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2016年10月2日 - 2016年10月8日

2016年10月 8日 (土)

現代社会の弊害をもたらすマスプロとマスコミ

 いまアメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱問題、ヨーロッパでの排外主義的主張の台頭など大きな社会現象に共通に現れている「ポピュリズム」とは何でありどこからきたのかを考えてみよう。

 ちょっと飛躍するがそれは20世紀以降の資本主義生産様式に特徴的なマスプロ方式にその根源があるように思う。資本主義生産様式では相対的剰余価値の増大のためにいわゆる「生産の合理化」が行われ、資本構成を高めることで、利潤率の低下と商品市場での価格競争に勝つことという両面からの圧力の中でいかにして全体としての利益を上げるかが資本家的経営者にとっての最重要課題となっている。
  特に生活資料商品(耐久消費財を含む)はきびしい価格競争に打ち勝たねばならず、 高度な大量生産方式が採用されると同時に大量にそれらの商品を売りさばかねばならなくなる。そこで大量販売システムが必須となり、それを促進させる広告宣伝への投資が拡大する。そうした地盤に必然的に利用されるのがマスコミである。マスコミは政治的宣伝にも早くから用いられ、ヒトラーもそれを活用した。そして21世紀のいまではTVとインターネットという方式が主流となった。
  こうしてマスコミ(ここでは大量高速通信手段という意味としてこの言葉を用いる)を通じて商品の購買力は著しく促進されると同時に大量の人々へのマインドコントロールや思想的扇動が行われ、人々はあるマス社会現象を生みだすようになる。これが「ポピュリズム」である。
  アメリカ大統領選での二人の候補者の論戦の中身はこうして選挙民という購買者への「商品差別化」宣伝広告の様相を呈するようになる。だから肝心の政策論争や思想の表明ではなく相手のちょっとした欠点を誇大に宣伝し、ライバル商品を蹴落とすことが目指される。まったくの本末転倒である。
 そしてイギリスのEU離脱も政治家レベルではほとんど決着がついていたのに国民投票で覆され、コロンビアでのFARCと政権との和解合意も国民投票でひっくり返される。
 「大衆」はちょっとしたマスコミの宣伝に動かされきわめて感情的で目先の出来事にとらわれて態度を決めてしなうことが多くなる。「移民たちに職を奪い取られるからあの移民排除を主張する人に投票する」などなど、思慮の中身はまったく乏しいことが多いし、それをむしろ政治家達は利用する。
そもそもこうした状況は資本主義社会の生みだす必然的弊害であると言えるだろう。本来社会的生産の主役であるはずの生活者たちが資本主義社会生成の歴史の中で、生産手段を資本家達に奪われ、その生産手段を私物化した資本家たちの企業で働く労働力として雇用され、賃金をもらいながら資本家達に利益をもたらすために働き、その賃金で自分たちの労働が生みだしたにもかかわらず資本家の所有物となってしまった生活資料商品を買い戻さねば生きて行けない階級にされてしまっているのが資本主義社会である。そこでは、生産者であるはずの労働者が「消費者」(実は資本家達にとっては「購買者」なのだが)として位置づけられ、資本家側は「お客様は神様です」と言わんばかりに「消費者」を持ち上げながら、本当は商品を買ってもらうときだけ存在意義のある連中として見下している。こうして生活者(広い意味での労働者階級)は商品購買者として利益追求の手段にされてしまう。そこでは生活者は購買によりオカネとして利益をもたらしてくれる存在という「量的」な意味づけだけがあり、人々の人生や生活観、社会観という「質」の問題は基本的に度外視される。
 こうして資本家達は資本という抽象的な価値形態のみを追究し、そのための手段として社会的な生産物やそれを生み出す労働者の生活を位置づけることになり、資本家も労働者もともに中身のない「個人」となって行くことになる。
 だから深く考えさせない選挙や投票を繰り返し、そこで選ばれた人々は選挙運動での勝手な言動とは裏腹に「資本の論理」の中でうごめく「同じ穴のムジナ」であることを暴露し、結局は「経済成長」の名の下で地球資源の枯渇や環境破壊を促進させることしかできず、世界市場での競争に勝つために、国家間の対立や紛争、社会格差やテロをも生みだす原因をつくり、多くの人命や人生が奪われて行く。
 私はそう考える。間違っているだろうか?

