
このうち(3)についてはこの「モノづくりの革命から始まる社会変革」シリーズの中でまだ十分に述べられていないので補足しておこうと思う。
 いまの代表的設計論である「一般設計学」においては、設計とは要求機能の実体概念への写像であるとされている。それは確かにそうなのであるが、問題は、その要求がどこから出てくるものなのかである。実はそこが非常に重要なのであって、それによってなぜそれを設計し作らねばならないのかの理由とともに、それを実現させるための「機能」の内容も決まるのである。しかし一般設計学ではそのことは不問に付される。おそらくそれは設計技術者の仕事の範疇ではないと考えられているからであろう。
 設計技術者にとって「要求」はつねに外在的なのである。なぜか?それは設計技術者という職能が誕生した歴史的経緯によるのである。そしてそのような職能が誕生したことによって初めて「設計行為」そのものが研究対象になりえたのである。
 この歴史的経緯とは、設計技術者がまさに資本主義生産様式の確立の過程で登場した職能であったということであり、その資本主義生産様式が何を目的にモノをつくるようになったのか、そのためにどのようなあらたな労働形態が必要となったのか、という歴史的背景を明らかにすることなのである。誕生の論理が存在の論理なのである。
 それはモノづくりの手段(生産手段)が生活者から資本家の手に奪い取られ、生活者が資本家の利益獲得のために労働し賃金を得なくては生活に必要なモノを手に入れることができなくなった結果なのである。
 したがって設計技術者やデザイナーがいくら「人間生活を豊かにするための仕事」と夢想してもそれは空想に過ぎず、現実にその職能を通じて生活者にとって理想的な文明社会など生みだすことはできないし、むしろその正反対の方向に進んでいることがいまや誰の目にも明らかになってきている。設計論やデザイン論がそれを尻押しするようなことがあってはいけないのは当然だろう。
 そこで私はまず、普遍的な人間労働がどのようなものであるのか(あるいはあるべきなのか)について考えた。
それは「個」としての労働が同時に「類的存在」としてその個が構成員となる社会にとっても意義のある労働であることが必要であろう。そのためにはまず「個」における労働過程の論理をあきらかにする必要がある。そこで私はヴィゴツキーの三角構造に着目した、C. S. パースもそれと似た考え方で人間の表現行為について考えているが、ヴィゴツキーはそれを労働の論理として位置づけているからである。
この問題については私の著書「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現にむけて」(海文堂) 2014の第一部に詳しく書いてある。
 要は、主体{自分)と客体(外的世界)の間に生じる適応矛盾を克服することがモノづくりの動機であり、そこで何を作るべきかがまず考えられる必要がある。そして次にそれをつくるための手段(道具)が必要となる。そこで初めてその目的と手段との主体的関係づけとして生みだされるモノとそれを生みだす手段の「機能」が決まるのである。またこうして作られたモノは社会的存在としての「個」である自分と他者を含む社会の中でその意味を表現・理解する媒体になり、そこに本来の意味でのコミュニケーションが成立するのである。
 このすべての過程が主体の意図の実現過程であり、設計でもあり、製作でもあり、表現でもあり、本来の意味で創造的な過程といえる。労働過程とは本来 そのようなものであると思う。設計論とはこのような意図実現過程の論理を明らかにすべきものなのである。(「デザインにおける意図と創造性」人工知能学会誌20巻4号、PP.379-386、2004年7月)
 そのような本来あるべき労働過程が実現出来るような社会にするために私たちはあらゆる場であらゆる形でそこに向かうための努力をすべきときがきているのではないだろうか? たとえそれが何世代にわたる時間を必要としようとも。

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2016年4月12日 (火)

大学進学高校のランク付けで社会の差別化を煽る週刊朝日

 旧民主党に近い政治的立場で「リベラル派」マスコミの旗手を自認する朝日新聞社であるが、週刊朝日「大学別合格者」特集にその悪しき特徴が顕著に現れている。

 週刊朝日は毎年受験シーズンにこの特集を大々的に行っているが、要は東大・京大など有名大学合格者の多い高校のランクづけである。週刊朝日はこれを通して、結局受験戦争→就職線線での勝利という形で表れる、現代資本主義社会における労働力商品市場での熾烈な労働者予備軍どうしの競争を煽り立てる結果になっている。
 子供を持ついまの労働者・生活者の家庭では、受験戦争に勝ちぬくのために必要な教育費は半端ではない。一生かかってやっと手に入れる持ち家(これは労働者にとって生活必需品である)と同じくらい、子供の教育費が大きな負担になってるのだ。そしてそれがひいてはいまの若い夫婦が子供を多く持てない理由の一つでもあるのだ。
 この受験戦争とは資本家企業による労働力商品の選別の場である労働力商品市場(いわゆる就職戦線)で自分がもっとも優れた労働力商品であることを売り込むために必要な最有力手段である「有名大学卒」のタイトルを得るための競争である。
 たしかに有名大学に入学できるような学生は頭が良く、学業成績優秀なのであろう。しかし、そういう若者達が労働力商品市場で勝ち抜き、社会の上層部に進出し、資本家や政治家などの支配層として世の中を牛耳っていくことができ、他方、労働力商品市場で優れた商品ではないと烙印された労働者予備軍たちは、その後被支配階級の労働者として惨めな人生を歩まねばならなくなる。
  こうして資本主義社会では被支配階級である労働者どうしが互いに労働力商品として競争し合う関係を持たせ、ともに団結することを未然に防ぐとともに、その競争から「優秀な人材」を支配層に吸収できる仕組みができているのだ。こういう仕組みこそが「自由競争」を旨とする資本主義社会の階級制の特徴なのである。
 朝日に代表される「自由と平等を旨とするリベラル派」の本質とは「生活者の味方」を装って本当はその仕組みを維持し助けているのである。そしてそれに近い「民進党」なども同じようなものだろう。労働者・生活者はそんな連中のごまかしにだまされてはいけない。
 そして頭脳明晰な学生諸君は受験戦争に勝つことやこうした世の中で支配層になることを目指すのではなく、本当に労働者・生活者が自分たちの存在意義を主張し社会の主人公になれるような世の中を実現させることを目指すべきではないのか?

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