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2016年5月29日 - 2016年6月4日

2016年5月31日 (火)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その3:自由の質的変革)

 ところで、最近の安倍政権でもささやかれていることであるが、個人の自由にもある程度制限があって然るべきではないか、という議論である。安倍政権にはこれを「公共的利益を守るため」と称して「おおやけ」という形で国家の立場を個人の上位に持って行こうとする策略が見え見えなのだが、個人の自由を重視するいわゆるリベラル派も個人の自由には自制がなければだめであるという。最近、あまりにも利己的な主張が増えて、他者の立場を配慮することなく自分の主張を押し通そうとする事例が増えているからこういう議論が出てくるのだろう。

 しかし、これはブルジョア的自由の典型的矛盾の一つと考えて良いであろう。もともとブルジョア的自由は、私的所有の自由が基本であって、それを維持するために「自由な競争」による富の奪取を正当化するのである。自分がリッチになれば他者が貧しくなっても仕方がない。それは自助努力が足りなかったからだ、ということになる。競争に勝った者は負けた者より優位に立つのは当然だ、というわけだ。こうしていまの資本主義社会は競争相手を容赦なく倒しながら発展してきた。
 それに対して、プチ・ブルジョア層の代表的立場であるリベラル派は、私的所有の権利を認めながらも相手の立場をもっと考えるべきだという立場であるといえるだろう。要するに「理性ある資本主義」を主張する。資本主義社会がまだ余裕があった時代にはそれがある程度通用した。しかし、いま資本家たちがそんな呑気なことを言っていたら、競争相手にたちまち打ち倒され、自分の破滅を招くような危機的な状態に資本主義社会全体が突入してきたのだ。だからリベラルの代表である日本の民進党やアメリカのオバマ政権はその理想とは裏腹に、経済の実質を握るグローバル資本の競争の前にほとんど何もできずに終わり選挙民の期待を裏切った。
 一方、「大衆」と呼ばれる人々は、そのほとんどが現実には労働者階級に属しながら、ブルジョア的イデオロギーに染め上げられてしまったため、そうした自覚がなく(そうなってしまったのは労働組合にも責任があるのだが)、資本家的経営者からサラリーをもらって個人生活を築くことがもっとも大切なことになっているため、この自由を護るために自己主張をする。これは労働者の権利という意味ではもっともなことである。しかし、それがブルジョア的自由という観念に支配されているため、その延長に他者の立場を考えない利己的な主張が現れる。「自由な個人」としては自分が雇用者に売り込んだ労働力商品である以上、他の労働者は労働力商品としては競争相手である。呑気なことを言っていたら職を奪われかねないから競争相手を蹴落とさねばならなくなる。だから他の労働者に自分の個人としての自由を奪われないように自己防衛することになる。いまヨーロッパが渦中にある移民問題がその典型である。これがブルジョア的自由という思想の「コインの裏側」であり、ポピュリズムの動力源でもある。
この思想の延長上に個人と「おおやけ」の関係があり、個人間の「自由の衝突」を調整する機関として国家や法律が機能することになる。ブルジョア的自由という思想においては個人の自由と国家への奉仕は裏と表の関係ともいえる。だからリベラル派はこうした支配階級の根本的矛盾を乗り越えることは決してできないのである。
 だが、階級的意識を持った労働者が目指す自由はこれとは質的に異なる自由である。それはまず第一に社会は単なる「利己的個人の集合体」ではないということを知っていることである。本来の社会は一個の有機体であり、すべての働く人々がそれぞれの固有な能力によってその有機体の一部を担っており、その中で社会的に必要なモノやシステムが生みだされ、分配され、機能し、消費されている。だから他者との社会的紐帯を前提としなければ自己の自由はありえないことを知っている。たとえ他者との競争があってもそれは互いに相手を高めるための競争であって、決して相手を打ち倒すための競争ではない。そのような関係の中で自分を高めていくと同時に社会を高めていく自由が労働者階級的自由である。
 日本をはじめアジアでは家族的紐帯が古くから社会の倫理的側面を支えてきたが、それは古代や中世においては宗教的倫理と相まって支配階級の統治の手段として利用されてきた。その残滓が日本でもつい70年前まで通用していた。だから資本主義社会が西欧で生まれ、アジアに持ちこまれて「近代化」が進められる過程で、西欧的「個人主義」や「自由主義」への反発が当然現れ、それは天皇を頂点とする父権的家族を紐帯として国家をイメージさせる思想になっていったと考えられる。
 ここでいう労働者階級が主導権を持つべき社会は、それとは完全に異なる。個々の労働をつなぎ合わせることで個人の能力を社会全体の能力としていくボトムアップ的紐帯による社会と考えるべきであろう。そこにはブルジョア的自由やアジア的家族主義と全く質的に異なる自由があり、それを支える倫理があるはずである。
それが具体的にはどのような形の社会となって現れるのかは、これから先の歴史の中で労働者達が直面する現実的諸矛盾との闘いの中で勝ちとっていく自由の形によって決まるだろう。

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2016年5月30日 (月)

ブルジョア的「自由民主」を超えるものは何か?(その2:労働者階級の自由とは?)

