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2016年1月17日 - 2016年1月23日

2016年1月21日 (木)

資本主義社会とは何なのか?<3ー「市場原理」による労働力の社会的配置>

 (2016.05.12一部修正)

どのような社会であっても、さまざまな人々によるさまざまな形の社会的に必要な労働の分担(社会的分業)によって社会全体が維持されるが、そのためには社会全体としてどのような労働部門にどれだけの労働力が必要であるかつねにが問題となる。前近代的階級社会では、支配者(王など)とその下部組織が一方的トップダウンでこれを行ったが、当然それはつねに実情との食い違いが生じ、一方で有閑的労働部門があるのに他方では過酷労働で次々と労働者が死んでいく労働部門があるということもあったようだ。

しかし近代資本主義社会では、商品市場がこれを実現させている。社会的に必要なモノを生み出すある労働部門で、そこから供給される商品の需要が増え、商品が市場で足りなくなれば、その商品の価格が上昇し、生産を増やす必要が出てくるので労働力が足りなくなる。そうすると今度は労働力商品市場での当該労働部門労働力が値上がりし、労働者はその部門に高い賃金で雇用されるようになる。そうなると労働者がその部門に殺到し、やがてその部門で必要とする労働力は満たされる。一方、生み出される商品が市場でダブついてきた労働部門では、労働力が余り、賃金は低下し、それでも余る場合は労働者は解雇される(資本家はこれを「人員整理」という)。再び労働市場に放出された労働者は、賃金の低い部門でも甘んじて職を求めなければならなくなり、結局再び労働力市場では労働力が平均的価格にもどる。

たしかに、このような資本家的市場を通じた労働力の社会的配置の調整は、支配者のトップダウンでなく「市場原理」にもとづくものであるのだが、つねに「市場で売れる」ということが社会的労働部門全体の目標となっており、この暗黙の力が各労働部門を経営する資本家達のドライビングフォースとなっているため、労働者はそのための手段に過ぎない。このため資本主義社会では社会的労働は資本家的な分断によるこの社会特有の分業形態を取っており、労働者の巧みな職人ワザやその養成にかかる時間は資本家にとってはカネと時間を無駄にし、そこから生み出されるモノの価格を高くする労働形態なのである。だから労働はつねに細分化され単純化され、やがて機械に代行させてしまう方向に向かう。これは一方で商品市場での価格競争に勝つための相対的剰余価値の増大(資本家的「生産合理化」) をめざす行為でもあり、生産性はこれによってどんどん高められていく。他方では単純化された労働は容易に「入れ替え可能」な労働となり、労働力市場での労働力商品の価格を低くできるとともに、容易に異なる労働部門への融通が可能になる。

 こうしてある部門で労働力が不足しても、その部門の資本家にとって労働力市場から容易に安い労働力が得られるようになるのである。
 こうして資本主義社会では「市場の法則」を通じて労働力商品という形で労働力の社会的配置も行われている。しかし資本家の利潤獲得競争だけに任せておくと、市場での競争に勝つためのいわゆる生産性向上とともに上昇する生産力が商品市場での過剰を生みだし、生産と消費のバランスが急激に崩れることになる。そのため社会全体が経済恐慌などに陥ることがあるため、いわば総資本の立場でこれを全体として調整していく必要が出てくる。そこに資本主義社会での国家とその政府の役割がある。「中立」を装う政府や役人達の本質は「総資本代表政府」なのである。しかし資本主義イデオロギーではこれが「公(おおやけ)」の立場とされる。
 
