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2016年7月3日 - 2016年7月9日

2016年7月 4日 (月)

日本デザイン学会第63回研究発表大会での発表内容

7月3,4日に上田市で開催された表記学会で研究発表を行った。

テーマは「デザインの基本問題を再考する(1)ー私たちは本当に自分たちの生活を「デザイン」できているのか?」である。
 発表の目的は、すでにデザイン研究が行われるようになってから1世紀近い年月が経ち、多岐にわたる研究発表がされるようになったが、いまだに議論されずに残された基本的重要問題がいくつもあり、それらを再び取り上げて問題提起することによって今後の議論へのきっかけを生みだそうという趣旨である。
 詳しい内容に関しては、当日発表に用いたパワーポイントのファイルを下記にアップロードしているので、それをご覧頂きたい。
 
ここでは要点のみ記しておく。
デザインの現状について次の3点を中心に問題提起する。
1) 私たちは本当に自分の生活をデザインできているのか?
 生活の中には「デザインされたモノ」が溢れている。私たちの生活は便利にはなったかもしれないが、そこに私たち自身の生活に対する意図や美意識が表現されているのか?
2) デザインの二極化
 普通の生活者は、量産メーカーのデザイナーがデザインした商品を購入して生活空間を形成する。そのため画一化された生活空間を形づくる。一方で個性あるデザイン商品や工芸品は高価で富裕層しか手が届かない。
3) 持続不可能な経済体制
 経済は消費拡大を要求し、企業は販売促進のため新製品を次々と発売し、そのために莫大な資源とエネルギーを消耗する。そのため資源枯渇や環境破壊が進む。一方でまだ使えるモノがどんどん捨てられ、廃棄物が環境を汚染する。しかしそれを誰も止めることができない。
 次にこのような現状が生じてきた歴史的経緯を考察する。それは、モノづくりの資本主義的変貌についてであり、まず次の点が挙げられる。
(1)職人工房での「使うためのモノづくり」が生産手段の買収を通じて資本家に支配されることにより、「売るためのモノづくり」に変貌していった。
(2)「売るためのモノづくり」に適した形で行われた分業化とそれを基礎として展開された産業革命により登場した機械制大工場。そして生産手段を資本家に奪われた職人や農民などの生活者が、生活のために資本家の工場に労働者として雇用されねば生きて行けなくなった。
(3)それにより生活資料がすべて資本家企業の生みだす商品となり、生活者は資本家から支払われる賃金をその商品を買って生活するために用いなければならなくなった。
 こうした状況を基礎として、資本家的分業化の中で作り手から奪われたモノづくりの目的意識が、資本家のそれとして現れ、それを代行する新たな分業種としてエンジニア、職業的芸術家などが登場した。しかしそうした分業化の矛盾が生みだされるモノの在り方の堕落として現れ、それに対する批判や反省が様々な形のデザイン運動を起こさせた。しかしいずれもそれらは目的を達成できずに終わっている。
 一方で、アメリカを中心とした量産技術の先進国では、モノの過剰生産が問題となり、その過剰資本化がもたらす経済恐慌が起きた。しかし、その資本主義体制の危機において、過剰資本を、不生産的な消費によって処理することで恐慌を回避する政策が打ち出され、そこから現在に通じるいわゆる消費主導型資本主義が登場した。
 その中で、生活資料としての耐久消費財の量産とその販売促進が大きな役割を演じることとなり、その中で、そうした商品の販売促進のためにインダストリアルデザイナーという新たな分業種が登場した。
 その後、「IT革命」により「モノのデザインからコトのデザインへ」などといわれ、デザインという言葉の内容が著しく拡大され、抽象化されたため、デザイナーという職能の内容も曖昧になっていった。
 一方で過剰消費が常態となり、そのために地球環境や資源が破壊される。しかしそれをやめれば経済が成り立たない。その中でその過剰消費を推進される役割のデザイナーには、この文明的危機を食い止めることはできない。
 いま、必要なことは「何を作るか」よりも「誰が誰のために作るのか」を問うべきであり、ここでもういちど、生活者自身が自分たちに必要なモノを自分たちの手で生み出せる仕組み考え、それがメジャーとなれるような社会経済的基盤を生み出すことを考えねばならないのではないか?そしてそれはデザインだけでは成しえない問題でもある。

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