« 2016年6月5日 - 2016年6月11日 | トップページ | 2016年6月19日 - 2016年6月25日 »

2016年6月12日 - 2016年6月18日

2016年6月14日 (火)

柄谷氏の憲法観に見るリベラル・インテリの危うさ

 今朝の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄「憲法を考える」に、柄谷行人氏の「9条の根源」という論評が載っていた。柄谷氏は、いまの憲法は自民党の改憲策動では変えられないという。その根拠として、現行憲法は自発的なものではなくアメリカから押しつけられたものではあるが、それは日本人の無意識レベルでの「超自我」の問題なのであり、人間の内なる死の欲動である「超自我」が外に向けられて攻撃欲動に転じた結果としての悲惨な戦争体験がもとでそれが逆に内に向けられた結果であり、その意味で9条は日本人の「超自我」になってしまったというのだ。

 柄谷氏は、同じ敗戦国であるドイツ人が戦争に対する反省が深いといわれ、それに比べると日本人は倫理性や反省に欠けるといわれるが、決してそうではなく、それは9条という無意識レベルで存在する日本の「文化」となっているのだという。
 氏はさらにいう。現行憲法の1条(天皇条項)と9条はいわばセットであって、最初は9条は1条の副次的産物だったが、後にそれが逆に9条こそが重要になった。天皇が9条を支持しているのは9条を守ることが1条を守ることになるからだ。現行憲法は、カントの「永久平和のために」という精神が実現されたものともいえる。もし国連で日本が9条を実行すると宣言すれば、すぐに常任理事国になれるだろう。9条はたんに武力の放棄ではなく、日本から世界に向けられた贈与なのだ。そしてそれによって日本に賛同する国が続出し、それがこれまで戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになり、カントの理念に近づくことになる。カントの「諸国家連邦」は非現実的と批判する人もいるが、それは人間の善意や反省によってできるのではなく、人間の本性にある攻撃欲動が発露され、戦争になった後にできるのだ。国連も日本国憲法のそのようにして生まれた。それが何で非現実的といえるのか、と主張する。
 たしかにユニークな把握かもしれないが、いかにもリベラル派観念論哲学者の考えである。現実世界は決してそんな甘いものではないだろう。現に戦争の後にできた国連は世界中で発生する戦争をおさめることができず、日本国憲法も再び軍事力の保持に向かって動き出している。しかし、かといってもちろん安倍政権が目指す対外的軍事力として国軍を復活合憲化し、それを前提とした国内治安取り締まり強化をさせることが現実的というのも間違っていると思う。それはかつてわれわれが通ってきた道に再び戻ることになるからだ。
 私は「超自我」よりも「真の反省」が重要であると考える。なぜなら無意識化された「超自我」はどのような形に意識化されるか分からないからである。それは再び、前とは違った形で「国家のために死ぬ」という精神構造を復活させるかもしれない。昨今のスポーツ振興などに見られる国威発揚の有様をみてもそれが危惧される。
日本人の精神の中に、もし無意識化された9条があるならば、それが戦争体験への反省としていかなる明確な意志の形をとるようにできるかが問題ではないのか? 
私は、その意味で、現行憲法9条はいかにも観念的「戦争放棄」であるように思える。それは柄谷氏がいうように1条と9条がセットとして作られているという事実からも明らかである。近代における戦争は究極には近代資本主義社会のもっとも典型的な統治形態である「近代的国家」と「近代的個(自我)」の関係における矛盾に根源があると思う。
 反戦の問題を深くしかも現実的にとらえるならば、資本主義国家における個人の実存がかかえる矛盾とそれが生じる物質的基盤つまり資本主義社会そのものの根本的矛盾が問題となるはずだ。そしてそこにこそ、資本主義社会以後の社会への歴史敵展望が開かれるのではないだろうか?
柄谷氏に見られる様なリベラル・インテリの主張がもつ危うさは、やがて世界中で国家間の戦争への危機が高まってきたときに、まったく無力な反戦観であり、安倍政権の主張する改憲と国民総動員の軍事国家への道を阻止することなど決してできないことを示すことになるだろう。第一次世界大戦の際の社会民主主義者たちがそうであったように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年6月5日 - 2016年6月11日 | トップページ | 2016年6月19日 - 2016年6月25日 »