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2016年10月 5日 (水)

シリアの子供たちを誰も救えない悔しさ

 海外ニュースでは毎日の様に、シリアでの停戦合意が破棄されて、アレッポの街が再び攻撃に晒されているニュースが報じられている。死んだり怪我をするのはほとんどが無防備の子供達や一般人である。そして病院に担ぎ込まれればそこにはまともな治療設備もなく、医者達は必至になって重傷の子供達を救うために頑張るが、さらににそこを標的としてアサド政府軍の爆撃が行われる。そして多くの子供達や医療関係者が死んでいく。ロシアはそのアサド政府軍の戦争犯罪を支援する。国連もアメリカもそれを止めさせることができない。

アレッポでの凄惨なニュースが終わるとTVからは高級化粧品のコマーシャルやサプリの広告が始まる。視聴者はこうした雰囲気に中で目に余る戦争犯罪をまるでTVの中のドラマのように「楽しんでいる」かのようにも見える。
そしていたいけな子供達が一日何十人何百人と残酷に殺されていくことを誰も止めることができない。
 人工知能を使ったハイテク機器の開発や自動運転車など「近未来の夢」を売り物にして「ソーシャル・イノベーション」をぶち上げる大企業たちを見ていると、次世代を担う若者達がそんな企業のために「一億総活躍」しなければならないことの矛盾を感じる。世界中で激烈な企業間の競争となっているIoT産業に従事しているエンジニアやデザイナーは、それに生き甲斐を感じているのかもしれないが、そのエネルギーをいま同じ地球上で次々と殺されていく子供達を救うことに向ける方がずっと重要なのではないか?という疑問をもってほしい。それなくして本当の「ソーシャル・イノベーション」などあるはずがないからである。

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2016年10月 3日 (月)

「経済成長」の行き詰まりの中でモノづくりの行き着く先は?

 いま、世界中の資本主義国(中国も含めて)では、ある意味で生産過剰状態となっているようだ。アメリカやヨーロッパではすでに「モノづくり」は自国ではなく賃金労働の安い国々で行われている。モノづくり工程の中でデザインや設計だけが本国に残っている場合も多い。 もちろんそうしたモノづくりのすべてを支配する経営は本国の資本家たちであり、海外生産拠点に投資するという立場である。日本でもいまや「モノづくり」は風前の灯火であり、大企業でのインフラ産業やハイテク産業そして特殊な技術を持った中小企業が生き残っているだけのようだ。また一方で「世界の工場」と化した中国では鉄鋼の過剰生産で多くの工場が閉鎖されていることにも見られるように基幹産業が低迷しており、家電製品などの生産もかつてのような低賃金では行えなくなりつつあるため、より労働賃金の安い国々(ミャンマーやアフリカなど)へと流出しつつあるようだ。中国では急速な経済成長を図るため外国からの投資に頼っていた面があり、こうした外国資本は中国労働者の賃金水準が上がってくればたちまちより賃金の安い国に流出してしまう傾向にある。

 モノ自体について見ても自動車は国別販売台数では中国、アメリカ、日本、ヨーロッパ諸国、が上位であるが、 アメリカ、ヨーロッパ、日本などではすでに飽和状態となっており、もっぱら買い換え需要に頼るしかない。それ以外の国々ではいわゆる富裕層や中間層がターゲットとされており、多くの人々はクルマのある生活などとは無縁である。要するに生活者の格差拡大がどんどん進んでいるということだ。

こうして耐久消費財需要はこの先伸び悩むだろう事が予測される。そのため「先進」資本主義諸国が頼みにしているのは軍需産業である。フランスしかり中国もしかりアメリカでは以前からそうであり当然のこと、そしてやがて日本も...である。

 兵器・軍需産業というモノづくりとしては最悪の形態(再生産に結びつかない破壊のためのモノづくり)が「経済成長」を支えるための主流になりかねない現状と、生活に直結するモノづくりがそれを購買できる人々の中では飽和状態となり、それを買えない人々には相変わらず手が届かないという状態を考えてもすでに生産過剰になっているといってよいだろう。
 そうした中でも安倍政権は相変わらず「経済成長」とそれに必要な「消費拡大」を目指しており「この道しかない!」などとほざいているのである。
もう「経済成長」は無理である。そもそも「経済成長」とは資本の成長のことであり、人々の生活の成長ではないのであって、「経済成長」の中でモノをドンドン買ってがらくたを増やして行く生活に「先進」資本主義国の人々は疑問を感じだしているのである。そして自分たちの生活を自分たちの手でつくり出して行くのではなく、資本の成長のために必要な消費(実は購買)の対象としてしかモノが作られず、生活者はそれを買って生活することしかできず、デザイナーによって巧みに購買欲をかき立るようにデザインされたモノを「ユーザの望むモノ」と思い込まされ、必要でないモノまでドンドン買わされていく生活に嫌気がさしているのである。いうところの「消費の減退」はそのひとつの現れであって、これはむしろ生活者の健全な判断なのである。
そしてそれでもなお「経済成長」をゴリ押ししようとする結果、フツ—のモノに飽きた富裕層はより高価ななステータスシンボル的商品(いわゆるIot製品や人工知能を用いた製品など)を求めたり、豪華クルーズ船での世界観光などにオカネを使い、モノが必要だがオカネがない人々は高価な耐久消費財には手が届かず、100円ショップ商品や安い労働賃金の国でつくられた劣悪な生活用品を買うことしかできないという現実。これが「経済成長」の結果なのである。