 いまブルジョア的自由を体現している支配層は、一国内での市場競争を超えて、世界全体が一つの市場となって競争し合う形となっている。競争の主役は資本であり、その人格化である資本家たちである。彼らが雇用する労働者はいまでは頭脳労働者が大半を占め、身体的労働を行う労働者は「生活水準の低い」国々の労働者や「先進資本主義国」の貧困層がほとんどである。頭脳労働者はいわば資本家の頭脳の代行を行う労働者であり、高学歴者が多い。これら頭脳労働者の多くは、国境を越えてさまざまな国へ出向いてその国の労働者の管理などを経験する。そしてやがてその中からもっとも能力が高いと資本家に認められた者はその企業の経営陣に加わる。その名の通り資本の機能を実行する「エグゼクティブ」として。

一方身体的労働者は単純な作業を主としており、代替がきくため、企業の都合で首のすげ替えや雇い止めなどにされやすい。「使い捨て労働者」である。そのためさまざまな企業に短期間雇用されることを繰り返す非正規雇用が多くなり、つねに、より賃金の低い国々の労働者に仕事を奪われる脅威に晒され、不安定な生活を余儀なくされる。彼らは生活に余裕がないため結婚もできないことが多く、たとえ結婚して子供ができても高額な教育費が払えないので、子は大人になってからも安定した職に就けないことが多い。

 富裕な労働貴族たちはますます富裕になり、「起業」などによって新興資本家(つまり支配階級の一員)になるチャンスも得やすくなる。一方下層労働者はますます貧困化し、他国の低賃金労働者たちと劣悪な条件で競争しなければならなくなる。こうして労働者間の格差は拡大する。

  いま資本主義経済化の進んだ国では、情報、サービス(介護・医療なども含む)などの産業に従事する労働者が増えており、他方で工場でモノを作る労働者は生産拠点が低賃金労働の国々に移ったため減少しているが、土木建設、物流、小売り業などモノの世界で働く労働者は増えている。当然ながら世の中、情報やサービスだけでは成り立たず、生活を支えるモノが必要だからである。また毎日人々の労働や生活を支えるための社会インフラで働く人々、例えばゴミの収集や道路の清掃・補修あるいは危険な電柱上や汚い屋根裏などで電気配線などの維持修理を行う人々の存在なくして社会は成り立たない。社会を一つの有機体と考えれば、身体的労働も頭脳労働もともにその手足や脳に当たる。どちらが低級でどちたが高級な仕事かなどという比較はできないはずだ。そういった比較ができるのはただ労働力が商品として価格を付けられる社会においてのみである。頭脳労働者は身体的労働者に対して、優越意識を持ち、身体的労働者は自分自身を蔑視しがちである。しかし、ともに社会が必要とする労働を行う労働者階級の一員であり、そのことに同じプライドを持つべきであるし、互いにそれを認め合うべきである。
 労働者が階級としての自覚を持ち、団結するというのは、単に雇用主である資本家に賃上げや労働条件の改善を求めるためだけではない。それはほんの端緒に過ぎず、そこから始まる新しい社会の仕組みづくりへの一歩である。それは資本がとっくの昔に国境を超えてグローバルに循環しているのだから当然それに対決するために国境を超えて団結しなければならないはずだ。
資本家階級は国境線を引き「国民国家」という形でその支配的統治の普遍化を図るが、それは同時にまた「私的所有の自由」と「自由な市場競争」という資本のイデオロギーによって生みだされる「国民国家」間での戦争を繰り返すことになる。一方でグローバル化しながら他方で「国民国家」を普遍化しようとする矛盾。そしてつねにその矛盾の犠牲者は「ナショナリズム」というイデオロギーによって戦場に駆り出される労働者階級なのである。
 社会の主役である労働者階級による社会的労働が、それを自らの私的所有を増やすための手段として用いる資本家階級によって支配されてしまっている社会、それが資本主義社会である。
その社会に内在する「自由」の対立は一言でいえば、「社会的生産を私物化する自由」と「社会を支える労働者の連帯的所有に基づく自由」の対立である。
そして「社会的生産を私物化する自由」 を主張する資本家層は、資本家のために賃金奴隷として働く労働者の存在なくしてはあり得ないが、労働者は資本家によって私物化された社会的生産を資本家たちの手から社会全体のために取り戻すことによって、はじめて自由な労働者として解放されるのである。
それは、商品の購入によって、つまりお金によって他者の生みだした富を自分のモノとして私有化する自由では決して なく、人々の協働によって生みだされる社会的富をその協働の一員である自分がその労働の成果を他者と分かち合い、それによって自分と他者の社会における存在意義を互いに理解し合うことのできる自由である。

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