 こうして資本主義社会の労働者にとっては労働内容そのものはほとんど選択の余地もなく、何はともあれ資本家に雇用され、労働賃金によって生活を維持することが第一の目的とならざるを得ない。彼の労働は彼自身の主体的意志によるものではなく、資本家の意志を実現させる行為にすぎないからだ。
そこで資本主義社会での労働形態の実態を見てみよう。
  資本主義的分業の進展によってモノづくりはその設計や販売などのような頭脳労働を主とする部門と、製造・建設のような身体的労働を主とする部門に分かれ、前者はその能力の養成に高度な教育が必要であることから労働賃金が相対的に高く、後者は単純労働であるため賃金が低く抑えられている。労働内容も前者の頭脳労働者は資本家の意図や戦略を代行する立場にあり、後者はそれにしたがって具体的なモノを生み出すという意味でより「下位」に見られる位置に置かれている。
  しかしやがて資本家的教育産業は、この頭脳労働者への需要に応じた「人材」を大量に排出するようになり、逆に身体的労働者の供給が減り、賃金も高騰した。そこで資本家達は競争に勝つために身体的労働が必要な部門を競って賃金の安い国へと移していったり(生産拠点の国外流出)、低賃金労働に応じれくれる移民労働者に依存することになった。そして国内の身体的労働者達は「整理」されるか、いわゆる第3次産業や非正規雇用へと追いやられたのである。
 やがて、世界はインターネットとという情報通信網に絡め取られ、すべてがこれを前提に動き出すことになったため多くの頭脳労働者がここに吸収された。しかし社会的必要労働は情報のやりとりだけでは決して済むものではない。情報はモノの別の側面に過ぎず、それは必ずモノの生産と消費およびそれを結びつける物流を必要とするのであって、結局情報産業が増大すればそれに応じたハードの生産や物流も増大する。そしてそれは物流関連産業での過酷な労働を生みだし、同時に頭脳労働者と身体労働者の世界は国境を越えて世界中を資本による巨大なネットワークとして結びつけていった。
 いま世界全体のモノの生産と消費はこの情報網と物流網を支配する一握りの「グローバル資本」によって支配されていると言ってもよいだろう。そしてそれらのもとで雇用され働く世界中の労働者達はみな個々バラバラな立場であちこち職場を変わり、ほとんどが非正規雇用というかたちで自分の人生の将来も見えない不安定な希望のない生活を強いられている。彼らは皆ともに同じ立場に立たされているにも拘わらず、それぞれ「国家」の境界線内に閉じ込められ、互いに労働市場での競争相手としてしか見ることができなくさせられている。
 こうしていまや労働の社会的配置問題は、一国内の問題ではなく世界スケールでの問題なのである。そして社会に必要なモノづくりは一国単位では不可能になっている。われわれが日々商品市場で目にする生活資料はどれを取ってみても世界中の労働者階級による産物なのである。なのに、それは一握りのグローバル資本の巨大な富を増やすためにつくられたモノであり、われわれはそれを消費することで彼らに奉仕しているのである。この現実を知れば、われわれの生活が決して「豊か」などではなく、惨めな賃金奴隷状態であることが分かると思う。

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2016年1月18日 (月)

資本主義社会とは何なのか?<2ー価値とモノづくり>

(2016.05.12一部修正)

前回は、資本主義社会の階級的本質について述べたが、今回はあらゆる社会に共通する「モノづくり」の世界と価値の関係を歴史を追ってみることで現代資本主義社会でのモノづくりの特殊性について考えてみよう。

だれでも知っているように、どんな社会でも、その社会を構成する人々は、自分たちの生活に必要なモノを生み出し、それを消費(使用)することによって生き、生活している。この社会を成立させるに不可欠な生産と消費の在り方が、その社会の歴史的形態を形づくっている。

モノはその社会特有の労働の分担形態(社会的分業形態)によってさまざまな労働の形で生みだされる。労働形態は社会的要因(階級などによる生産関係)によってその時代特有の形態と社会的構造を形成する。そしてそれはその時代の技術的水準のもとでありとあらゆる可能な形態をとる。こうしてその時代特有の階級関係がそれに相応しい社会的分業種を生み出させることになる。

 生み出されたモノは、その社会特有の階級的所有関係を通じて、社会構成員のもとに分配される。分配は何らかの形での「交換」を媒介とする。本来的に(階級のない社会)は、モノを必要としている人が、自分が社会的に必要な労働の一部に関わった割合を示す労働時間数に相当する「価値」を持ったモノと交換することが出来る。言い換えれば、価値は、社会的に必要な労働一般への参与の割合を労働時間数で示すものであり、個々の具体的な労働がそのような形で一般化(抽象化)されてとらえられることによって初めてその量が決まるものである。

 しかし歴史を顧みれば、古代の奴隷制社会では、モノを生み出す奴隷が、その肉体的存在そのもの、つまり労働者自身を交換対象として差し出す。奴隷の買い主は買い取った奴隷を死ぬまで働かせ生かすも殺すも自由である。中世の封建社会では、農民は領主(もともと「領主」は戦争などで奪い取った土地を自ら所有するようになったのであるが ) に土地(すなわち生産手段)を貸与され、そこから生み出されるモノのうち、農民が生きるために必要な農作物部分を除いた残りすべての生産物を領主が租税として獲得する。ここでは労働時間ではなく生産物の量が問題となる。つまり土地支配者と農民労働者との間で行われる、土地(生産手段)とそこから生み出される産物(生産物)との交換である。ここでこの体制を維持するのは超えることの出来ない封建的身分制度による身分の違いとして既成事実化された階級の存在である。

 やがて農民による土地の生産力向上努力によって剰余生産物の量が増加するようになり、社会が地域によって多様化していくと、さまざまの異なる共同体社会の間で、その共同体では産出しないが需要のあるモノが商人によってもたらされるようになり、商人達が流通の中枢を握っていく。さらにそれによって蓄財した商人達が営む商品経済が共同体社会内部にまで浸透し、商品経済社会が形成されるようになると、共通の商品交換手段である貨幣が流通や交換の媒体を担うこととなるが、そこでは、私的欲望の対象化された形での価値(交換価値)が支配した商品市場での需要と供給の間のバランスで市場価格が決まり、ほとんどの場合は本来の価値(労働価値)そのものが直接には表われない。ある社会である商品の需要が高く、しかし供給が追いつかない場合には価格は高騰し、その反対に供給が過剰になれば価格は下がる。市場での需要と供給の関係は不断に揺れ動き、そのモノを生産するのに必要な社会的平均的労働時間が変わらなければ、 つねにその変動の中心になるのが本来の価値なのであるが、この時代にはまだそれを解き明かすことはできなかった。