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2016年10月 2日 (日)

日本デザイン学会秋季大会2016に参加して

 昨日武蔵美新宿教室で開催されたデザイン学会秋季大会(テーマ「デザインの哲学〜豊かさを再考する」)に参加してきた。久々に昔懐かしい同僚や後輩に会えてそれなりに面白かった。

 午前中の基調講演では武蔵美のM先生のデザインの哲学の話があり、午後の最初は、経済産業省クリエイティブ産業課長のN女史の「デザイン政策の現状と課題」という講演があった。経産省が推進している「グッドデザイン賞」「キッズデザイン」「MORE THAN PROJECT」などなどの紹介と海外展開「クールジャパン」機構、ビジネスにおける「デザイン」領域の拡大などなど、Iot UXなど流行のタームがポンポン飛び出す流ちょうな語り口で政府のデザイン政策についてが語られた。
 私はこれを聞いて、政府は企業の尻押しをしてデザインを経済成長や消費拡大に結びつけようと懸命になっている現状を知った。しかしデザインの現状はコントロールの効かない国際市場の競争激化の中で無駄と思える消費の際限のない拡大とそれによる地球環境破壊や気候変動、資源の枯渇問題の深刻化という状況に直面しており、そうした現実を見ようとしない今の政権の立場が反映されていると感じた。政府はむしろこうした問題に対して企業の馬鹿げた競争に歯止めをかける役割を果たすべきなのだが。 しかし講演が終わるとN女史と名刺交換をしようとする人々の列ができた。まあ、いまのデザイン学の現状とはこんなものなのだ。
 そしてその後は5人のパネリストによるパネルディスカッションだった。パネリストは道具学会会長、芸術工学会会長、JIDA理事長、意匠学会会長、デザイン学会会長という錚々たる面々である。それぞれの立場から今のデザインに哲学が欠けていること、「豊かさ」とは何かといった問題について語った。私には肝心のデザインの哲学そのものについての主張がほとんどなかったように感じた。
  最後に会場からの質問の時間となったので私も手を上げた。私の質問の要旨は、あるパネリストが「デザインの対象領域は「生活世界」であり、デザイナーは「生活世界」をデザインすることはできないだろう」という発言をしていたが、それは全く正しいと思う。その場合、デザイナーという職能がどのような歴史の中で登場したかを考えるべきであり、それは産業革命とその経済的基盤である産業資本主義の台頭の中で、商品として生みだされるモノを魅力的にして販売を促進し企業に利益をもたらすことをミッションととして登場してきた分業のひとつといえる。その歴史の過程で生活者は自分たちに必要なモノを作るための手段を奪われ、それが資本家企業の手に渡り、生活者はそこで彼らのために働いて給料をもらわないとやっていけなくなった。そして生活者は「消費者」としてそれら資本家企業が作った商品を買う立場でしかなくなった。つまりデザイナーの立場は基本的に生活者ではないのであって立場が異なるのだから「生活世界」をデザインすることはできないといえるのではないだろうか? むしろデザインは生活者自身の手に取り戻すべきなのではないか?そのことについて論者はどう思うか?というものであった。
 これに対して応えは、結局、世の中全体を変えることなど無理な話であって、何とか現状をよくすることを考えるべきなのではないか、というようなことであった。
  また他の、デザインの功罪という話をした論者に対しても次のような質問をした。論者によればデザインには功としての面と罪としての面があるが罪としての面を減らしていくことによってよりよい社会ができていくのではないか、ということだったが、実は功の面がちょっと立場を変えればたちまち罪になってしまうのが現実であってこれは一つのものの両面の問題として考えるべきではないか? これに対しての応えは、まあそうだが、ものごと否定ばかりしていても始まらないので何とか少しずつでも良い方向に向かうよう考えるべきではないのか、というようなものであった。
 つまり私の質問での指摘は「ポジティブではない否定」と受け止められていたようである。私の質問の趣旨は目先のことに気を取られて何か積極的で建設的なことをやっているように思えても、実はそれが少し長いスパンの歴史で社会全体の未来を考えるときとんでもなく危ないことである場合がある。社会全体のいまおかれている状況とそこでデザイナーがやっていることと、それにたいしていまのデザイナーやデザイン論者が考える「哲学」とのギャップに気付くべきなのではないかということだったのだが。
 かくして相変わらず私の考えていることはいまのデザイン学やデザイン論の課題とは「かけ離れている」と受け止められているようであり残念なことである。
 因みに宣伝めいて申し訳ないが、私と井上氏の著書「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」(海文堂、 2014)に私のデザインに対する基本的な考え方が書いてあるのでぜひ読んで欲しい。

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