その中で、大航海時代にはアメリカ大陸やアジア、アフリカなどから侵略や殺戮によって「無償」で略奪してきた富をヨーロッパで高く売って莫大な富を得た商人資本家達が、王権と結びついて、他人の生産物を「価値物」としての貨幣を媒介として市場で売り買いすることで莫大な私財を蓄積し、経済を支配していった。

 そして商品経済社会の全面化により、身分的階級が崩壊すると同時に、生産手段(土地を含む)も商品として扱われるようになり、それを私的に所有できる者(資本家)が実質的な支配階級となっていった。その中で中世的職人のモノづくり工房は、モノづくりとは関係のない資本家が所有経営する工場に変化していった。それは同時に生産手段からの労働力の引き離しであり、農民を含みすべての生産手段を奪われた人々は生産手段の所有者である資本家に雇用され、賃労働者として働くことによってしか生きていくことができなくなったのである。ここに「モノづくり」の世界に、生産手段を所有する資本家階級と労働力しか持たない労働者階級という2大階級が相対峙する形で登場することになった。資本主義社会の登場である。ここに至って、この社会のモノづくりへの徹底した批判を通して初めてモノの価値が社会的に必要な平均的労働時間によって決まる量を表すことがマルクスによって明らかにされたのである。

 ここでは原則として商品は市場で「等価交換」されることになっている(実際には安く買って高く売っている)が、労働力という商品は最初から不等価交換を前提としている。労働者階級は、全体としてみれば日々その労働力を養うために必要な生活資料を自ら生産しているにも拘わらず、それらの商品は資本家の所有物となっており、それを買い戻さねばならない。そのために資本家はそれに必要な貨幣を労働者に与える。これが労働賃金である。だから賃金は決して「報酬」や「所得」などではない。ちなみに、労働者は雇用されてすぐに賃金を得るわけではなく、労働の成果が上がってから「報酬」の名の下に賃金が支払われる。つまり最初の労働成果が出されるまでに必要な労働力の養成費は資本家は一切支払わない。

 しかし実際には、生産的労働時間全体の中で労働賃金分の価値を生産するのに必要な労働時間を超える労働時間から生み出される価値量は遙かに(生産性の高い現在ではおそらく何倍も)賃金のそれを超えている。この莫大な量の超過分の価値(剰余価値)を「合法的」に無償で(いうまでもなく本来は不当である)獲得するのが資本家であり、彼らはそのために労働者を雇い、生きた労働を搾取(感情的表現ではなく文字通り搾取である)しながらその剰余価値を含んだ商品をつくって売るのである。

こうして資本主義社会では、生産手段を所有する資本家達が労働力を商品としてその維持費によって買い取り、それを生産手段と合体させることで生み出される労働力自体の価値以上の価値(剰余価値)を含んだモノを取得する。彼はそれを商品市場で売って利潤を獲得することを第一義的目的とし、そのための手段として、社会的に必要なモノを含むすべてのモノがつくられるようになった。つまり資本主義社会とは、そこで働く労働者の労働が生み出したモノが資本という形となって、利潤獲得という唯一の抽象的目的のために、それを生み出すヒトとその在り方すべてを支配する社会なのである。

資本家はその資本の人格化した姿にすぎない。 しかし彼らは資本家も労働者も対等な「自由な個人」であるかのように振る舞い、業務を通じて労働者を雇用し社会のために貢献していると自負する。そして法律もこれを正当化する。こうした支配的イデオロギーが資本主義社会をあたかも階級がない社会であるかのように見せかけているのである。

 さらに重要なことは、現代(特に20世紀後半以降の資本主義社会)では、労働者の生活形態が、生活財などのモノをどんどん購買し消費することを促進させる(いわゆる内需の拡大)ように企図されているため、賃金水準もそれを前提として決められ、あたかも生活の中で「便利なモノ」が増え続け、生活が物質的に豊かであるかのようなイメージを持たされている。しかし、こうして市場に溢れる商品は、いわば恣意的に生み出された消費欲のもとにあるということを知るべきであろう。

そして労働者階級はこの金食い虫化した生活で商品の購買のために支出される自分たちの賃金がすべて資本家階級の手に環流しているのだという事実を忘れてはならない。いくら「消費生活」でモノが豊かになったかのように見えても、それは最終的には資本を増やすための手段としての消費であり、水準が高く見える賃金も資本家によって労働者に商品を買うために渡された資本にすぎない。決して資本家の所得とは同じではないことを知るべきである。生産手段は相変わらず 資本家階級が所有しており、労働者は労働力を彼らに売って生きていることには何ら変わりがないのである。そしてモノは使用価値として「ユーザ」や「消費者」のためにつくられるのではなく、それを手段とする交換価値として資本家のためにつくられている。資本主義社会ではこうしてモノづくりの目的と手段が逆転しているのである。

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